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◆燃え落ちる世界4


 教皇の間へ向かうには、誰であれ自分の足で十二の守護宮を抜けねばならない。
 空間移動の能力を持つ者も、ここでは女神の結界によりその力を発揮する事はかなわず、聖域に仇なすものが通り抜けようと試みた場合は、全ての宮の守護者を撃破する必要がある。
 しかし、ジェミニとしても認められているカノンは顔パスで通行が許されており、その点は問題無かった。
 それに厳戒態勢だった聖戦中と違い、今は黄金聖闘士全員が常駐しているわけではない。ただ登るだけなら比較的すんなりと通る事が可能となっている。
 カノンは各守護宮の主に対する挨拶もそこそこに教皇の間へ辿りつくと、取次ぎの守兵も無視して大声で目的の相手を呼ばわった。
「おいボンクラ!どこにいる!」
 声を張り上げた途端、待っていたかのように控えの間の扉が開く。
「これでも次期教皇なのにボンクラ呼ばわりは酷いな」
 中からアイオロスがひょいと顔を覗かせて抗議した。


 英雄と呼ばれるこの男は、風格をにじませながらも人当たりがよく、普段は親しみやすい面しか見せない。しかし、いざとなれば前教皇シオンに並ぶ厳しさを見せるのがアイオロスという男だった。
 カノンはそのアイオロスへ、恐れ気も無くほぼ八つ当たりである憤懣をぶつけた。
「お前など教皇になるまではボンクラで十分だ!何だあれは!」
「何だと言われても、何のことやら…ちょっと待っていてくれ」
 アイオロスは扉の中へ一度引っ込むと、なにやら誰かと言葉を交わしている。どうやら教皇になるための修養中だったようで、指導役の神官がその扉の中から現れるとカノンに頭を下げて去っていった。講義をキャンセルして話をする時間を捻出したらしい。
 その上でさらに人払いをすませ、アイオロスは改めてカノンに向かった。
「お待たせした。で、何の話だろう?君が海界から来た理由を考えると、サガの事なのだろうけど」
「判っているなら話が早い。お前、サガが目を覚ましたのに何やってんだ。ブロンズの小僧っ子に世話を任せたままなのか」
 その問いかけに、次期教皇は困ったような顔をして肩をすくめる。言われずとも、最初にサガのところへ駆けつけたかったのは彼自身なのだ。
「私よりも星矢に世話をさせるように主張していたのは君だろうカノン…何か問題が?」
「お前はまだ一度もサガのところへ顔を見せていないんだな」
「ああ、まだ床からあがれていないだろうからね。会いたいのは山々だけど、彼は他人にそういう姿を見せるの好きじゃなさそうだし、もう少し時期を待とうと思って我慢しているんだよ」
 カノンはそれを聞き、額を抑えてハァと溜息をついた。
「お前は判ってるんだか判ってないんだか…」
「私には君が何を言っているのかこそサッパリ判らないぞ。だから、サガがどうかしたのか?」
 アイオロスは立ち話もなんだと控えの間へ入るようカノンに促す。だが、カノンは部屋へ入るどころか逆にアイオロスの手首をむんずと掴み、引きずるようにして歩き出した。
「おいおい、まず説明を…」
 有無を言わさぬ強引さに驚いて、流石にアイオロスが非難の声をあげる。しかし、カノンは睨むように視線をむけたものの、足早な歩みは止めようとしない。それでも海将軍としての自分と次期教皇であるアイオロスの立場を慮ってか、最低限の礼儀を見せてぶっきらぼうに説明を始めた。
「サガが、笑っていた」
「え?それは良いことなんじゃないのか」
 カノンの礼儀など最初から気にしていないアイオロスが、不思議そうに首を捻る。
「だからお前はボンクラだと言うのだ。あの顔をお前も見てみるがいい」
 どうやらサガのところへ連れて行かれるのだと判って、ただ引きずられていたアイオロスも歩調を合わせた。法衣の裾を軽やかにさばき颯爽と進む様子は、見た目だけであればすでに聖域を継ぐものとしての貫禄を身につけている。
「私はサガが笑っているのならどんな状況でも嬉しいけどね。何が問題なんだ?」
「その相手があの青銅の小僧っ子という事がだ。これでサガの心の壁がまた高くなっちまった」
「どういう意味だ、カノン」
 アイオロスの瞳にひやりと真剣なものが混ざる。
「あの馬鹿の中に踏み込める条件が、than or equal (以上)から than (より上)になったってことさ」
 苦いものを噛んだように、カノンは答えた。


