1.曖昧な関係 / 2.行き当たりばったり / 3.カノンの自衛 / 4.要不要 / 5.当然の拒絶
/ 6.連敗 / 7.水の器 / 8.水の器 / 9.花婚式
◆曖昧な関係…タナトスとヒュプノス
永劫を生きる神からしてみれば、数年単位の時間など一睡にもならない。
当然、4〜5年程度は新婚期間まっただなかと言って差し支えない。
それゆえに、飽きっぽいタナトスでも結婚生活は体裁が失われることなく、今日までやってきている。
ただ、結婚に至るまでの経緯を思えば、彼が人間(それも男)と結婚生活の体裁をとり続けていることは驚くべき現象であると言えた。サガとの結婚はいわば『事故』だ。ニンフたちからの行き過ぎた求愛を退けるため、サガに恋人の振りをさせて盾にするつもりが、結婚の約束があるかのような状況に追い込まれてしまったのだ。
神は嘘をつくことができず、そのせいで心ならずもサガと婚姻することになったというわけで、とんだ本末転倒である。
「人間を塵芥扱いしていたお前が、よくその人間との生活を続けられたものだな」
ヒュプノスがチェス盤の駒を指先で運びながら呟いた。
その内容についても駒の置かれた先についても、タナトスは顔をしかめながら答える。
「仕方あるまい、形式上であるとはいえ、嫁をおろそかには出来ぬ」
「いつまでこのような茶番を続けるつもりだ」
「あの人間が死ぬまでは続くのではないか?まあ封印をされていた期間に比べれば、わずかな我慢ですむ」
タナトスの返答にヒュプノスはため息をついた。タナトスは本気でそう思っているようである。真面目だからというよりも、死の神らしい素直な単純さによるものなのだが。
死の神としてサガの寿命をさっさと刈り取ってしまおうだとか、そういった絡め手で結婚期間を短くする方法は考えていないらしい。
「離婚は考えていないのだな」
ヒュプノスが肩を竦めて零すと、タナトスが思わぬことを聞いたとでもいうように目を丸くした。
「離婚……?」
「神が嘘をつけぬという約定は、結婚をしたことで既に果たしているだろう。あとはお前の自由ではないか?」
驚愕の表情を見せたところからして、まったく想定外であったようだ。
ヒュプノスは内心でため息をついた。
「そ、そのような裏技があろうとは」
「いや普通考えるだろう。そうせぬのは、よほどサガが気に入ったからなのだとばかり思っていたが」
「このオレが塵芥を?馬鹿な」
「では別れろ」
ヒュプノスからするとタナトスは自分の対であり、何かの玩具を気に入って遊ぶ分にはその楽しみを邪魔するつもりはないが、そうでなければ他人がタナトスとの時間を奪うことを許すつもりはない。
タナトスも自分を対と思っているはずであり、提案には即応するだろうとヒュプノスは踏んでいた。
しかし、タナトスは思わぬ曖昧な反応をみせた。
「う、うむ……そうしたほうが良いとは思うのだが、離婚となると塵芥の意志も確認せねば…」
意志の確認を取ろうとする時点で、塵芥扱いではなかろうとヒュプノスは心の中で突っ込む。
玩具だからと見逃していたが、執着を産むほどの玩具になってしまっているのだろうか。あの双子座は。
なんとなく不機嫌になったヒュプノスは、遠慮なくチェスの駒を動かし、チェックメイトを宣言した。
2013/4/1
◆行き当たりばったり…タナトスと白黒サガ
「結婚を解消する方法が見つかったぞ」
帰宅早々そのように切り出したタナトスの第一声に、サガは持っていた水差しを取り落とした。
「わたしに何か落ち度が…」
「人間でアテナの聖闘士で男という時点で嫁には不向きだが、それ以外に特に落ち度はない。だがお前もオレの約定に付き合わされていただけだろう?人間には過ぎた暮らしをさせてやったとは思うが、離婚をすればお前を女神の聖域へ追い返せる」
ヒュプノスの前では躊躇していたくせに、本人の前では神として亭主関白な夫として居丈高に振舞おうとするタナトスも、わりあいツンデレ系であった。
サガはうつむいて足元を見た。水差しから零れた水が床に広がっていく。
「……わたしに不満であったのか?」
「不満もなにも、お前は男だからな。嫁は女が良かった」
根っからの女好きのタナトスである。そして嘘がつけぬゆえに正直でもある。
俯いていたサガがさらに萎れた。サガは人間としては最高ランクのスペックを持っており、誰かに己を否定されたことはほとんどない。僅かな例は教皇候補選抜時など黒サガにまつわる事柄であり、白サガ自体は他人に受け入れられるのが当たり前の環境で生きてきたのだ。
