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◆燃え落ちる世界11


 黒髪のサガは、何か言いたげに唇を開きかけ、また口をつぐんだ。
 美穂は黙ってサガの落とした湯のみを引き寄せ、茶のおかわりを注ごうとして、何かに気づいたようにその手を止める。顔をあげた彼女はにこりと笑い、明るく二人へ話しかけた。
「お茶の葉を一度入れ替えましょうか。出がらしを捨てて洗ってきますね」
 そのまま立ち上がって、急須を手に台所の方へ歩いて行こうとしたのは、サガと星矢を二人だけにしようと気を遣ったためであるのは明白だった。しかし、それをサガが止めた。
「行く必要はない。茶はもう充分だ」
「そうですか」
 言われるまま素直に腰を下ろした美穂へ、サガが語りかける。
「ミホ、先ほどお前はわたしに、城戸光政の子供たちの話をしたな」
「は、はい」
 そのときの相手はこのサガではなく、もう一人の光を司るほうのサガであったが、美穂は否定せずに頷く。自分の兄弟たちの話題ときいて、星矢も真剣なまなざしとなった。
 サガはといえば、先ほどまでの尊大な態度が、心なしか幾分控えめになったように見える。
「その子供たちが神に選ばれたのは、わたしにも原因のあること。それゆえ、お前がわたしに責を望むならば、その意思に沿わぬでもない。お前はわたしに何を償わせたい」
「サガさんに?」
 隣では星矢が目をまるくしている。こちらのサガが責任云々を言い出すなど、微塵も予測していなかったのだろう。つい先ほどまでは殺そうとした相手に対して、今度は己の責任を問えという。その変化の理由が星矢にはわからない。何かの罠かとサガの顔を見たが、嘘やはかりごとをしている眼ではなかった。美穂もびっくりした様子でいる。
 ただ、美穂は驚きからすぐに立ち戻ると、首を振った。
「何が原因であれ、それについて決めたのは神様と光政翁です。あなたが取る責任は他にあると思います」
「……」
「でも、そうですね。折角そう言って下さるのなら、償いとしてではなく、これからも手伝いに来てくれませんか?」
「……それだけで、良いのか」
「ええ。そうだ、あともうひとつ」
 美穂は柔らかく微笑んでつけ加える。
「ずっと、星矢ちゃんの友達でいてください」
 今度こそ黒髪のサガは打ちのめされたように呻いた。そのまま彼は何も言わずに黙り込む。
 星矢と美穂がサガの返事を待っていると、その目の前でサガの髪から闇が抜け落ちていった。


