陽が沈むまでのあいだ、星の子学園で力仕事をめいっぱい手伝った星矢とサガは、その後ささやかながらも心の篭った夕飯をご馳走になった。
もちろん1番お代わりをしたのは星矢だ。学園に住むもの全員で囲むテーブルは賑やかで、子供たちはサガが感傷にひたる暇も与えない。我さきに話しかけようとする幼子が喧嘩をしないよう、サガは穏やかに、平等に相手をしている。それでいて、自分のペースを崩す事もなく、用意された食事をきちんと平らげていく。
行儀よく食べるサガににつられて、子供たちの食べ方も、いつもより丁寧だ。そのことに気づいた星矢は、こっそり感心していた。
「サガさんて、本当に保父さんに向いていると思う」
美穂も同様の感想を持ったのだろう、星矢の茶碗に三杯目のおかわりをよそいながら、昼間と同じことを言っている。
取り囲む子供達が楽しそうであるだけでなく、サガもまた楽しそうだ。まだ2度目の来訪にもかかわらず、すっかり場に馴染んでいる。
(サガにとっては、このままずっとここで暮らす方が)
そう思いかけて星矢は首を振った。そういうわけにはいかないのだ。
「もっとサガに向いている仕事もあるし」
ぽろりと零したひとりごとを、幼馴染は会話として受け止めた。
「そうなの?」
「あ…ええと、まあ、うん。サガは何でも完璧にこなすから」
黄金聖闘士という単語が口から出かかり、慌てて曖昧に誤魔化す。双子座としてのサガを知っているものならば、誰しもサガの天職は聖闘士であると断言するだろう。黄金聖衣をまとい、敵に対峙するときの彼は、戦天使もかくやというほど輝いている。
しかし、聖域ぎらいの美穂の前でその話をしていいものか、星矢には掴みかねた。また、聖域から逃げてきたサガの前で、黄金聖衣が似合うなどと口にするのも流石にはばかられる。
幸い美穂は気に留めなかったようで、空になった星矢の茶碗をとると、ごはんを大盛によそった。
「確かに、サガさんて何でも出来そう。でも何に向いているかより、サガさんが何をしたいかのほうが大切じゃないの?」
「うーん、まあ…そうなのかな」
言われて脳裏に浮かんだのは、初めて出会ったときの教皇姿だった。かつてのサガは、シオンを殺しアイオロスを排除してまで地上の覇権を望んでいたのだ。しかし、今のサガが地上の神だとか神の代理人の地位だとか、そんなものを望むとは思えない。昔とて野望を持っていたのは、闇の意志を持つほうのサガだけであったし、その彼も最終的な望みは地上の平和であった。そして、その時の黒い思念は、星矢との戦いで浴びた正義の盾の光によって浄化されている。
(では、今のサガは何を望むんだろう)
聖域から逃げたサガを見つけたとき、これがあのサガかと内心で星矢は驚いたものだ。
彼には生きようという意志がまるでなかった。
死ぬことが出来ないから、女神が望むから生きている。ただそれだけ。
贖罪以外の目的がないのだ。
星矢はちいさく溜息をついた。
(まずは落ち着いて自分を振り返ることが出来るようになるまで、ゆっくりして欲しいよ)
そのために日本まで連れてきて匿っているのだから。
星矢はサガのほうを見た。視線に気づいたサガが、こちらを見る。
「星矢」
「な、なに」
突然名前を呼ばれて、心臓が跳ね上がった。サガは指を自分の頬に当てるゼスチャーをしている。はっと気づいて自分の頬に手をやると、ごはん粒がついていた。二人のやりとりに気づいた美穂は、こらえることなく笑い出している。
「星矢も大きな子供のようだな」
サガの言葉には星矢を馬鹿にする響きはまったくない。むしろ慈愛の篭った瞳で星矢を見ている。
それが判っていても、星矢は何となく悔しくなった。後輩から友達に昇格しても、サガにとって自分はまだまだ子供なのだ。こちらからしてみれば、サガのほうが余程危なっかしくてもだ。判っていた事だけれど。
「確かに俺は子どもだよっ、ごちそうさまっ!」
赤くなった顔を隠すために、星矢はぶっきらぼうに立ち上がり、洗い物を台所へと運んでいった。
星矢が席をたったのを皮切りに、子供達も食卓から自分たちの部屋へと戻っていった。当番の何人かは星矢とともに台所に立っている。その場には美穂とサガだけが残された。
