ひんやりと涼しい石造りの海底神殿で、サガは弟のものとされる鱗衣を見下ろしていた。
床に置かれた鱗衣の後ろには『SEADRAGON』の銘の入った高い台座があり、普段はその上に保管されているものと思われる。
鱗衣修復への協力依頼をポセイドンより賜ったため、サガは先ほどソレントに案内されたこの場所で海神の訪れを待っているのだった。
視線の先にある海龍を模ったそれは、明るい暁色に輝いていて、アテナの聖衣とはまた違った風格を感じさせた。ただ、惜しむらくは胸部と思われる正面パーツの部分に大きな亀裂があり、それが見るものに痛々しさを覚えさせる。
サガは、自分が胸を突いた聖域での自決を連想した。
(胸を貫かれる罪人…双子だからといって、そんなところまで似なくて良いものを)
そう自嘲しかけて頭を振る。星矢たちから聞いたところによれば、カノンの傷は海神から女神を庇ったことによるものであり、自分の咎痕と同じには出来ない。
迷想を払うとサガはそっと膝をついて、海龍の鱗衣と視線の高さをあわせた。
双子座の重厚な外観と異なり、滑らかな流曲線で構成されている海龍のフォームは本当に海の生き物のように見えて、『目つきの悪いところがカノンに似ているな…』とサガを微笑ませた。
手を伸ばして、鱗衣の冷たい外郭に触れてみる。途端に、鱗衣がキン…と戸惑ったような反応の波動を起こした。
主であるカノンと全く同じ小宇宙を持ちながら、海龍ではないその存在が何者であるのか判らず警戒しているのだろう。
カノンを装えば自分が纏える可能性もあるだろうかとサガは僅かに考えていたのだが、瓜二つの相貌を持ち小宇宙すら同質である双子の相似性も、人ならぬ鱗衣には通用しなかったようだ。
聖衣に独自の意思があるように、鱗衣にもただ一人の主を選別する意思がある。
双子座聖衣は例外的に二人の主人を認めているが、それでもサガとカノンが同時に聖衣を呼べば、正常時なら正規のジェミニとされるサガを優先して飛んでくる筈だ。
聖衣も鱗衣も個々の鎧の性格差があるものの、纏う主人に対する選別基準は基本的にシビアだ。神を護ることを目的に人間を選ぶのだから、その基準が厳しいのは当然といえば当然であるが。
それを思えばこの鱗衣は、本当によくカノンを見捨てないでくれたと思う。
カノンは鱗衣の支配神であるポセイドンを謀っていただけでなく、最後に海神がアテナに一矢報いようとした怒りの一撃をも妨げたのだ。女神の前に飛び込んだカノンを、海神に仇なす異分子と見なして装着解除されても仕方がなかった筈だ。
身を覆う鎧なしに海神の矛を受けては、さすがのカノンも一命をとりとめることは出来なかったろう。
「よく、弟を護ってくれた」
サガは万感の想いを込めて、海龍の鱗衣に感謝の視線を向けた。
ふと神殿に神の意思が満ちたかと思うと、サガの背後にジュリアンの姿をしたポセイドンが形を成して降臨してきた。
雄大な小宇宙をたなびかせ、泰然と滑るように近づいてくる神に対し、双子座は振り返って跪き、敬意をこめた礼を取る。
ポセイドンは無駄な時間をおくことなく、サガの意思を問うた。
「ジェミニよ、その鱗衣に血を与えるという言葉、偽りはないな」
それに対し、サガは黙礼で是と答える。
海神は、再度サガに確認をとってきた。
「重ねて聞くが、黄金聖闘士であるお前が、その血を海界の鱗衣に与えるということの意味も判っておろうな」
黄金聖闘士の血による補修を受けた聖衣は、たとえ青銅クラスのものであっても、纏い手の小宇宙次第で、限りなく黄金聖衣に近い硬度と煌きを持つことが可能になる。ポセイドンの鱗衣に同じ事をすれば、海神の護りに加えて双子座の星の守護が付加され、聖闘士の小宇宙では壊しにくい頑強な鎧として強化される。
その鱗衣は女神の聖闘士の小宇宙に対する絶大な耐久力を得るだろう。それは他界の闘士の防御力強化に他ならない。また、黄金の血によって、聖域の結界にも弾かれなくなる恐れがある。
聖域はそれを許すのか?と訪ねているのだった。
海神の気遣いにサガは顔を上げ、穏やかに告げた。
「ご配慮に感謝いたします。しかしそれは無用の心配にございます」