 もとに戻ったサガは、美穂にひたすら頭を下げて謝ったため、逆に美穂が恐縮するほどであった。
「あの、別に謝られるようなことはありませんでしたから」
 美穂は何もなかったと繰り返すが、サガからするとそれは結果論にすぎない。
「いいえ、アレはたいそう危険なのです。貴女や子供たちに怪我がなくてよかった」
 サガの記憶において、過去、人格の主導権を奪われたあとには、たいてい死体が生まれていた。シオンしかり、アイオロスしかり、従者しかり。子供であろうが一般人であろうが、己のなかの闇が手加減をするとは思えない。
 今回、人格変異のさなかに血が流れなかったことを、サガは心の底から安堵していた。
「でもあの姿もサガさんなのでしょう?」
「それは…そう、なのですが…」
 己のなかの邪悪を同じサガと呼ばれ、抵抗感から微妙に口ごもるが否定はしない。
「あのサガさん、また手伝いに来て下さいというお願いを、ちゃんと聞いてくれました。だから私や子供たちは大丈夫だと思うんです」
「それが不思議で…今までにこんなことはなかった」
 しかし、美穂の言うとおり、奥底に沈んだもう一人の自分は、この施設や住人へ害を加える気は無いようである。人格は異なれど、同じ『サガ』ゆえにそのあたりは判るのだ。だからこそ、余計に不思議でならない。
 ”アレ”は自分の存在を知った者を、そのままにしたことなどない。それとも、ここを逃亡先の隠れ蓑のひとつとして何かの価値でも見出したのだろうか。”アレ”は冷酷ではあるものの、無駄な殺戮はしないから。
「何にせよ、良かったじゃん」
 星矢が横から会話に混ざった。
「前にさ、約束したろ。もう一人のサガが出てきても止めてやるって。でも、その必要は無かったみたいだな」
「…星矢」
「俺さ、約束とはいえサガと戦うのは嫌だったから、ホント良かった」
 ほっとした表情で笑う星矢を見たサガは、突然わけもなく胸が痛むのを感じた。
 肺の奥が苦しいのに、そこへ熱が集まるような、それでいて高揚するような、不思議な感情が湧き上がってくる。
「あの約束を、覚えていてくれたのか」
「当たり前だろ。サガから見たら俺なんて頼りないかもしれないけど、約束は必ず守るよ」
「頼りないなどとは思っていない」
 慌ててサガは否定していた。生き返ってからこのかた、後輩である星矢の世話になってばかりだ。いまも守ると言われたのは約束のことなのに、まるで自分を守ると言われたような気がして、知らず顔が赤くなる。
 サガは、幼い頃から黄金聖闘士として守る側に立つことが当然であり、守られる側にまわることはなかった。たとえ守ると言われても、その実力がサガに勝る者でなければ、サガ自身がそれを戯言として一蹴したろう。
 全ての者は、最強の存在たる己の庇護下に存在する。サガのなかで、博愛と傲慢は分かちがたく表裏一体となっており、そんなサガが教皇たらんと欲するのは当然だった。
 けれども、目の前にいるのは、かつてサガを倒した男だ。サガのことを守ると主張しても、実力的に許される人間である。ただし後輩でもある。後輩に助けられるというのは、サガのプライドや矜持にも関わってくる。他人を頼みにしたことのないサガが、どうすれば良いのか、無意識下で混乱するのもまた当然だった。
 そんなサガの動揺に気づきもせず、星矢は天真爛漫な笑顔を向ける。
「ホント?俺のこと、頼ってくれる?」
 ここで、サガの内面はぐらりと傾いた。
「た…頼ってもいいのか?」
 混乱の尾を引きずりながら尋ね返すと、今度は星矢が照れたように鼻をこすった。
「もちろん!サガに信頼されるくらい、大人になったって自信もつくし」
 仲間を助けるのは当然のことだと星矢は思っている。青銅の兄弟たちもそうだろう。
 星矢としては当たり前のことを言っただけなのに、サガが目の前で顔を伏せた。
「わたしが頼らなかったら?」
 子供のような問いを搾り出したサガの肩を、星矢はぽんと叩いた。
「サガがたとえ俺を頼らなくても、信じてもらえなくても、サガが困っていたら、俺は助けるよ。サガだって聖戦のときにそうしたじゃないか」
 誰に信じてもらえなくても、逆賊と罵られても、サガたちは十二宮を駆け抜けた。真の聖闘士ならば誰であれそうしただろうし、またサガの行ったことを考えれば、その行為は当然と言われこそすれ『頑張ったな』などと褒める者がいるはずもない。
 それを星矢が認めてくれた。サガの無意識が更に傾く。
 そして頼ろうが頼るまいが、星矢の対応が同じであるのなら。
「星矢…」
「ま、今夜のところは帰ろうぜ」
 顔を上げたサガへ、星矢は明るく切り上げる旨を伝えた。横に居る美穂も同意して頷き、サガへ労わりの声をかける。
「今日は本当に助かりました。無理せずゆっくり休んで下さいね。施設の手伝いは、サガさんが落ち着いたらでいいですから」
「美穂さん、その、本当にわたしのようなものが、また伺っても…?」
「勿論です!今日のお話の続きも聞きたいですし」
 そういえば、と思い返したサガは頷いた。サガと美穂は、聖域や女神についての話をしている途中であったのだった。
「おやすみなさい星矢ちゃん、サガさん。また今度」
 玄関まで送ってくれた美穂へ、サガは会釈で返し、星矢とともに施設を後にした。


 マンションへの帰り道を、サガと星矢は並んで歩いていく。
 聖域と違って、人工の灯りで溢れた街中の夜空には、星数も少ない。
 歩きながら、サガは己の中の別人格の言動について考えていた。意識はのっとられていたものの、何を話したかは覚えている。
 『侵食を感じて出てきてみれば』とアレは言っていた。何らかの領分が侵されたと、アレが感じたからこそ現れたということだ。そして『この娘が、わたしよりも強いと、お前はそう判じたのか』とも言っていた。
 己より強いと判じたものがいたら、何が侵されるというのだろう。
「今日はびっくりしたけど、あっちのサガも、見た目が若いと何か印象が変わるなあ」
 星矢の声が聞こえ、思索に没頭しかけていたサガは我に返った。
「そうだったか?」
「もう一人のほうのサガは鬼みたいなイメージあったんだけど…見た目だけでなく、なんていうか、柔らかくなったっていうか…可愛くなったっていうか…」
 ぽかんとした顔でサガが星矢をみる。サガの視線を受けた星矢は、慌てて言い訳をした。
「いやほら、28歳のころと比べるとって意味だけど。昔のサガは教皇様って感じで、こんな風に親しく話しかけるのも畏れ多い雰囲気だったし」
「今は、威厳がないと?」
「あ、変な意味じゃなくて、うーん」
 どう説明したものか、頭を捻っている。率直で裏のないその様子は、少年だったころの彼と全く変わっていない。気づくとサガは笑っていた。
 あの姿を見られた相手を、殺してしまう心配をしなくていいどころか、そんな風に語る人間がいて、アレが表に出ても今までどおりに接してくれる人がいた。
 こんなことは初めてだ。なんと平和な会話だろう。
 サガが笑っていると、星矢もそれに釣られたように笑い出した。
 ひとしきり笑ったあと、星矢が片手を差し出してくる。サガはその手を握り返した。
 二人は黙ったまま、片手分の熱を味わいつつ、ゆっくりと家路についた。


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(−2012/1/30−)