「怒らせてしまったろうか」
見送ったサガは、首を傾げた。もちろん星矢のことだ。
「あれは、照れてるだけですよ。星矢ちゃんて、好きな人の前だとぶっきらぼうになったりするんです」
美穂は慣れた手つきで日本茶を入れていた。先日の来訪のときに、サガが緑茶を気に入ったことを覚えているのだ。
「星矢のことを、よく理解しているのだな」
「幼馴染ですから」
美穂はふふっと笑い、ことりと湯飲みをサガの前へ置く。
「星矢も星の子学園の出身だったと聞く。ここなら彼も幸せであったろう」
もちろんサガは、他意なく褒めたのだ。しかし、美穂はサガをじっと見つめ返した。表情は変わらなかったものの、瞳の底にある色は、怒りのような悲しみのような、強い意思をあらわしたものだった。
不思議な反応にとまどったものの、理由は直ぐに語られた。
「サガさん、この施設がどうして星の子学園という名前なのだと思いますか」
「きらめく星のように、どの子供も輝いて欲しいという願いがこめられているのではないか?」
「普通は、そうですよね。私もそのつもりでいます。でも」
美穂は少しだけ言いよどみ、それでもきっぱりと言った。
「ここは元々、今は亡き城戸光政の非嫡出子のための施設だったんです。聖闘士候補生として送り出すため、籍に入れることもせず。聖闘士って星の加護を受けている人たちなんだそうですね…だから、星になれるように、星の子学園。100人もの子供達は、聖衣を持ち帰るという命を受けて、望まぬ地に振り分けられました」
サガは言葉につまった。本来、聖闘士候補生はどんなに幼くとも、その意志に反して修行が課せられることはない。本人の強い決意なしには、死ぬほど厳しい修行を乗り越えることが出来ないからだ。やる気のない者にかける時間は無駄だ。行くあての無い戦災孤児や、戦士となることを望むものの中から、星に選ばれたものたちが自然と集まってくるのが聖域であって、城戸光政のしたことは、テロリストが戦力を増やす為に子攫いをする行為と変わらない。
しかし、当時の黒サガは…自分は、城戸家の差し出した候補生を受け入れた。細かい事情は知らなかったものの、成り上がり者のやっかい払いであろうと決め付け、あえて深く調査をしようとしなかった。来るべき聖戦のために、一人でも多くの才能ある子供が欲しかったのだ。
美穂の言葉は、そのままサガへと突き刺さる。
「城戸光政の子供達が全員旅立って行ったあとも、城戸財閥は変わらぬ援助をしてくれます。罪滅ぼしのつもりなのかもしれません。いろんな立派な事情があって、そのお陰で星矢ちゃんが聖闘士とかいうのになって世界を救ったんだって後から聞いても、それでも私は納得できない。神様同士の喧嘩なら、神様だけでやってほしい」
サガはひとことも漏らさぬよう、美穂の言葉を聞いていた。
(この娘は、とても優しい子だ)
他人のために、当時の子供たちに降りかかった理不尽へ怒りを向けている。そして恐れてもいる。いつまた子供達が聖域へ連れて行かれるのではないかと、不安なのだ。
聖域を嫌いだという美穂の感情は、彼女の立場であれば至極まっとうなものだ。ただ、聖域を知らないがゆえの誤解も持っている。サガは言葉を選びながら、ゆっくりとまずは詫びた。
「知らなかったとはいえ、無神経なことを言ってすまない」
「あっ、いいえ!サガさんは悪くないんです。謝るのは突然こんな話をした私のほう。八つ当たりですよね。ごめんなさい」
「星矢ともこういう話を?」
「ごくたまに。でも、星矢ちゃんも戦いの事とか話したがらないですし、城戸光政の話は…もう過去のことだって」
血なまぐさい聖戦のことなど、知らないまま遠いところにいて欲しいと幼馴染に願う気持ちは、星矢でなくとも闘士たちの共通するところだろう。大事に思うあまり、説明不足になってしまうという経験は、サガにもある。多分星矢は、聖域の表層的な部分…普段の生活とか、大まかなシステムとか、そんな事しか話をしていない。
サガは聖域を庇う為ではなく、美穂を安心させる為に言葉を紡いだ。
「君の怒りはもっともだし、神が人の運命をいたずらに弄ぶべきではないと、わたしも思う」
「サガさん…」
