アイオロスは双児宮に足を踏み入れようとして、違和感に気づいた。
いつもならこの宮には、次元操作による結界が張られている。守護宮の主であるサガ、もしくはカノンの許可がなければ双児宮を抜けての自由な往来は出来ない。上下宮へ抜けるだけの雑兵や神官などは双子の判断により自由に通してもらえているため、結界が敷かれていることすら気づかないかもしれないが。
しかし足を踏み入れた者を敵と認識すると、途端に双児宮は出口のない迷路となって侵入を阻むのだ。双子座の迷宮と呼ばれる所以だ。
敵ではなくとも居住区への道が開く事はまれだ。特にアイオロスに対して黒サガの結界が開かれた事はない。足繁く通うアイオロスを見かねて、いつもはカノンが中へと通してくれていた。
その結界が弱まっている。
黄金聖闘士レベルの人間が強行突破を試みたら、結界が剥がれてしまうだろう。
(たとえば…この俺が)
しかし彼はまず礼儀正しく小宇宙で来訪を告げ、黒のサガへ中へ入れてくれるように頼んだ。
返事はない。普段であれば入れてくれるカノンは海界へ出かけていて留守だ。
躊躇したのは一瞬で、アイオロスは迷うことなく結界へと踏み込んだ。
結界をこじあけて覚えのある領域へと進んでいく。微細な拒絶の意思を感じたが、気づかぬ振りをして内部へと入り込む。居住区の入り口である簡素なリビングへ到達すると、ソファーへと伏せる黒髪のサガが見えた。伏せているため表情はうかがい知れないが、小宇宙の状態から察するにだいぶ衰弱しているようだ。細かな息遣いが荒くなっているのが感じ取れる。
侵入者のアイオロスに気づいているだろうに、いつものような露骨な敵意は向けられなかった。
この場合、悪いのは守護者でありながら門番の役を果たせなかったサガの方であるからだろう。
実際に敵であれば、たとえどれだけ体力が削られていようとも排斥にかかるであろう双児宮の主も、アイオロスを味方と見て無理を控えたのであれば苦情を言える立場にはない。
アイオロスは肩で息をしている黒サガの横へと立ち、接触による直診でより深く具合を探ろうと顔へ手を近づける。さすがにその手は払われた。
「そんなに弱っているのは、もう一人の君が冥界から戻ってこないせいなのか?」
静かに問うも、やはり返事はない。英雄と呼ばれる少年はサガの前でだけ年相応の苦笑を見せた。
「サガは頑固だからな…君もそうみたいだけど」
かつて誰にでも優しく大らかであったサガは、見かけによらず意思が強かった。一度こうと決めた事は覆さずに、何があろうとやり抜く。彼の潔癖な気性からして、生き返りたくないというのは何となく判るような気がした。
アイオロスはサガの横たわるソファーの真ん中へ腰を下ろした。大き目のソファーとはいえ、人がひとり乗っている状態のところへ座ろうとするのは強引だ。アイオロスの腰がサガのわき腹に触れる。これだけ友の近くに来たのは一体何年ぶりになるのだろう。しかし、目をやると視界へ広がるのは見慣れぬ黒髪だ。
「もう一人のサガは、もうここへ戻る気は無いのかなあ」
世間話をするごとく彼へと語りかける。
「……」
「俺はあのサガにも会いたいよ」
「…ハッ、アレがお前に会いたがると思うか」
初めてサガから応えが返された。呪詛のような呟きに、常の強さは感じられない。
「どうして?」
「お前こそ、何故自分を殺した相手にかまう」
「仲間を放っておけないのは当然だろ」
「…塗れ衣を着せて聖域から放逐した相手を仲間と呼ぶか。だからお前は…」
サガは嘲笑しようとして、それに失敗したのか中途半端に口篭った。
アイオロスから言わせてもらえれば、仲間を思うそれは当たり前のことで、このような態度をとるのは何も自分に限った事ではない。
ハーデスとの聖戦のおり、前非を悔いたカノンが女神のもとへ駆けつけると、聖域へ牙を向き水禍を引き起こした過去にも関わらず、蠍座のミロもカノンを同志と認め信じたという。前歴の如何に関わらず心底から平和を願い集うものを仲間と呼ぶそれは、女神に選ばれし聖闘士に共通の心持ちであり、聖域自体の懐の深さだ。
「…仲間やアテナを信じるその強さが、わたしにはなかったということか」
その想いを読んだかのようにサガがポツリと呟いたので、アイオロスは驚いた。
黒髪の彼が自分に対して心のうちを話すなど今までに無かったことだ。
「だが、どう理屈で繕われようとも、力のない者や一度裏切った相手を無条件に信じることは、わたしには出来ない」
黒のサガは言い切る。そういった部分を担当しているのは白いサガのほうだった。物事を両端から見ることで公平さを保つ二重性は、他者には伺えぬサガの複雑なありかただ。
シャカによる神の俯瞰という視点とは異なる方法で、サガは事象を捉えていた。
「君のそういう考え方も聖域には必要だと俺は思う」
内容よりも、自分へ言葉を向けてくれた事がアイオロスには嬉しかった。その返事が意外であったのか、サガが伏せていた顔を上げる。
「お前はわたしを認めるのか」
「全部認める訳ではないけどね。オール オア ナッシングなんて人間関係は無いだろう?」
そう言うと、何がおかしかったのかサガが笑い出した。
ひとしきり笑った後、ようやくアイオロスのほうをしっかりと見上げる。