 カノンにとって、サガが弟である自分以外の人間に気を許すというのは予想外の事だった。
 別にサガが猜疑心の塊だと思っているのではない。カノンの知っている兄は、誰にでも等しく優しい男だった。他人を信頼しない狭窄な人間というわけではないのだ。
 ただ、その事と相手を受け入れることとは別だ。兄はとても上手に他人へ距離を置く。
 先代の魚座が自身の毒により他者を傷つけることを恐れて人を遠ざけたように、かつてのサガもまた身の内の邪悪が周囲を傷つけぬよう、無意識のうちに他人との間に壁を作っていた。
 それは黒のサガが望む事でもある。彼は自分の心が血を分けぬ他者に占められる事を許さなかったので。
 力がなければ女神であっても世界の守人とは認めない、それはあまたの脅威から地上の人々を確実に救うことを願う黒サガの確かな本心の一部だった。そして、大切な女神でさえ力なしには受け入れぬというのに、プライドの高い彼が自分よりも劣る人間による心の浸食を許そう筈もない。
 神もヒトも自分の中から切り捨て、黒のサガは両者を超える高みへ行こうとしたのだ。

 つまり両人格の意図は違えど、サガは誰へも自分を開放しないということだ。しないというよりは、その不器用さから出来なかったと言っても良い。
 そのような事を知らぬ当時のカノンは、弟を邪悪と呼びながらその弟にしか心を許さぬ兄をみて歪んだ満足を覚えたものだ。サガが他人に気を置けぬのは、黄金聖闘士特有の傲慢さによるものだろうとずっと思い込んでいた。裏表のある兄を偽善者よと笑い、面白半分に何度も悪を囁いたりもした。
 まさか兄の二面性が二重人格によるものだとは思いもせずに。

 蘇生後に黒サガの存在を知り、抜けていたジグゾーパズルのピースが嵌ったかのように過去のさまざまな誤解がとけていく。誰よりも理解していたはずの兄の空虚な内面を思って、カノンは息苦しくなった。
 正直なところ、カノンは兄が孤独であろうが構わなかった。その空虚は自分が埋めてしまえばいい。他人などサガには必要ない。
 サガが蘇生した暁には、真面目な兄は己を罪人と恥じ、今まで以上に他者と一線を引くだろう。アイオロスさえ遠ざけておけば、孤高のまま大人しくカノンを頼るはずだ。そうなれば聖域から連れ出しやすい、そう判断していたのに。
(…いや、予想は出来たはずか)
 見通しの甘さに内心で舌打ちをする。
 過去においても現在においても、何故サガからアイオロスを引き離そうと思ったのか。それはアイオロスが唯一サガの内面に踏み込む可能性を持った男だと考えたからではなかったのか。
 かつてサガもそう思っていたはずだ。仁知勇に優れたアイオロスならば、邪悪なもう一人のサガが現れても互角に対峙出来るだろうと。13年前その条件に適うほどの力を持っていたのは、シオンと不在の童虎を除けば、サガに並ぶ教皇候補である射手座しかいなかった。
 サガはアイオロスにより向上心を刺激されながらも、彼の前では寛げたに違いない。アイオロスの前で恐れるべきは、身の内の悪心を悟られぬようにすることだけなのだから。

 サガに力で並ぶ事が、サガの心を開かせる。
 しかしそんな条件なら、実際にサガを倒した星矢はとっくに基準を満たしているではないか?