「ただ、聖戦が神同士の喧嘩というのは誤解だ」
「違うんですか?星矢ちゃんの話だと、神様同士が配下の人間をつかって闘うって。だから権力争いのようなものだと思っていたんですけれど」
サガはゆるやかに被りを振った。
「確かに、表層だけ見ればそのとおりかもしれない。けれども、少なくともアテナの関わる戦は…神と人との戦いだ。いや、戦いですらないな。神がその大いなる力をもって人を支配し、粛清し、汚れた世界を滅ぼそうとした歴史だ。アテナはただ人間への好意と愛でもって、そこに割って入ってくれているだけなのだ。結果として神々同士の戦いに見える」
美穂は目をみひらいて、話を聞いている。
「アテナは戦いの女神。蹂躙されるだけであった人間に、闘うための力と場所をくださる。それが本来の聖域の役目。だから、きちんと機能していれば、星矢の兄弟たちのように、望んでいないのに子供が集められるようなことは、もうない。安心していい」
「きちんと機能していれば?」
不思議そうに復唱した美穂へ、サガは苦い笑みで答えた。
「当時、教皇を殺して成り代わり、聖域を混乱させていたのは、このわたし」
「……!」
絶句している美穂を、サガは変わらぬ穏やかな目で見た。
「そんなわたしを、星矢は倒して止めてくれた。アテナは聖域に戻り、現在は正しき後継者が教皇となるべく動いている。だから、貴女はもう聖域に子供を奪われる心配をしなくても大丈夫」
「サガさん…」
サガは先ほど美穂がいれてくれた湯飲みを手にした。静かに口をつけると、それは少し冷めていたが、茶葉の甘みが口に広がる。
「考えてみれば、こんな罪人が子供達のそばにいるほうが心配だろうな。黙っていてすまない」
「………」
美穂はしばらく下を向いて黙っていた。サガも何を言うでもなく、お茶を最後まで飲みほす。
(ごく普通に生きている人々からしてみれば、人殺しと二人でいるというだけでも怖いだろう)
彼女が顔をあげたときに向けられるであろう、恐怖や蔑みの視線をサガは覚悟していた。それは当然のことで、自分が負うべき罪科のひとつだ。美穂の手元をみると、ぎゅっと強く握られたまま震えている。
自分の方が遠慮して席を立ったほうが良さそうだと判断し、サガが立ち上がりかけると、思わぬ強い声が呼び止めた。
「サガさん。今日来たばかりのときのお話、私も聞いていました」
「?」
「卑下禁止だって、星矢ちゃん言ってましたよね」
「あ、ああ」
「過去になにがあったのかは知りません。でもサガさんが自分を貶めるような事をいうのは、きっと星矢ちゃん怒ります」
「しかし…」
「星矢ちゃんは、本当に危険だと思うひとをここに連れて来たりはしません。それに、私だって、多少は人を見る目はあるつもりです」
上げられた視線は、気負うでもなく、まっすぐにサガを見つめていた。それだけでなく、顔をこわばらせながらもニコリと笑ったのだ。
「あ、星矢ちゃんが『城戸光政のことは過去の事だ』って言ったの、こういうことなのかな。過去のことで、今の誰かを嫌ったり憎んだりしても、しょうがないですものね」
それは自分に言い聞かせているようでもあった。事実、そうなのだろう。納得がいかなくても、感情がまだついてこなくても、自分ではない誰かのために(ここではサガや子供達のために)美穂は過去を流そうと努力している。今すぐは無理にでも、表面上だけでも、そうしようとしてくれているのだった。
(わたしのことが、怖くないはずは無いのに。星矢の兄弟たちが理不尽な目にあう原因となったわたしのことを、恨みに思わないわけはないのに)
それなのに、何の力もなく、か弱いはずの娘が、世界でも最強に近いはずの自分を気遣ってくれる。
(この女性は、わたしなどよりも、ずっと強いのではないだろうか)
そう思った途端、心の奥底でざわりと何かが揺らぎ、うごめくのを感じた。幾重もの壁の内側に隠れていたものが、にじみ出すような感触。かつて嫌になるほど覚えのある、人格交代の感覚。
口元を押さえ、うずくまったサガを見て、美穂が驚いたように駆け寄ってくる。
「サガさん!」
「…近付いてはいけない」
制したサガの髪は、美穂の目の前で見る間に黒く変わっていった。
(−2010/7/22−)