星空が降りてきたかのようだと、美穂は思った。
サガの髪の色が闇に染まるにつれて、圧倒的な力と畏怖がその場を支配する。その変化は、小宇宙など感じ取ることの出来ぬ美穂ですら竦ませるものだった。暗黒が何もかもを飲み込んでゆく。それでいて、彼の輝きは失われることなく、むしろ深淵のなかへ幾億もの星屑となって広がり、きらめいている。
蒼から紅へ色彩を変えた瞳と目があうと、意思とかかわりなく身体が震えた。けれどもそれが恐怖によるものか、紅玉よりも美しいその瞳のせいなのか、美穂には判らなかった。
蛇に魅入られた小鳥のごとく、美穂は動けずにいた。
「…ただの小娘ではないか」
黒髪のサガが呟く。彼が何を言っているのかすら、気に当てられた美穂にはすぐさま理解できなかった。
「侵食を感じて出てきてみれば…この娘が、わたしよりも強いと、お前はそう判じたのか?」
わけがわからないといった風に、うずくまった姿勢から黒のサガが美穂の顔を見上げる。
先ほどまでのサガとまったく同じ造形でありながら、先ほどまでのサガでは決してありえない表情だ。
「なまなかな相手であれば、打ち倒してくれようと思ったものを…」
黒のサガもまた実のところ困惑していた。女神の盾で吹き飛ばされたあと、『サガ』が自害したところまでは理解している。死後は主人格の一部として吸収され、そのあとはずっと意識が形作られることもなく、眠っていたのだ。
それが突然、押し出されるようにして呼び出された。
理由はわかっている。サガの心を覆っている壁が崩されたのだ。誰かが壁の中へ入ってきた。だから排除者としての黒サガが起こされたのだ。
しかし、壁のなかへ入れるのは、サガが認めた相手だけ。強者のみのはずなのに。
「お前は何者だ」
独り言めいたその問いへ、ようやく己をとりもどした美穂が答える。
「ただのこの施設の管理人です…サガさん、髪の色が変わるんですね」
人格変異を起こしたことは明らかなのに、自分をサガと呼んだ相手へ、黒のサガはまた理解できないという視線を向ける。
「わたしを、サガだと?」
「違うんですか」
「いいや…わたしは…わたしもまた、サガ」
名乗りながら、黒サガはすばやく自身のなかから記憶を拾い上げた。見慣れぬ場所にいる理由、目の前の娘の名前、ここが日本であることなど。
どうしたものか脳裏で計算をしていた黒サガは、続いた美穂の言葉に今度こそ目を丸くした。
「サガさん、苦しそうでしたけど、具合は悪くないですか。大丈夫ですか」
美穂からすると、何が起こっているのか判らないものの、世界には実在する神々がいて、聖闘士が人を超えた力で戦っているということは知っていた。それなら、もしかしたら聖域から来たサガも人間ではないのかもしれないし、人間でないのなら髪の色や人格が多少変わる程度、不思議ではないのかもしれないと判断しただけだ。
人外であろうと人殺しであろうと、苦しんでいるなら気遣う。美穂にとっては当たり前のことだったのだが。
「…二人目だ」
憮然と返された言葉に、美穂はとまどう。
「いや、ペガサスですら気遣ったのはアレに対してだ。なおかつペガサスはわたしに比肩する力を持っていた。お前は弱いくせに、怖れで震えているくせに、わたしを案ずるだと?どういうつもりだ」
「え?え?私、何かおかしなことを言いましたか?…あ、ペガサスって星矢ちゃんのことですよね」
ほとんど会話にならぬ噛み合わなさである。
黒髪のサガはしばし黙りこみ、検分するように美穂を見た。
「ミホとやら、お前はわたしがお前に害をなすとは思わぬのか」
少しして掛けられた言葉に、今度は美穂が驚いた顔を見せる番だった。美穂は見知らぬサガの力を本能的に恐れはしても、自分を害する可能性など考えもしなかったのだ。
「サガさんが、私を害する理由がないです」
「理由などなくとも」
「それに、サガさんは星矢ちゃんを友達だって言いました。星矢ちゃんのお友達に悪い人はいません」
「…たった、それだけの理由で」
呆れきったような、途方にくれたような、苦虫を噛み潰したような、それら全てをまとめた面持ちで黒のサガが呟く。彼は深いため息をこぼした後、立ち上がって美穂を見下ろした。
かよわく何の力も持たない一般人の娘。小宇宙を使うまでも無く片手で縊り殺せそうな細い首。
だが、黒のサガは自分がもう彼女を殺すことができないことだけは理解していた。
