◆夢のエッセンス
双子神タナトスが双児宮を訪れるのはいつものことだが、今日は色違いの方がやってきた。ヒュプノスを目の前にして、どう追い返したものか、カノンは早速算段をめぐらせている。
(こいつの来訪もどうせ碌な理由ではあるまい)
という判断からだ。
サガが留守の双児宮に何の用かは分からないが、神相手に無礼も出来ぬので、適当に持ち上げて冥府へ返してしまうのが無難かと結論付ける。
しかし、そんなカノンの目論みを見透かしたかのようにヒュプノスは笑う。
「そう冷たくするものではない。私はお前に土産を持ってきたのだ」
「は?」
言葉と共に広げられたヒュプノスの手の上へ、何本かのガラスの小瓶が現れた。中には何やら不思議な色をした液体らしきものが詰まっている。
「どれが良い」
「どれが良いと言われても、これは何だ」
意図が掴めず、警戒しながら小瓶とヒュプノスの顔を見比べる。
眠りの神はにこりと(胡散臭そうな)笑顔を浮かべた。
「それはサガの夢を凝縮して私の力を込めたもの。お前の兄に使えば効果が現れる。肉体を通して、サガの夢が現実の感情となるのだ」
「何だと」
意味は判らないものの、やっぱりろくでもないものではあるようだ。
「安心しろ、危険は無い」
また心を読んだかのように告げ、ヒュプノスはそれを1本ずつテーブルの上へと並べた。
「これはサガがメロメロになる薬。これはデレデレになる薬。これはラブラブになる薬、これは…」
「ちょっと待て、それ全部同じだろ!」
言ってしまってから突っ込むところを間違えたと思いながらも、カノンはヒュプノスを睨む。
「いいや、全然違うものだ。お前は意外と人間の心の機微について大雑把なのだな」
ヒュプノスは相変わらず胡散臭い笑顔で笑う。
「さあ、どれか1本だけお前にやろう」
そんなものなくたってサガは。
そう思いつつも、カノンは小瓶から目を離すことが出来なかった。
→SELECT
1.カノンはメロメロを選んだ
2.カノンはラブラブを選んだ
3.カノンはデレデレを選んだ
2009/9/26
◆メロメロ
サガの心のありようを恣意的に固定することが出来るという魔法の小瓶。
それをヒュプノスはカノンに1つ選ばせてくれるという。
そんなもの無くたって、サガは。
そのあとを続けようとして言葉が出てこない。
(デレはまだ何とかありそうだが…メロメロだのラブラブだのは…うう)
カノンの自己採点において、サガからの評価予測値は意外と低かった。過去の己の言動を振り返っての判断だが、サガのブラコン深度を自覚していないために、地味に損をしていることには気づいていない。
悩んだ末に、カノンは意を決して小瓶の1つを取った。
「こ…このメロメロを貰おうか」
「成る程」
可能性の低いと思われる行動様式の方を選びつつ、血を分けた双子の兄弟として流石にラブラブを求めるのは自重したらしい。ヒュプノスは小瓶の蓋を開けるように促した。
「飲ませたり嗅がせたりしなくて良いのか?」
「中身の原材料はサガの心だ。開放すれば勝手に本人のもとへ戻る」
「副作用などなかろうな」
「それはあるだろう」
「何――――!」
そんな会話をしていると、丁度サガが任務から帰ってきたのだった。
「ただいま、カノ…」
言いかけて、サガは入り口に立ったまま固まった。
カノンの方をじっと見つめたまま動かない。一緒に部屋の中にいるヒュプノスの事も見えていないようで、そちらへは興味を払わない。何やら様子がおかしい。
サガはどこか紅潮した様子で目を輝かせ、カノンへ向かって両手を広げた。
「こちらへおいで」
対するカノンは、自分で願っておきながらもう及び腰だ。嬉しさよりも戸惑いと違和感が先立つ。
日ごろ、他人に向けるサガの『神のような笑顔』を嘲笑っていたというのに、いざそれが自分に向けられてみるとその威力に愕然とした。この声、この笑顔に逆らえる者などいるのだろうか。
心の中で必死に抵抗していると、サガの方が歩み寄っていた。
「大丈夫だよ」
