気が付くとそこは黄昏の花園だった。
柔らかな、それでいて強く主張することのない花の香が周囲に満ちている。
サガは軽く頭を振ると、ゆっくりと辺りを見回した。それから軽く指に力を込める。身体は問題なく動かせるようだ。
ここはいったい何処だろう…何故自分はここにいるのだろう。
そこまで考えて、それ以前の自分を思い出せない事に気がついた。しかし、思い出せないと言うことは、それは大して意味の無い記憶だからではないかという気もした。そこで彼は無理に記憶を辿ることはせず、足の向くまま歩き出した。
自分の事はわからないが、誰かが呼んでいるような気がする。そして、その相手を自分はよく知っている。焦がれるような焦燥を覚え、サガは歩みを早めた。そこに自分の求めるものがあるはずだ。
ズキン
胸が痛み視線を移すと、ローブにも似た衣服の左胸部分が、何かを貫いたように裂けている。
そこからわずかに覗く胸元には、大きな裂傷が見えた。
先ほどまでは気づかなかったが、最初から破れていたのだろう。着衣上なんの不都合もないが、少し身だしなみが気になり、そっと右手をローブの破れ目へあてると、何事もなかったかのように布の裂け目が閉じ、まっさらな一枚の布と化した。先ほどの衣類の破れは、もうどこにも見えなかった。
サガは多少驚いたが、ここではとくに不思議ではない出来事のように思われたので、再び思うままに、呼び声の方へと歩き出す。ここでは全てが移ろい、また何も変わらないのだ。
時間の感覚も失われるなか、しばらく進むと白い草原が現れた。
否、それは草原ではなく、視界のかぎり一面のスズランの園だった。ただ白く揺れるスズランの中、サガはようやく探している存在を見つけ、静かに近づいた。
そこには、この世界を圧する存在感で羽持つ冥衣の男が立っていた。
その男は自分と同じ銀髪であったが、軽い青みを帯びた自分の髪色とは違い、深く重く豪奢でありながら闇を思わせるような、鈍い灰銀の髪の持ち主だった。
額には五芒星を宿し、そして髪の色と同色の瞳。
創生の太古よりの深淵を湛えたとも思えるその瞳で、その男は傲慢にサガを見た。
人の身であるサガには、その闇を見つめ続ける事は出来ず、そっと目を伏せ、彼の前に跪いた。
相手は人ならぬ身分であると直ぐにわかった。神であるのならば頭を垂れるしかあるまい。
銀の死の神は、当然のようにそれを受け入れ、サガの頭上へと宣告する。
「13年間、お前は俺を呼び続けた。長きにわたり誰よりも死を叫んだお前の祈りを聞き入れ、願いを叶えるべくここへ呼んだ。」
今のサガには覚えの無いことであったが、神がそう告げるのであれば、間違いはないのだろう。
拝聴していると、さらに神の声は続いた。
「お前の望みどおり、永劫の罰を与える」
その途端に、足元から無数の茨が噴水のように湧き上がり、身体を持ち上げて肉を貫く。
鋭い痛みに声もあげられずに背を反らしたが、刺し貫いた何本もの茨の戒めにより、それ以上は動くこともかなわなかった。
またたくまに、サガの身体は上半身を残して蔓に絡めとられ、足を大地に縫い付けられた。茨の人柱だ。呻くサガの前に、死の神は轟然と笑い、そっと手を差し伸ばすとサガの左胸に触れた。
その瞬間、その指先から茨に倍加する苦しみと、その痛みを越えた安らぎが侵食してくるのを感じて、サガは目を見開いた。動悸が早くなり歓喜が身体を駆け巡る。13年間、求め続けたものが、今ここにあった。
サガの様子をみて、死の神は口端をわずかにあげ、薄く笑った。
「この瑕…お前が胸を突き、自ら死を選んだこの印がある限り、お前は俺のものだ」
それは事実だった。記憶こそなかったが、サガの魂はそれを是とした。
この裁きと心の平安こそが、ずっと乾ききった自分の請い願ったもの。
死と贖罪だけを望み、それを司る彼の領域に自ら堕ちてきた。自分が彼を望んだのだ。
後悔も戸惑いもなかった。今ここに自分があるのは当然であり、身体を走る痛みが、魂の飢餓に水を与えてくれる。この安らぎと引き換えに、自分の全てを渡しても良かった。
サガは感謝と畏れをこめて、苦痛に喘ぎながらも礼を失せぬよう低く尋ねた。
「わたしの主である、貴方の名を知りたい。」
死の神は、胸元から手を引くと揶揄をこめた眼差しでサガを見つめた。
その揶揄は、女神から黄金聖闘士をひとり掠め取った成果への満足と、敵対する陣営の戦士としてのサガへのわずかな侮蔑によるものではあったが、死して後までは厳密に生前の身分で区別をするつもりもなく、またこの極上の獲物を手放す気もなかった。
それに、冥界と地上の対立を考えなければ、死を讃えるサガの事は純粋に気に入っていた。
そのため、タナトスは冥府へ落ちてきたサガの魂から、故意に生前の記憶を抜き去っておいたのだった。
「…タナトス」
ただ一言だけサガへ応えると、死の神はゆっくり彼の額へ口付けを落とした。
イタタタタ。初星矢SS作品がタナ×サガ…。とりあえず、死に至る病は絶望ということで。