力をもって壁を越え、サガを侵食しようとする者を、同じように力で排除することは簡単だ。しかし、そうでない方法で入り込んできた相手を排斥するすべは知らない。また、既に壁の中へ踏み込んでしまった者へ手を出すことも出来ない。サガが受け入れた者を壊すことは、サガを壊すことにも繋がる(現在そうして手を出せない相手は、沙織とカノンと星矢だ)。なにより、彼女は自分をサガと呼び、この姿を見たうえで身を案じた。
「…たった、それだけで」
サガは再び繰り返した。今度は己に対してだった。永きに渡って他人を退けてきたというのに、聖域から出たとたんに、こんなにも他愛なく、簡単に心が開かれていく。
自分がいかに聖域という世界しか知らなかったか、思い知らされる。
聖域では、何だかんだいって、力を持っているかそうでないかが基準であった。力の有無で青銅・白銀・黄金の格付けがなされ、教皇が彼らを支配し、そして全ての頂点に女神が君臨する。
教皇と女神はサガにとって脅威だ。何故なら力を持つものだから。認めたくは無いが、同輩のアイオロスもまた脅威の1つである。そんな連中を簡単に心のうちへ入れるわけにはいかない。弟であるカノンと、実際に自分に勝った星矢や沙織は仕方が無いとしても、それ以外の者を認めるわけにはいかない…いけなかったのだ。
だというのに、この娘は何なのだ。
何の力も持っていない。知り合って間もない平凡な小娘であるはずだ。
脅威では全くない。だから排除する必要も無い。
いや、これほどの短期間でもうひとりのサガに認められたということが、そして自分がそれを受け入れつつあるということ自体が脅威ではないのか。
それは黒のサガにとっては未知の感覚であり、ほとんど恐怖でもあった。
もちろんそんな感情を表に見せる彼ではなかったけれども。
ロドリオ村の人々や雑兵たちと、彼女と一体何が異なっているのか、一心に黒サガは考える。
「あの…お茶のお代わり入れましょうか。飲んだら少し落ち着くかもしれませんし」
聖域ではありえない対応をされて、黒サガは完全に混乱した。
洗い物と片付けを終えた星矢が戻ってくると、美穂とテーブルを挟んだ正面に、黒髪のサガが無言のまま湯飲みを手にして座っていた。
「え、えええ、サガ!?」
思わず声をかけると、予想外のことに、美穂ではなくサガのほうが安堵の視線を向けてくる。ただ、それはほんの一瞬のことで、すぐにいつもの傲岸不遜な色が浮かべられた。
美穂が星矢の分も湯飲みに茶を注ぐ。
「星矢ちゃん、おかえりなさい」
「あ、ああ、うん。ええと…どうしたんだサガ」
消えたと思っていたもう一人のサガが現れたことも、美穂が動じていないようにみえるのも、星矢にとっては不思議なことだらけだ。
「それは、わたしのほうが聞きたい」
堂々と心もとない返事をされて、星矢はますます首をかしげた。美穂のほうを見たものの、美穂とてサガの内面を理解しているはずもない。
「聖域のお話を伺っていたら、急に苦しそうにして…気づいたらサガさんの髪の色が変わっていたの」
変わったのは髪の色だけじゃなかっただろうというツッコミを、星矢は呑み込んで押し殺す。
「ごめん、驚いたろ。サガはちょっと特別で…その、何もなかった?」
「何もありません。もう星矢ちゃん、サガさんの前で!」
失礼でしょ、とまた美穂は繰り返した。サガは茶を飲みながら、美穂のほうをみやる。サガに脅かされたことや小娘呼ばわりされたことを、彼女は話すつもりはないのだ。
非礼に対して礼節で返されたことを、黒サガは『借り』と捉える。
そして基本的に、身内と判じたものへは、比較的素直であった。
「いや、その娘はかなり驚いたはずだ。殺そうとしたからな」
「えええええっ」
「またサガさんたら!害をなすと思わないのかって言っただけで、ホントに何もなかったんだから!」
星矢は目を白黒させた。星矢にはわかる。サガの言葉にも美穂の言葉にも嘘はない。
サガが本気で殺そうとして成せない筈はないので、何かがサガを留めたのだ。
「美穂ちゃん、サガを信じたんだ?」
「信じるもなにも、当たり前です」
美穂は何を言っているのという顔で、星矢を睨む。
「サガさん、星矢ちゃんのお友達になりたいって言ったもの」
カタン、と音がして、見るとサガが湯飲みをテーブルの上へ落としていた。ほとんど中身が飲み干されていたせいか、それは真っ直ぐ垂直に落ち、零れることなくカタカタと揺れたあと、最初からそこにあったように上手く直立している。こんなときでも無様に転がさないのがサガらしいと星矢は思った。
黒の半身を知ったあとでも無条件で信じる…そのことがどれだけサガに対して威力を持っているのか、美穂や星矢はまだ知らなかった。
(−2011/3/24−)