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◆燃え落ちる世界1


 貴方を許します。
 サガ、君を許すよ。


 わたしが裏切り、刃を向け、殺した相手たちが、口々に許容の言葉を投げかけてくる。
 しかし、とわたしは思う。それでも、皆を傷つけた事実は、永遠に変わらないのではないか?


 サガがぼんやり目を開けると、そこには心配そうに覗き込む青年の顔があった。
 人懐っこそうな瞳に、くせのある黒茶の髪。東洋系でどこか見覚えのある面差し。その顔の近さに驚いて、思わず瞼をパチリとしばたいてしまう。
 状況が掴めないので、黙ったまま相手を見上げた。未だ働かぬ頭を叱咤しつつ、青年の名前を思い出そうとしていると、彼はぎゅうと覆いかぶさるように身体を抱きしめてきた。
「サガ、やっと目覚めたんだな!」
 記憶の中には、このように自分に触れてくるものはいない。
 困惑していると、その青年の後ろから苦笑するような柔らかい声が聞こえてきた。
「駄目だよ星矢。サガが驚いているじゃないか」
「そんな事言ったって、この日をずっと待っていたんだ。落ち着いてなんか、いられないって」
 耳にしたばかりの名前を、記憶の底にある該当者の姿と結んでみる。
「お前たちは…もしや、ペガサスとアンドロメダか?」
 そうしてみると、二人の顔だちといい小宇宙といい、確かにサガの知る青銅聖闘士のものだ。
 だが、彼らはもっと子供で、身体つきもまだ細さの残る少年だったはず。
 いや、それよりもまず、自分は既に死んだ身ではなかったか。
 ますます混乱しているサガへ、青年は身体をわずかに離し、それは嬉しそうに頷いた。
「おはよう、サガ。俺たちのことは昔みたいに、星矢とか瞬って呼んでくれ…って、ええと、俺の顔に何かついているかな」
「あ…いや、何もついてなどいないが…」
 まじまじと見つめしまったことに気づき、慌てて取り繕う。
 瞬と呼ばれた青年が近づいてきて、星矢をたしなめた。
「僕たちの姿に驚いているんだよ。まずちゃんと説明しないと」
 亜麻色の髪を持つ青年は、サガへ目礼をすると置いてあった椅子へと腰をおろした。
「目覚めたばかりの貴方を驚かせてごめんなさい。戸惑うのも無理はないと思いますが…貴方はアテナの祈りによって生き返ったんです。神々は聖戦のあと、それぞれの闘士を復活させました。黄金聖闘士もまた蘇生したのですが、冥府の消滅にまき込まれた魂を探すのに時間がかかってしまったそうで、目覚めるまでに5年の歳月を必要としたんですよ」
 星矢と名乗る青年も、サガの身体へと手を回したまま、溢れんばかりの笑顔で付け足した。
「サガは18歳の肉体で蘇生されているから、今は俺達と同い年ってわけ…でも俺達、そんなに見違えるほど変わったかなあ?」


 二人から大まかな説明と聖域の事情を聞き、ようやく腑に落ちたサガは、身体の調子を確かめるべく指先に力を篭めてみた。僅かに動くが、流石にまだ万全ではないらしい。
 身体の隅々にまで血流と小宇宙を行き渡らせようと深呼吸をすると、それに気づいた星矢がさりげなく小宇宙で力を貸してきた。
 その加減の正確さと力強さに正直なところ驚く。5年あったとはいえ、ただがむしゃらな発露であった星矢の小宇宙が、黄金聖闘士と比べても遜色ない形で鍛錬されているのがわかる。それでいて、少年の頃の純粋な輝きは失われていない。目の前の青年が、あの星矢であることの実感が急に押し寄せてくる。
「立派になったな、星矢…」
 動かせるようになった右手を持ち上げて、星矢の肩をぽんと撫でると、それまで笑っていた星矢の顔がくしゃっと歪んだ。子犬のような瞳から、見る間に涙がぽろぽろと零れ出す。
 思わぬ星矢の変化にあっけに取られ、手が止まった。
「良かった、サガだけなかなか目覚めないから、もう起きてくれないんじゃないかと思って、心配してたんだ」
 自分のために流された涙など、女神以外に見たことはない。こんな時にはどうしたら良いのだろうか。
 叛逆の徒であった自分を素直に慕う星矢の無防備さに、畏れの感情が沸く。涙に濡れながらも反らすことなく見つめてくる星矢の視線には、相手を貫くような光の強さが垣間見えた。そして、それはアイオロスを連想させるものだった。光から逃げるように瞳を伏せ、視線を交えぬまま静かに石台から身を起こす。
 サガは動揺を誤魔化すように軽口をついた。
「前言を撤回する。その様子では、まだまだ子供のようだ」
「そ、そんな事はないぞ!」
 星矢が慌ててごしごしと拳で涙をふき取っている。
(この相手のどこに、そのような強さを感じるのだろう)
 サガは、手を動かして彼の頭をそっと撫でてみた。少し硬めのクセのある髪の感触が手になじむ。子ども扱いするような仕草であるのに、星矢は振り払わなかった。
 何度も触れているうちに、ざわめいていた気持ちも落ち着いてきて、他人の体温も暖かいのだという当たり前の知識が、経験された実学として掌から脳裏へと納まっていく。
 そういえば、とサガは気がついた。自分はあまり他人へ触れることに慣れていない。触れられることにも慣れていない。他人との接触があったのは、遠く幼い時代に弟のカノンを数えるくらいだった。13年間の偽教皇時代などは、触れあうどころか素顔や肌を晒すこと自体がほとんど無かったし、敢えて近づく者もいなかった。
 ごく稀に機会があるとすれば、近隣村における慰問であったが、それは死に行く者へ安らぎを与える宗教的行為であり、平安を授ける手の下で人は皆、冷たくなっていった。
 今しがた抱きしめられた時の星矢の体温を思い出し、安らいだ自分に首を捻る。
(相手が、子供だからだろうか?)
 多分そうなのだろう。少年であったその後輩は、歳月を経て青年の身体つきへと変わり、見た目では18歳に戻った自分と変わらない。けれども、実の弟にすら向けられていた表層の防御壁が、この無邪気な後輩の前では簡単にほぐれていく。
 常であれば黒サガが敗北と感じるであろう自分への影響力にも、何故か反発を覚えない。
 親友のアイオロスにまで向けられる自分の負けず嫌いな性分が、星矢に対しては対抗心を燃やす前に溶かされていくのは不思議だが、もともと星矢に対しては、多大なる恩義を感じている。
 かつて野望を抱いた自分を、殺すまでには至らなかったものの一時なりと力をもって退けて女神の命を救ったのが星矢だった。
 考えてみると、あの時も素直に敗北を認めることができたように思う。
 黒サガにも『自分は女神ではなく、ペガサスに敗れたのだ』とする気持ちがあるようだ。
(ああ、侵食を許してしまうこの気持ちは、恩義からくる感謝に違いない)
 サガはそう結論付けた。

