海龍の兄である黄金聖闘士が海界にやってきた…その噂は瞬く間に広がった。
雑兵達が噂の主をひとめ見ようと各自の作業も放り出して集まって来たのを、ソレントは頭を抑えつつ見逃した。ただでさえ海界には娯楽が少ないのだ。敗戦により沈みがちないま、多少の息抜きは許してやらねばなるまい。
サガは遠巻きに囲む群衆にもにこやかに目礼を送り、ミーハーな呼びかけにも優しい笑顔で軽く手を振り返してあしらっている。
海龍と同じ顔でありながら、海龍が他人には決して見せない慈愛の微笑みの威力は凄かった。
サガが笑顔を振りまくたびにどよめきが上がり、感嘆の溜息が輪のように広がる。幾人かの女海闘士など、彼の笑みに目を奪われて赤くなってすらいる。
サガにはカノンの発する威圧感とは別の、人を惹きつける華やかな圧倒感があった。
カリスマと言ってもよい。
「神だ…」
「神のようだ…」
雑兵がうっとりサガを称えだしたのを見て、ソレントはさらに深く頭を抑えた。この人はまるで何かの宗教の教祖のようだ。いや、聖域で教皇をもこなしていた前歴を思えば、教祖そのものといっても差し支えないのだろうか。何故こんなにも観衆あしらいが上手いのか。もしや聖域は海界の民を洗脳する兵器としてこの人を送り込んだのではあるまいか。
しかし、本人にはあしらっているという自覚ははなはだ無い様子である。ソレントは先行きに不安なものを覚えながらサガを結界の綻びへと案内した。
サガはソレントに案内された結界のゆがみ地点に立つと、すぐに意識を集中して地質と空間のバランスを読み取った。そうして次元技の応用で、まずは界の綻びを閉じる。
その後、結界を強化するために上から小宇宙による補強を行う。むろん、結界の弱まりそうなポイントを的確に測り、海界の波動に合わせてだ。最後に結界全体と補強部分を馴染ませ、少々の歪みでは緩む事の無いように調整する。
簡単に見えるようで通常これを行おうとした場合、その場の綻びの調査と補修にはいるための事前基礎補強を行うだけで数日はかかる。綻びを閉じる時に下手すると空間の捩れに巻き込まれる危険もある。また結界の補強は部分的にだが結界を張る以上の力を持ってしなければならない。結界と同レベルのパワーでは、補強にならないからだ。
この作業をサガは造作も無く、またたく間に行ってしまった。
海将軍ほどの力をもたない海闘士たちにも、サガの小宇宙の高まりによって一瞬で結界が正常に働いていくのは感じられる。復興中で結界の乱れに苦労している海闘士たちが歓声をあげるのも無理はなかった。
もともと女神に反逆したというサガの過去も、聖域に敵対していた海界では親近感をもって迎えられていた。そのため、聖闘士に対するものとしては異例に好感度の高い視線が向けられていたのだが、サガの仕事ぶりを見て、それはさらに尊敬の混ざった熱狂的なものに変わった。
「ここは終わった。次へ案内して欲しい」
汗ひとつかかず、優雅にそう言って彼が振り返ったのを見て、観衆だけでなくソレントも舌を巻いていた。サガを案内したものの、暫くは時間がかかるだろうと待機中の暇を埋めるべく事務書類も持ってきたのだが、半頁ほど目を通しただけで手をつける時間すらない。
そうして驚嘆のあとには、これが黄金聖闘士の実力かとそら寒いものを覚える。海将軍たちは未だ若く、これほどの力に対抗できそうなのは海龍くらいしか思い当たらない。
過去に牡牛座とは対峙し、その時に桁外れのパワーに脅威を覚えたものの、黄金相手といえど戦闘法次第では対等にやりあえると思っていた。しかし、他の黄金聖闘士のレベルがこの男やカノン並みの実力だとするならば、自分を含めた海将軍は、もっと鍛錬しないと太刀打ち出来ない。
自分たちの力不足を素直に認めて内心嘆息する。
「大したものですね。聖衣はなくともさすがは黄金聖闘士といったところですか」
「いや…海神の言葉を聞いていたろう。たまたま私の能力が、こういった仕事に向いているだけだ」
おそらく謙遜であろうそれを聞いてもあまり慰めにはならなかった。
サガは案内されたエリアをの結界を次々と修復していった。
その働きはめざましく、数日かかる予定で見積もっていた作業は半日も掛からずに終わりを告げた。その分、野次馬たちの作業効率が下がっているので、全体としての進捗率はマイナスっぽいのだが。
時間が余ったサガは、親切にも集まった海闘士たちに結界が弱まった時の『目』の読み方と、補修のポイントなどもレクチャーしてくれた。また、移動の際に見かけた復興作業による怪我人などには強力なヒーリングで治療まで行い、医師に感謝されている。
はっきり言って、助っ人どころではない働きだ。カノンが「奴は使える」と断じたのも身内びいきではなかった。ソレントは何故サガがそこまでしてくれるのか不思議に思い、それを口にした。
「ジェミニ。海龍の兄とはいえ、何故貴方がここまでしてくれるのですか?」
「…海界には恩があるのでね」
ソレントは振り返って考えたが、サガと海界の繋がり自体思い浮かばない。
怪訝そうな海魔女の表情を見て、サガは静かに笑った。
「海界に…君たちに感謝している。カノンに居場所を与えてくれて、ありがとう」
ソレントが目を見開く。
「弟は海界に随分迷惑もかけたと聞く。それでもまた弟を受け入れてくれたことを、兄として礼を言いたかった」
「別に…許したわけではありませんし、礼を言われることでもありません」
そっけなく聞こえるよう応える声も、語尾が小さくなる。こんな台詞は反則だ。
海龍と同じその顔でそんな風に頭を下げられたら、どう反応していいか皮肉屋のソレントにも判らなくなる。
「それでも、私は海界への恩を忘れない。聖域から弟を追い出したのは、この私だからね」
寂しそうに目を伏せたサガを見て、海魔女はそっと銀髪の流れる背に手をあてた。
双子の過去の確執に詳しいわけではないが、この兄がそれを後悔しているのは読み取れた。
しかし海魔女には慰める筋合も、その絆に踏み込む権利も無い。
代わりに、促すように神殿の方へ背を押した。
「作業の区切りもついたことだし、一旦お茶にしませんか。他の海将軍も紹介しますよ」
にこりと笑い、サガを先導するように歩き出す。
「兄上ならではの海龍の弱みなどを皆に聞かせてもらえれば、嬉しいのですが。こちらからは海界での海龍の昔話でも提供しましょう」
目を伏せていたサガが顔を上げて、海魔女の後を追う。その表情に浮かぶのは先ほどまでの神のようなそれではなく、兄としての人間らしい微笑みだった。
(−2006/10/19−)