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◆墜落する星5


 サガは慄いた。女神の小宇宙は前回のように、遠く天上の彼方から蘇生を喚ぶものではなかった。
 それは思いも拠らぬ事にサガ自身の中から溢れ出している。それも黒サガを媒介として。いや、黒サガだけではない。鋭敏な双子座の感覚は、そこに蟹座や乙女座の小宇宙をも感じ取った。ということは、女神は本気なのだ。他の聖闘士の力を借りてでも冥府のサガと接触を持とうとしている。
 金色の光はこんこんと身体から溢れ続けた。その柔らかな光は身の内から泉のように湧き出ては、サガを包み込んでいく。死の世界で女神の小宇宙は確かなる生のエネルギーだ。サガを浸しているタナトスの小宇宙が、反発するようにチリチリと銀の光を放つ。
(…女神御自ら、咎人であるわたしの為などに動くとは)
 サガは申し訳なさに目を少し伏せた。
(考えてみれば、あの優しい女神が聖闘士の誰一人とて捨て置くはずもなかったか)
 溢れ出す女神の金の光はただ暖かくサガを照らすのみだったけれど、彼女の意思に背いて冥府へ留まるサガにとっては己の罪を浮かび上がらせる断罪の灯明に見えた。
 地上の世界へ向き合うときが来たのだと判り、女神の声を拾おうとサガは内なる響きへ耳を傾けた。すぐに涼やかな声が伝わってくる。
『サガ、聞こえていますか』
 双子座がただひとり心より頭を垂れる少女神の小宇宙は、強大でありながら気高く慈愛に満ちている。サガはこのような時であるにもかかわらず、無意識に口元に喜びの笑みを浮かべた。
「わたしなどの為にお手を煩わせたこと、お詫び申し上げます」
『困った人ね。そう思っても、貴方は自分の信じるところを貫くのでしょう?』
 返答の代わりに微苦笑するサガへ、女神は責めるでもなく語りかけた。
『今日は貴方とゆっくりお話がしたくて、我侭をしました』
「身に余る光栄ですが…蘇生へのお誘いならば、ご辞退申し上げます」
 女神がわざわざ自分と接触を持つ理由はそれしか考えられず、サガは先制して意思を告げる。だが女神の小宇宙にはいささかの揺らぎもなかった。その言葉は予想されていたようだった。
『理由を聞いてもいいかしら』
 サガの脳裏には真の主たる少女の姿が鮮やかに浮かんでいた。その女神へサガはきっぱりと告げた。
「わたしはかつて教皇を僭称し、聖域に背いた身。13年もの間、わたしへの疑問を抱いた者や正体を看過した罪無き者を、幾度もこの手にかけてきました。彼らを差し置いてわたしなどが蘇生を許される事は…聖域に無秩序と憎しみを呼び込みます。無意味に殺された者の友や縁者にはわたしを恨む権利がある。けれども、それは彼らにとって辛い事です」
『相変わらずね。他人を優先して自分の事は大事にしないところ…そういう貴方だからこそ双子座に選ばれたのでしょう。でも、それでは貴方はカノンが黄金聖闘士として聖域に留まる事が不適格だと思うの?』
「…それは」
 思いも拠らぬところで弟の名前を出され、サガは一瞬口ごもった。恨みの多さで言えば、大禍を引き起こした弟は桁が違う。水害で海に沈んだ街の出身者は聖域にもいる。
 サガはぎゅっと拳を握った。搾り出すように呟く。
「カノンが海界へ至ったのは、わたしの責任です」
『いいえ…それを言うのであれば、彼の前で海神の封印が解けるのを止められなかった力無い私の責でもあります。けれど、水牢を抜けた後の彼は自由でした。あの時以降の行動は、カノン自身の選んだ道』
 少しだけ女神の声が寂しさを含む。だが、それを打ち消すように女神はサガにわざと明るく告げた。
『ねえ、受ける憎しみの数で言えば貴方たちより私の方がもっと多いのよ?』
「まさか」
 黄金聖闘士であるサガには、この優しい女神が恨みをかう事など想像も出来ない。
『本当なの。私は戦女神だから…有史以来、尽きることなく戦い続けて地上を狙う敵を打ち倒してきました。その過程で生まれる恨みは敵にも味方にも積もります。私は数え切れないくらい憎まれてきたわ。貴方の言うとおりヒトは誰かを憎む権利を持っている。でも…』
 女神の小宇宙がきらきらと金の光を零す