 落ち着くにつれて、さまざまな疑問が沸いてくる。
(いま、星矢はわたしだけが目覚めなかったと言った。という事は、他の者はすでに目覚めていることか)
 そのことに気づいて、慌ててサガは二人に尋ねた。
「皆は…アイオロスは、わたしの弟はどうなっているのだろうか?」
 名前を紡いだ途端、じくりと胸の奥深いところで痛みが走るが、そんな事を気にしている場合ではない。
 星矢と瞬は顔を見合わせて、現状を教えてくれた。
「アイオロスは真っ先に目覚めてる。普段は教皇宮でシオンの補佐をしながら、次期教皇としての教育を受けているよ。サガの蘇生の兆しを知って、一番にここへ来たがっていたけど、次期教皇ともなると、なかなか勝手が出来ないみたいでさ」
「カノンは二ヶ月ほど前に目覚めていますが、今は海界へ行っています。貴方の蘇生の予定について昨日連絡を出しましたので、明日にでも帰ってくるんじゃないかと思います」
 二人が無事に過ごしていることを知り、まずは安堵の息が零れる。
 しかし、過去の自分による彼らへの仕打ちを思うと居てもたってもいられない。
 石台から飛び降りて、素足のまま教皇宮へ向かおうとしたが、星矢が慌てて腰を捕まえ引き止めてきた。
「離してくれ星矢、わたしは…彼に、教皇とアイオロスに詫びないと!」
 だが、青年となった星矢の力は思った以上に強いもので、蘇生したての身が万全でないとはいえ、振り払おうとしてもビクともしない。
「落ち着いてくれ、サガ!アイオロスもシオンも逃げないから!それに、サガは生き返ったばかりでまだ本調子じゃないんだ。倒れでもしたら余計心配させてしまうよ」
 横から瞬も、遠慮がちに口を挟んでくる。
「気持ちは判りますが、今は二人とも職務中ですから…サガも身支度を整えてから会ったほうが良いんじゃないかな」
 そう言われてはじめて、自分の姿を見下ろしてみる。
 身を包む白のローブは柔らかい素材の寝間着で、確かに人前に出る服装ではない。
 身だしなみを整える配慮すら忘れていた余裕の無さに気づいて、顔が赤くなるのが感じられた。
 脱力感とともに、身体が崩れ落ちそうになる。それを星矢に支えられて、ますます身の置き所が無い。
「…お前たちの言うとおりだ。迷惑をかけて、すまない」
「迷惑じゃないって。ニ、三日は完全休養のつもりでゆっくりしてくれ」
「僕が代わりに上まで行って、女神や教皇にサガが目覚めたことを知らせてきますから…こっそり抜け出すのは無しですよ?」
 瞬が椅子から立ち上がり、そう告げてくる。念を押すように言い含められて、先輩としての立場がないなとサガは心のうちで苦笑した。