「必要とされているのはもう一人のわたしだけだ。いや、アレが消えてもカノンがいる。誰も困るまい」
「カノンがいるから死んでも構わない…あっちのサガがそう思っているってこと?」
「そうだ」
厳密に言えば、昔の白サガはそうは思っていなかったのだが、黒サガはそこまで丁寧に説明するつもりはなかった。
”自分に何かあった場合はカノンが”─その言葉に嘘は無い。だが、カノンへ双子座聖衣を任せるということは、黄金聖闘士として常に最前線で死と向かい合う危険をも与えることを意味する。
白のサガは自在に振るえぬカノンの才を惜しんでいたし、自分と同様に黄金聖闘士の自覚を弟に求めていたとはいえ、出来ればその危険を弟にまわすことなく自分のところで堰き止めたいと願っていた。それゆえに常勝を自らに課していた。
現在は最大の脅威であるハーデスとの聖戦は終わり、ひとときではあるが平和が訪れている。
聖戦でのカノンの働きを認め、カノンの実力に勝るだけの敵が現れる危険が少なくなったと判断したからこそ、今度は弟を日のあたる場所へ置きたいという気持ちが勝るようになったのだろう。そのように黒サガは半身の変遷を捉えていた。
「それ聞いたら、カノンは怒ると思うよ」
「奴に話すつもりはない」
カノンが居ないからこそ打ち明けられたサガの本音。
両サガの弟に向けられた情愛を垣間見た気がして、アイオロスは羨ましいような暖かいような気持ちになる。懲りずにサガの髪を撫でようと手を伸ばすと、また邪険に払われた。
「…触れるな。わたしは貴様が嫌いだ」
「そう?」
「いつも勝手に入り込んできては、わたしの邪魔をする」
「うん」
「ここへ何をしに来た」
「サガと話をしに」
「ならばもう用は済んだろう」
端的な拒絶だった。これがあの優しいサガの中にいたのかとアイオロスはある意味感心した。それでいてこのサガにも、どこか深いところで自分の知るサガに共通する部分があるように思える。
アイオロスは引かなかった。
「いいや、まだだ。まだもう一人の君と話していない」
サガの視線にいつもの険しさが戻る。アイオロスはその目を覗き込んで頼んだ。
「もう一人の君を呼び戻してくれないか」
「それは出来ん。アレにその意思が無い」
そんな事が可能であれば、とっくに引き戻していると紅の瞳が告げている。
「では、俺の言葉を届けるだけでも」
「……」
「頼む。それも無理だというのなら、俺は冥界へ直接サガに会いにいく」
確固たる意志の篭るアイオロスのまなざしを受け、わずかにサガの長い睫が瞬いた。珍しくどうしたものか逡巡しているようだった。
横たわったまま見上げてくる黒いサガへ、アイオロスは覆いかぶさるように更に言い募のろうとして。
その時、二人はどこからか金色の粒子が部屋に降ってくることに気づいた。
それは女神の小宇宙だった。聖域中に満たされているアテナの小宇宙が、大気に溶けきれず結晶となって溢れ出したかのようだった。光の粒がキラキラと輝きながら落ちてくる。二人の身体にも降り注ぎながら、その光は目の前でどんどん増えていって人の形になった。女神の降臨だ。
光のなかから現れた少女は、慌ててソファーから立ち上がり臣下の礼をとろうとするアイオロスを制し、サガへと微笑んだ。
「割り込んでごめんなさいね」
「いや…」
「私からも話があるの。もうひとりのあなたに回線を繋いでもらえないかしら」
「向こうの協力がない限り、冥界へ他人の言葉を届けることは少し難しい」
流石に女神に対しては、黒いサガも正直なところを答える。白サガの意思を無視した冥界への強制接続は、これだけ生命力の抜け落ちている今、サガを逆に向こうの界へと引き込む危険が大きかった。女神もそれは承知のようで、判っていると頷く。
「それに関しては、デスマスクとシャカが協力を申し出てくれています。あなたが半身にコンタクトさえしてくれれば、あとはその回線を彼らが固定し、あなたを補助します」
アイオロスとサガは揃って目を見開いた。
女神はソファーの前で膝をつき、いたわるようにサガの目の高さへ視線を合わせた。
「これから伝える事は、あなたにも聞いていて欲しいことなの」
「それは、命令か」
黒サガが女神に尋ねるのは、蘇生して二度目。
少女はゆっくりと首を横へ振った。
「いいえ、命令ではありません。これは…聞いてもらえれば嬉しいという小娘の我侭よ」
慈愛に満ちた大きな瞳がサガを見る。サガは居心地が悪そうに視線をはずし、目を閉ざした。
「…繋ぐだけで良いのだな」
そう言うと、そのまま小宇宙を研ぎ澄ませ冥界の半身へと内面のセンサーを合わせていく。
「ありがとう、サガ」
女神の言葉を合図に、宮の外からもエネルギーが入り込んできた。シャカとデスマスクの小宇宙だ。
界を渡っての力場が形成され、白と黒のサガの間に回線が開かれる。
アイオロスは無意識にサガの手を握った。
黒サガの八識を通して、女神の声が静かに死界へと降りていく。
我が身に降り注いできた光の小宇宙に気づいて、冥府の白サガはハッと顔をあげた。
「アテナ…?」
タナトスの小宇宙で満ちた魂に、その光は優しく染み込んでいった。
(−2007/6/18−)