『私の愛する人間達には赦しを持って欲しいの。どの時代でも戦の終わった後には憎しみを溶かして生きていって欲しいの。そうでないと憎しみは連鎖し蓄積し続ける。世界中の全ての人に赦しを持てとは言わない。けれどせめて聖域で、私と共に戦士として暮らす者は…いいえ、これはきっと私が憎まれたくないだけの方便』
「アテナ…」
『とても都合のよい願いであると判っているわ』
 少女は自嘲する。金の小宇宙が鈴のように揺れた。
『聖闘士になるための修行で、子供達が大勢死ぬこともあるのを貴方は知っていますね』
 唐突に変わった話題に、サガは訝しげな顔になりながらも頷く。大志のためには試練が必要だった。彼自身その事には何度も心を痛めたが、そのふるいによって人類最強の88人の精鋭が選ばれるのだ。
「はい。残念な事ではありますが、みな誉れ高き女神の聖闘士を目指したことに悔いはないと」
『そうかしら』
 女神の小宇宙が僅かに沈む。
『少なくとも城戸家の子供達は、望んで目指したわけではないでしょう』
「…それもまた、神により選ばれた運命というもの」
 むかし、サガは聖戦の記録へ目を通したことがある。それは聖戦のたびに犠牲となる聖闘士の記録といえた。しかし戦いで命を落とせるものはまだ幸運だ。聖闘士を目指す者は、その多くが過酷な修行で死んでいく。一瞬、コキュートスで氷漬けとなり埋まっていた莫大な過去の聖闘士の躯が脳裏をよぎった。あれに数倍する子供達が志半ばで消えていったのだ。
『ポセイドンのように資質を持つものだけを集めて鱗衣で強化したり、ハーデスのように冥衣装着で誰でも力を発揮できるようにすれば、修行で死ぬなんて事は起こらないわね』
「それは…」
 サガは、その言葉で双児宮の黒サガが身じろぎするのを感じとった。精神の奥底を通して、サガもまた黒サガの意思を窺い知る事が出来た。もっともその感情の洩れは、いつもすぐ黒サガによって隠匿されたが。
 黒サガはかつてそれを女神の力の無さの表れだと糾弾し、赤子として降臨した女神を排そうとしたのだ。そして神の意思に翻弄される世界を拒み、自らが地上の覇者となろうと行動に移した。慢心もした。
 だが、白サガもまた同じサガとして、黒サガと形は違えど女神に力を願ったのではなかったか。
『でも、私はそうしたくないの』
 戦女神としての強い意志と、人間の少女の繊細な心の痛みが同時に小宇宙の振動となって黒と白のサガへ伝わってくる。両のサガは黙って耳を傾けた。
『私は人間と一緒に戦いたいの。神の傀儡として代理戦をするだけの人形ではなく、人自身に強くなって戦って欲しいの…けれど、そう考えるのは私が戦女神だからかもしれないし、人に犠牲を強いているのも確か。せめて私は共に戦う貴方がたと同等でありたくて、人として生まれてくる』
 はっきりとした言葉とは裏腹に、その小宇宙には確かに悲しみも込められていた。
『愛を持つヒトという種は神と向かい合える存在だと信じています。そして時に神をも超える存在だとも思っています。私が人として生まれてくる事で神としての力が制限されても、それ以上に人としての部分が強さになると思っている』
 決意のこめられた女神の小宇宙が、静かにサガの身体へと染み渡って行く。
『いつか神々が人を認め、完全にこの地上を任せる日まで…人が人自身でこの地を護れるようになる日まで、お願い。私と共に戦ってちょうだい、私のジェミニ』
「…アテナ」
 女神から共にと乞われて拒める聖闘士がいるだろうか。サガの表層の感情など差し置いて魂が歓喜に震える。黒サガでさえも、忌々しそうにしながら女神を否定することが出来ない。ふいにサガはカシオスの言っていたことを思い出した。彼は女神が必要とするのであれば行くのが聖闘士ではないかと話していたが、この引力は義務だとか責務だとかではない。女神は聖闘士すべてにとって大切な何かの根源なのだ。逆らえるわけがなかった。
『それに、私達が生んだ憎しみを受け止め鎮めるのもまた、私達の役目だと思うのよ』
 過去の業を負っていくのは、サガ一人ではないと女神は伝える。その上で共に戦おうとサガに手を差しのばす。
(アテナが”私達”とおっしゃった)
 それだけで、サガの中のどんな理屈も消し飛ぶ。
『サガ。私には全ての聖闘士が必要なの。だから、聖域も貴方も新しく生まれ変わらせてみせるわ』