そんな事を言いながら、カノンの頭をそっと撫でる。その指は柔らかに耳の後ろをなで、顎の下へと移って行った。柔らかな動きに流されそうになり、ハッとカノンは我に返る。この部屋にはヒュプノスがまだ居る。その事に心ならずも感謝する羽目になった。羞恥心という名の理性が働くからだ。
触れる手を何とか押しのけようとすると、サガは構わず頬を寄せてきた。もがくカノンを無視して抱きしめる。そして蕩けるような笑顔で囁いた。
「どこから迷い込んで来たのか知らぬが、双児宮の迷宮を抜けてくるとは大した猫だ」
「……」
今までのムードもどこへやら、カノンの目が点になる。
その視線がヒュプノスへと向けられると、ヒュプノスは何でもないことのように、カノンの無言の疑問に答えてくれた。
「サガにはお前が猫に見えている。声も鳴き声としてしか届かない」
「何だと――――!」
眠りの神の言うとおり、サガはカノンに一通りほお擦りすると、『待っておいで、ご飯を用意するからね』などといって台所へ去ってしまった。完全に野良猫扱いだ。
カノンはヒュプノスを怒鳴りつける。
「どういうつもりだ!」
しかし、ヒュプノスは逆に心外だという視線を向ける。
「存分にメロメロしているだろう。どこに文句があるというのだ」
1時間程度で効果が切れるという説明を聞き、カノンは黙るしかない。
サガの用意した猫まんまは、いつもの破壊的な人間用手料理に比べると100倍美味しかった。
→SELECT
2.やっぱりラブラブを選ぶ
3.やっぱりデレデレを選ぶ
2009/9/26
◆ラブラブ
「そんなのラブラブを選ぶに決まっているだろう」
「……。」
寸分の迷いもみせず小瓶を奪い取ったカノンを前にして、ヒュプノスが何とも言えない微妙な顔をした。
「それを選ぶことに対して、何か躊躇はないのか」
「どこに躊躇する要素があるのだ」
しっかりと握った小瓶を片手に、カノンは力強く言い切る。
突っ込むことを諦め、ヒュプノスは使い方を説明し始めた。
「その小瓶の中にはサガの感情の一部に私の力を混ぜたものが入っている。使うときに蓋を取り、中身を開放するだけで良い」
「それだけでいいのか」
「効果は数時間ゆえ…あっ」
ヒュプノスの目の前で、カノンは早速蓋を開けている。
「使うときに開けろと言ったであろうが!」
「待ちきれなかったのだ。今からオレがサガの処へ向かえば問題ないしな」
よく言えばマイペース・悪く言えばゴーイングマイウェイなのがカノンである。
今日のサガはアイオロスの補佐として教皇宮に詰めていた。
さっそく客を放置して出かける気満々のカノンであった(一応カノンはヒュプノスを客とみなした)。
仕事中であろうサガに使用したのはわざとだ。平和な昨今、緊急に教皇裁定が必要なレベルの案件などほとんど無い。どうせ大した仕事はなく、時間的にもそろそろ落ち着いているだろう。
ようするに、見せ付けるための目算だ。具体的には、サガと仕事をしている約1名に。
「…私は構わぬが…」
こめかみを押さえながら眠りの神は続ける。
「開けた瞬間から発動するぞ。目の前の人間に対して」
「何だと!オレにではないのか!?」
カノンの顔が一瞬にして面白いほど青くなる。ヒュプノスは自業自得だと冷たい視線を返すばかりだ。
「いつ対象限定の効果だなどと話した」
カノンの額にイヤな汗が流れる。すると今頃教皇宮では。
「その効果、取り消せないのか」
「私の力をその者から引きあげれば効果は消えるが、目の前に本人が居ないことにはな」
直後、カノンはヒュプノスの手を掴んだまま、最短時間での12宮突破記録を更新した。
正気に戻ったサガは「こともあろうに別界の神を聖域の最深部まで連れてくるとは何事だ」と盛大に説教を始めたが、理由を説明出来ないカノンには言訳のしようもない。
アイオロスの方は流石に聡く何かを感づいている様子で、帰り際この上も無く晴れやかに「もう少し遅く来ても良かったのに」などと言ったものだから、カノンは更に落ち込んだ。カノン達が駆けつけるまでの間に何があったのかは聞きたくもなかった。
気の毒になったのか、ヒュプノスは帰り際にもう1本オマケで『デレデレの小瓶』をくれた。
→SELECT
1.メロメロを選びなおす
3.デレデレを選びなおす
2009/9/27
◆デレデレ