 瞬が教皇宮へ向かうと、部屋にはサガと、サガを支えている星矢が残された。
「…もう大丈夫だから、離してくれ、星矢」
 星矢は言われたとおり手を離したものの、くすりと笑っている。
 何を笑われたのだろうと考え込んでいると、星矢は悪戯っぽい目で見つめかえしてきた。
「アイオロスから聞いていたけど、サガって意外と猪突猛進なところがあるよな」
 唖然として半秒ほど固まるが、なんとか言葉を押し出す。
「…アイオロスが、そう言ったのか?」
「いや、アイオロスはもっと違う言い回しだったけどさ。俺がそう思ったんだ、サガは真っ直ぐだなあって」
 よりによって直情剛勇単純の最たる(とサガは思っている)二人から、そのように見られていることを知り、納得がいかず遠い目になる。星矢が続けた。
「カノンからも、サガの事は頼まれてる。海将軍の仕事で聖域に常駐できないので、蘇生後しばらくはお前のところで世話してくれって…アイオロスは、自分が面倒見るって騒いでたんだけどね。何でかカノンが渋い顔するし、シオンが『お前には教皇となるための修練がある。他者にかまける時間などない』って一喝して諦めさせたんだ。あの時のアイオロスの顔、見せたかったなあ」
「アイオロスは…何か他に、わたしについて言わなかったか」
「修練なんて早く終えて、サガとまた話したいと、いつも言ってる」
「そうか…」
 アイオロスはそういう男だった。憎むよりも、大らかに赦しを与える風の王。
 カノンと教皇のはからいには心から感謝した。もしも、目覚めた時、最初にアイオロスの顔が目に入っていたら、自分はおそらく、思考が働く前に己の命を絶っていたと思う。
 そんなことで再び彼の心を傷つけるのは望むところではないし、彼によって死に向かう己の弱さもプライドが許さない。サガは星矢に礼を言った。
「ありがとう星矢。お前のところで目覚めることが出来て嬉しい」
 星矢は、何故礼を言われたのか判らないようだったが、照れたように顔を赤くした。星矢の豊かに変わる表情を見ていると飽きない。彼は腹芸など出来ないのだろうなと思った。

「そういえば、ここはどこなのだろう」
 サガは部屋の中を見回した。女神の神気を感じることから、聖域の中であることは間違いないのだが、見慣れた双児宮ではなく、怪我人を収容するための病棟でもない。
 部屋からは、質素ながらも生活の匂いがした。
「ここは、俺が青銅聖闘士になるための修行をしていたときの住まいなんだ。魔鈴さんから譲り受けた」
「魔鈴というと、確かお前の師匠だったな」
「ああ、だからちょっとボロいんだけど、二人で暮らすには丁度いい大きさだろ?…サガには少しボロ過ぎるかもしれないけど」
「いや、罪人であるわたしには過ぎるくらいの家だと思う」
 星矢が目を丸くした。
「まだ、そんな風に思ってるんだ?俺の前で自分を卑下するのは禁止するよ」
「卑下ではなく事実だが…」
「サガは立派な女神の聖闘士だ。皆もそう思ってる」
「しかし…誰がそう言おうと、わたしは悪に負けた自分を知っている」
 星矢はじっとこちらを見つめた。その視線の強さに、また怯みそうになる。その視線は責めているのでもなく、呆れているのでもなく、ただ奥底に響くのだ。
「それでも、負けっぱなしじゃなかったろう?」
 かつて、ひとまわり以上も年下だったはずの星矢の言葉を聞いて、サガは泣きそうになっている自分に気がついた。
「まあ、サガにかぎってそんな事は無いだろうケド、またアイツが出てきて負けそうになったときには、俺が止めるから安心してくれ。だから、そんな風に自分に脅えないでいいんだ」

 サガはじっと星矢を見た。どうして彼の言葉だけが響くのか、やっと判ったのだ。
 星矢は自分が傷つけただけに終わった単なる被害者たちとは違う。傷つきながらも偽教皇へ立ち向かい、青銅でありながら最強の聖闘士である自分を倒した強い人間だ(それはアイオロスですら成しえなかった)。
 生まれて初めて出会う、自分より上位にあるかもしれない天馬の聖闘士。
 サガにとって世界は遠くにあり、人は全て自分による被害者もしくは弱者という括りでまとめられ、壁の向こう側にいた。そんな中、星矢だけが自分を倒すために壁を越えてきた。
 ずっと孤独だった壁の内側で、サガは初めて人間と出会ったのだ。
 世界でただひとり、サガが相手への負債による謝罪の言葉なしに『ありがとう』と言える特別な存在。
 星矢は、サガを殺すことの出来る最強の聖闘士だった。

 偽教皇としての過去の罪を変えることは出来ないけれども、未来には希望がある。
 もしもこの先もう一人の自分が現れたとしても、星矢が居れば止めてくれるだろうから。
 …ならば、自分は生きていてもいいのだろうか?

 静かに涙を溢れさせたサガに、今度は星矢が戸惑う番だった。
(わたしは、救われることが出来るかもしれない)
 サガは初めて、そう思った。



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(−2007/3/8−)

ちょっと星矢に依存するサガ予定