(ああ、この少女には適わない)
 サガは目を閉ざした。完敗だ。
 28年しか生きていないサガよりも、女神はずっとずっと長く人間を見つめてきたのだった。戦いへの憂いも、自らの弱さも、赦しの限界も知っている戦女神。
 彼女の優しさと平和を願う心は、戦女神だからこそ培われたものでもあったのだ。
「アテナ、わたしは」
 しかしサガが応えようとしたとき、突如身のうちから湧き上がる別の力があった。それは女神の小宇宙に反発していた銀の光。その光は強く渦を巻いて収束すると、膨れ上がって死の神の形をとり、サガの目の前へと現れた。
 突然の降臨へ驚くサガをよそに、タナトスは小馬鹿にしたような顔をしながら女神へと語りかけた。
『冥王の司る地に住まう者へ手を出すとは、貴女こそ領域侵犯ではないかアテナよ』
 女神も驚いたのだろう。一瞬間をおいて、強い語調が返される。
『三度目の生とはいえ、いまサガは死んでおりません。闘士の蘇生は各界の協定によるもの。私が自分の聖闘士を喚ぶことは当然の権利です』
『だが、この男はかつて自らの意思で死を選び、二度目は仮初とはいえ走狗として冥王に忠義を誓い、今また自らの意思でこの地にいる。この男は私に従うと言った』
 タナトスはゆっくりと手を上げた。それを合図にサガの額へ死の刻印である五芒星が強く浮かび上がる。酷い頭痛とともに思考力を奪われて、サガはうずくまった。
『ゆえに、私もこの男に権利を持つ。勝手な真似は控えてもらおうか』
『何ですって』
 五芒星が鈍い光を放つと、その分だけ地上からの女神の小宇宙が弱まった。サガが抵抗するように額に手を当てる。タナトスはその腕を掴んで持ち上げながら無理やり立たせた。
『サガ、お前の口から言ってやるが良い。汚れきった地上と冥府のどちらを選ぶのか』
 選択権を与えるようでいて、タナトスの小宇宙はサガに言葉を強制した。舌はサガの意思とは関係なく固まり、タナトスの送り込んだ言葉を紡ごうと動き始める。
(確かにわたしは駒となる事を約束した、しかし)
 女神の御前で女神を否定するような真似だけはもうしたくなかった。そうは思っても、人が神への言質をたがえることは許されない。サガは自分の軽挙な振る舞いを後悔しながら、必死でタナトスに目で訴えた。
 ”わたしを地上へ帰してくれ”
 その視線すらもタナトスにとっては座興でしかないようで、面白そうにその様子を見下ろすばかりだ。
『タナトス、貴方はサガに一体何をしたのです!』
『人聞きの悪い。三度どの生においても、全てこの男が自ら冥府と死を選んだだけのこと』
 タナトスは揶揄するようにサガへ顔を寄せ、所有の証として与えた額の五芒星をザラリと舐めた。
 サガの中の抵抗の意思が急速に落ちていく。
(今やハーデスの脅威もない。地上には後進も育っていて、わたしの力などもう不要だろう。わたしにはこの地が似合いだ…女神をこれ以上煩わせる価値もない)
 失われ行く自我の片隅で、サガが諦めかけたその時。