実際にはそこまでの許可を得て海界へ来たわけではないが、サガは自分の判断に問題は無いとの自信はあった。それは過去の教皇職における数々の認可裁定の経験による予測ではあったが、たとえ聖域がその行為を否と断じたとしても、サガは弟の鱗衣に血を与える決意をしていた。
「ポセイドン様は先の聖戦のおり、女神への助けとして黄金聖衣をエリシオンへお送り下さったと聞き及んでおります。あれなくしては我が陣営である青銅一同、おそらく神聖衣に至るまでの時間を稼ぐことなく、また黄金の星の加護を受けることなく全滅しておりましたでしょう」
あのとき、黄金聖衣とともに届けられたその聖衣の主達の魂が、神聖衣への昇華の兆しを青銅たちにもたらしたとサガはみていた。
「聖域は海界に対して借りがあると私は考えております。その借りを思えば、私ごとき一介の聖闘士の血など、安きものと思し召し下さい」
たとえ海神に思惑あってのこととしても、恩義に報いることは聖闘士としての自分に矛盾しない。なにより、カノンの身を護る手立てに、サガは兄として関与しておきたかった。
この血をカノンの鱗衣に飲ませておけば、自分がたとえ死して魂となっても、アイオロスが残留思念となって射手座聖衣に留まったように、海龍を守る事が出来るかもしれない。
それはかつて双子座の影として虐げた弟への贖罪の気持ちの表れでもあった。
深く頭を垂れたサガのいらえを聞くと、海神は鷹揚に頷き、近づいてその左腕手首をとった。
そうして腕を引き上げるようにして立たせ、その手首を持ったまま海龍の鱗衣の上へとその手をかざさせる。
サガが注視するなか、ポセイドンの小宇宙の一端が刃のように煌いて、サガの手首から肘にかけての肉がサクリと切り裂かれた。
その裂け目から鮮血がにじむように溢れ、サガの白い肌を伝わって手首の方へ垂れてくる。
神の小宇宙はそのまま腕を包み、サガの血と混ざりながら、ゆっくり一筋の赤い滝となって鱗衣へと零れ落ちていく。
不思議なことに、これだけの傷口でありながら血が周囲へ飛沫を散らせることはなく、また、あるべき痛みも無かった。神の気に触れた傷口と掴まれた手首が、燃えるごとくただ熱い。
大量に流れ落ちていく血液の代わりに、海神はサガにも小宇宙を分け与えて補充のたすけとした。サガの中に注ぎ込まれるポセイドンの小宇宙が、満ち潮のように内部を満たす眩暈と陶酔感を与える。
随分と優しい神だとサガは苦笑いした。
ポセイドンは厳しい男神だが、地上のあらゆる命を育む海の愛の深さをも併せ持っていた。
戦神である女神の愛と形は異なるものの、ポセイドンもまた人間へ慈悲を向ける神の一人である。カノンが他界にて仕える神が彼で良かったとサガは心の奥底でどこか安堵し、流れ落ちる血の先、鱗衣へと意識を向ける。
海龍の鱗衣は未だ戸惑う気配を漂わせていたが、構わず自分の小宇宙をリンクさせ、言葉を越えた意思を伝えた。
(シードラゴンの鱗衣よ…お前にとっては聖闘士の血を受けることなど、望まぬことかもしれない。だが、私はお前の主の肉親であり、これは海神の意思によるもの…弟を思う兄の気持ちに免じて、私にも弟を護る手助けをさせては貰えまいか)
サガは無心に海龍へと祈り続けた。
やがてサガの身体から1/3ほどの血液が零れ落ち、意識を失って海神に支えられた頃には、鱗衣の穴は綺麗に埋まり、光沢は以前よりも深みを帯びた輝きを増して治癒を果たしていた。
サガの血を存分に浴びて満足した海龍はポセイドンの小宇宙に共鳴し、喜びの波動を発している。
鱗衣の完全復調を確認した海神は、サガの腕へと指を走らせ、輸血のために裂いた血管を元通りに塞いだ。みるまにサガの腕は、傷などどこにもなかったかのように白い陶器の肌へと戻っていく。
ポセイドンはサガを抱き上げるとその場に背を向け、彼を寝所で休ませるべく鱗衣の間を後にしたのだった。
(−2006/10/28−)
これ以降、白サガも海龍鱗衣に認められ、着用だけは許してもらえるようになります(黒サガは不可)。が、サガは「これは弟のだし、自分は聖闘士だから」と纏わないのでした。
…というどうでもいい裏設定有り。ついでにポセ×サガやりたい…
鱗衣は真珠色とか青銀系とか、海っぽい色が良かったなあと思うのですが、きっとそれだと海背景をバックにした時に映えないのでああいう色なのでしょうね。