「アイオロス、気に食わないがお前は英雄だ。そのお前がサガの築いた壁を越えたら、あいつの心には英雄しか入れなくなる。だからお前をサガには近寄らせたくなかったのだ。あの馬鹿兄の内面をお前なんぞに独占させたら、もっと馬鹿になるに決まってるからな」
 カノンは一息に告げる。アイオロスは少し悲しそうな顔をした。
(それって、サガが俺を受け入れたとしても、それは親友であるからではなくて、サガを倒せる英雄としての役割が受け入れられただけってことだよね)
 判りやすいとはお世辞にもいえないカノンの説明だが、聡いアイオロスはおぼろげながら言いたい事を理解していた。他者を傷つけることへの怖れから身に付いた防御壁だとしても 強者しか受け入れる事の出来ない対人観は歪んでいる。
「それでも、お前が先にサガの壁の内側へ飛び込んでいればまだ良かった。お前とサガの実力はほぼイコールだ。しかし…」
「しかし、可能性の話ではなく、事実としてサガを打ち負かす事の出来る人間がいたということだな」

 星矢はそのペガサスの翼で軽々とサガの障壁を飛び越えてしまった。その事により障壁は天馬の水準にまで高められてしまったのだ。対等からそれ以上へ。サガの心から星矢を排除するのは、壁の高さに比例して難しいだろう。
「サガの頼る相手が星矢と君だけになったってことか…それはちょっと悔しいなあ」
 うーん、とアイオロスが唸る。アイオロスとしては、サガが本当に幸せに笑えるのであれば、その相手が誰であろうと最後には祝うつもりでいる。元親友としては寂しい事だが、サガが孤独なままであるよりはいい。
 しかし、こんな形でサガが手の届かぬ場所へ閉じこもってしまうのは納得がいかない。
「オレも納得いかねーよ。相手が強けりゃ入れ食いかよ、あんな年下のガキに」
「今は同い年だよ」
「肉体年齢がってだけだろ」
 吐き捨てるように零すカノンへ、アイオロスは苦笑した。
「サガは…寂しかったんじゃないのかな」
「フン、三人もの黄金聖闘士を反逆側に引き込む事ができたくせに、何が寂しかったというのだ」
「その事とはまた別だと思うよ。君も海底で寂しかった?」
 カノンは思わず殴ってやろうかと空いている側の拳を固めたが、ぐっとこらえて聞かなかったことにした。
「とにかく、あんなガキに好きにさせてたまるか。お前がもっとしっかりしていれば横から取られるような事はなかったんだぞ、このボンクラ!」
「いや別に、星矢は取るとか取らないとか考えてないんじゃ…」
「思ってなくとも、そうなったら一緒だ。こうなったらサガが深みに嵌る前に妨害してやる」
「なるほど。なんとなく私が呼ばれた理由が判って来たよ」
 一転して次期教皇はにこにこと返す。
「弟さんの承認の上で、私もサガの心を掴んでいいってことだよね」
「違う!根性出して壁を越えればいいだけだ!二人いれば依存も分散するだろうからな!」
 今度こそ頭を小突こうと手を離したカノンを、アイオロスは優しい目で見据える。
「壁を超える、か…なあカノン。必要なのは壁を越えることじゃなくて、壁を壊す事じゃないかな」
「………」
 いくばくかの沈黙のあと、カノンは視線を逸らした。
「そんな事は判ってるさ」
「適度な壁があったほうが、君がサガを独占するのに都合良いかもしれない。でも、聞いたからには私はその壁を壊すよ」
 きっぱりと宣言したアイオロスへ、カノンは勝手にしろとだけ答えた。

 まだ高い初夏の陽射しのなか、二人は口をつぐむと並んで十二宮の階段を逆に下りていった。


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(−2007/6/10−)

拙宅では弱さによる二重人格化は無いのですが、サガに弱さがあるとしたら、心身ともに誰よりも強いところではないかと妄想。