『お前はその程度の男か!お前が選ぶ場所など決まっているだろう。さっさと自分で戻って来い!』

 強烈な怒りの意思がサガの脳髄を貫いた。女神の声でもなく、先ほど感じたシャカやデスマスクの声でもない。その意思はまさに黄金の矢として冥府へ届き、サガの心を縫い付けた。電撃に打たれたかのようにサガの目が開かれる。
『私がそこに居たら、アテナにここまでご心配をかけるとは何事かと殴っているところだぞ!』
 サガの覚えている彼のままの苛烈な正義感。その土台にある仲間への深い信頼。
 女神に対してのものとはまた別の奮えが湧き上がる。
「ア…」
 アイオロス、と呼ぼうとして舌の動かない事に気づいた。だがそんなことはどうでも良かった。言葉などなくとも、魂が叫ぶ。黒サガを通して彼が地上に蘇生した事はとうに知っていたのに、直接声を聞いただけで歓喜と希望が身体を駆け巡る。
『女神も、カノンも、お前の半身も、シュラ達も…仲間が皆お前の戻りを待っているのだぞ。この私もだ!なのにお前は何をしているんだ』
 本当に怒った時の射手座は炎のようだ。本気を見せたアイオロスは、普段の気さくな様子を一変させる。誰よりも厳しく、そして優しい彼をサガはよく知っていた。叱られながらも喜びしか沸かなかった。
(帰らなければ)
 生きて戻り、皆と話さなければならないことが山のようにある。そのことにサガはやっと気づいた。
 瞳に強い意思の光を取り戻したサガは、ゆるりとタナトスを見つめ返す。遊戯とならぬ反抗を好まぬタナトスは不快そうに顔を歪めた。
『所詮、人の身でありながら女神に刃を向けたお前の本性は悪…このタナトスにも同様に逆らうか』
 対照的に、サガはふっと笑みを見せた。
(お前の本性は悪…か。カノンが、同じような事を言っていたな)
 13年前、女神殺害を示唆した弟を、サガはどうしようもなく怒りで諭した。自身に潜む黒い心のことを突きつけられた動揺もあった。勿論それだけではなく、悪事のみを好むようになってしまったカノンへの悲しみや不安・心配…そんな全てが渦巻いていたが、それを伝えることはあの時のサガには出来なかった。
 動かぬ舌の代わりに、サガは小宇宙でタナトスに伝えた。
『タナトス。わたしは貴方を嫌いではない』
 カノンにも最初にそう言えば良かったのかもしれない。
『死という居場所を与えてくれたことを、わたしは今も感謝している。貴方の傍は居心地が良かった』
 タナトスの表情に、虚を衝かれたような色が浮かぶ。死を感謝されたことなど、まれなのだろう。
『地上の方が住みにくい場所であるかもしれない。それでもわたしは行かなければならない』
 すっとサガは膝をついた。
『わたしが地上へ戻る事を許して欲しい』

 しばらくタナトスは黙って双子座の聖闘士を見下ろした。サガが本心から彼へ膝を折るのは初めてのことだった。人が神に跪くのは当然のことで、常のタナトスであればそのような事は歯牙にもかけない。
 だが沈黙ののち、タナトスは吐き捨てるように一言だけ呟いた。
『フン、生に希望を見出す人間など趣味に合わぬ。お前の顔など当分見たくないゆえ、即失せよ』
 その言葉と共に身を縛っていた拘束が消えていることに気づいて、サガは乾いた舌を動かしてみる。息をゆっくりと吸い込み、今度こそタナトスに対しての微笑みを浮かべた
「ありがとう、タナトス」
 死の神の干渉が抜けたぶん、サガの身体には女神の小宇宙がまた満ちてきた。金の光がサガの身体をどんどん包み込んでいく。この光と半身の引力を逆に辿れば、生の世界へと戻る事が出来るだろう。
 サガは天を見上げた。
「女神、アイオロス…お待たせした」
『全くだ』
『全くだわ』
 同時に声が上がる。サガはもう一度だけタナトスを見ようと横を向いたが、いつの間にかそこにもう神の気配はなかった。

(ありがとう)

 何者に対してと定めることなく、サガはあらゆるものへ感謝の気持ちを捧げると、最後に自身の半身へと語りかけた。
「わたしを、受け入れてくれ」
 赦しと許容が女神の願いであるのなら、サガもまた自身の中の暗黒を認めなければならない。
 自身の弱さを許すことはまだ出来なくても、黒サガを知るという事はつまり己に向き合うという事だ。
「わたしも、お前を受け入れようと思う」
 精神の最奥で、何かが緩やかに溶ける。

 サガの魂は女神の光を道標にして、黒サガ達の繋いだ道を一瞬にして鳥のように翔けた。



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(−2007/7/10−)

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