ヒュプノスの置いていった小さなガラスの入れ物は、女性たちがよく持っている香水の壜に似ていた。中を覗くとキラキラと煌く何かが詰まっている。眠りの神作成という時点で怪しいことこの上ないが、ここにサガの心の一部があるのだと思うと、何となくそっと扱ってしまう。
飽きもせずその輝きを眺めていたが、暫くしてサガが帰ってくる気配がしたので慌ててその蓋を開いた。ふわりと優しい香りが漂ったような気がした。
「ただいま、カノン」
サガの第一声はいつもと変わらなかった。手には土産らしき箱を持っていたけれど、これは時間的に小瓶の成果とは関係ないだろう。
オレの視線に気づき、サガはその箱を目の前のテーブルへと置いた。
「仕事帰りに通った巨蟹宮で、デスマスクが持たせてくれたのだ。お前と一緒に食べるようにと」
がさがさと箱を開け、パイと魚の焼き浸しとハーブサラダをとりだしている。土産というよりもデリバリーのようなそれらは、おそらくデスマスクの手作りだ。
「丁度良かった。実は来客があって、夕飯の用意をまだ何もしておらん」
言ってから思い当たる。巨蟹宮には黄泉比良坂経由による冥府への近道がある。双子神やラダマンティスが内密に通路として使っているのだが、今回のヒュプノスの来訪を守護宮の主デスマスクだけは気づいているだろう。気配り上手な彼が、ヒュプノスの帰参時刻から類推して双児宮住人分の食事を用意してくれたのだろうことは、想像に難くない。
サガもオレの言葉で何かに気づいたのか、部屋をぐるりと見回した。
「なるほど、ヒュプノスの小宇宙が残っているのはそのせいか…何もされなかったか?」
微かな残留小宇宙だけで相手を特定するのは流石である。しかし、何かされているのはお前だとは口が裂けてもいえない。
サガはじっとこちらを見てから、安心そうに息を零した。
「デスマスクはお前も呼んで巨蟹宮で夕飯を食べればいいと言ってくれたのだが、何となく虫の知らせというのか、お前が心配になってな。料理は包んで貰って急いで帰ってきたのだ。だが、わたしの勘はアテにならぬらしい」
苦笑しながら料理を並べ終えている。ずっと見ていてもサガに変わった様子は無く、気になったもののオレは急いで台所からパンと食器類を運んだ。
デスマスク作成のパイは、オレンジソースで煮込んだ鴨のひき肉をパイ皮で包んだもので、焼き立てではないというのに大層美味しかった。
食事のあいだの話題はたわいもない日常の出来事だ。サガはにこにこと昼間の教皇宮であったことを話す。アイオロスの成長ぶりだとか、仕事の進捗具合だとか、まあオレにとってはわりとどうでも良いことではあるのだが、いかにも嬉しそうに話す兄を見ていると水をさすのも大人気ない気がして、適当に聞いてやっている。
食事のあとには食器を洗い、リビングへ戻るとサガがソファーで寛いでいた。
いつものように隣へ並んで座る。サガは疲れているのか、寄りかかってきた。いよいよ何か起こるのかと待ち構えたものの、いつまでたってもそのままだ。あまりにじっと見つめたせいで「何か顔についているのか」と聞き返されてしまった。
「いやその…どこか気分が悪いとか、そういうことはないか」
「何だ、体調の心配をしてくれるのか?」
サガは不思議そうに、そして幾分機嫌良さそうにオレの顔を覗き込む。
「何でもないのなら、いいのだ」
そう答えると、サガは「おかしな奴だ」などと言いながら、膝枕を求めてきた。求めるといっても、了承をするまえに何時だって勝手に頭を乗せてしまうのだが。
(つまらん、不良品ではないか)
変わらぬ兄を見て、がっかりしたようなホッとしたような気分になる。
横になったサガはオレを見上げ、手を伸ばして髪を繰る。
次にヒュプノスに会ったときには、神の薬もアテにはならんなと笑ってやろうと思いながら、オレもまたサガの髪を撫でた。
それが日常ゆえに、カノンは気づかなかったのだった。サガが唯一甘える相手がカノンなのだということを。薬で得られる効果と同じものを、日々サガがカノンに与えているということを。
→SELECT
1.やっぱりメロメロがいい
2.やっぱりラブラブがいい
2009/9/28