それを、性別という訂正しようのない部分で突き放され、サガは打ちのめされるしかなかった。愛情の喪失で打ちのめされたわけではないところが、サガの困ったところだ。
「では、わたしはこの宮を出て行かねばならんな…身支度を整えるゆえ、しばし猶予をもらえまいか」
しおらしく言い出したサガに、タナトスも内心慌てていた。
タナトスからすると、自分はサガに愛情などなくとも、サガからは愛されていると思っていたのだ(根拠はない)。離婚を言い出しても反対され懇願されるであろうという計算でいたから、偉そうに告げてみたのである。こちらもこちらで困ったツンデレであった。
「い、いや、今すぐでなくともいいのだぞ。おまえは不要だが、いなくなるとデスマスクが美味い食事を作りにこなくなるしな」
ちなみにタナトスは女あしらいが大変上手い。ニンフ相手であれば、こんな駄目な台詞は出てこない。だが、さすがの彼も男の嫁にかける言葉は、ながい人生…神生のなかでも経験が無いだけに、動揺が先立っていた。
この台詞にサガの髪の先が黒くなりはじめる。料理ができないというのはサガの数少ないウィークポイントであり、否定の駄目出しをされたようなものだ。
「……ならばデスマスクと結婚すればよかろう」
「おい、サガ」
「実家に帰らせてもらおうか!」
ショックで引っ込んだ白サガに代わり、黒サガが堂々とタナトスへ言い放った。
2013/4/1
◆カノンの自衛…カノンと黒サガ
突然押しかけてきた黒髪の兄に、カノンは驚いた顔をみせたが、すぐにソファーへ座るよう促した。
ちなみに、カノンはエリシオンの離宮の1つをヒュプノスから貰っている。カノンにとってはサガの居る場所が自分の居場所であるとの思いがあり、タナトスを想うヒュプノスと利害や思惑が一致したためだ。
そしてサガにとっても実家とは十二宮ではなく、カノンのもとである。
ある意味、これは初めて黒サガがカノンを頼った瞬間でもあった。
「何があったんだ?」
「離婚を切り出された」
端的に答えた黒サガはどかりとソファーへ腰を下ろす。どこか微妙に不機嫌そうだ。
「オレは嬉しいが、おまえら上手く行ってそうな感じだったのに、どうしたんだよ」
「上手く行っていたと思っていたのはアレだけで、タナトスの側は結婚など最初から迷惑なだけであったということだろう」
むすりと答える黒サガに、カノンは心の中で『あれ?』と思った。
白いほうのサガならいざ知らず、こちらのサガであれば、タナトスとの離婚は諸手を上げて喜ぶであろうと予測していたのだ。
「なんだそれ、離婚が不満なのか」
「当たり前だ!このわたしの価値が分からんなど、やはりあの男は二流神よ」
「…ふうん。それで原因は?何をして怒らせたのだ」
「原因などない。結婚を解消するのに離婚という手段があることを、ようやく奴が認識しただけのこと」
「その言い分だと、おまえは前から気づいていたのだな」
カノンが問うと、黒髪のサガははっとしたような表情になり、それから気まずそうに視線を逸らした。
「アレが…もうひとりのわたしが楽しそうであったゆえ、口をだすこともないかと…わたしにとっても聖域で過ごしてあの男の配下となるよりは快適ゆえ…」
あの男というのはサガの親友であり、次期教皇でもあるアイツのことだろうなあとカノンはふんだ。黒サガもサガだけあって、相当にねじくれている。己の好意がどこにあるのか、自覚出来ないタイプなのだ。善性や正の感情の大部分を受け持つのが白サガであるためかもしれない。
カノンはため息をつきながらもサガを諭す。
「ある意味これは好機ではないか?向こうから言い出したんだ。円満に別れられるだろ。お前だって何故男神の嫁なんかにならねばならんのだと、散々愚痴を言っていたじゃないか」
「そうなのだが、別れるのならば惜しまれ悔しがらせた上で別れたい。こちらが振られるような形態は論外だ」
「お前な……」
タナトスもタナトスだが、サガも大概である。
カノンはこめかみを押さえながら尋ねた。
「じゃあ、どうするつもりなのだお前は」
それに対して帰ってきた返事は、カノンにとって斜め上すぎるものであった。
黒サガはソファーの上でふんぞりかえったまま、こう言い切ったのだ。
「浮気をしようと思う」
「……」
何故そうなるのか、頭の回転の速いカノンにもまったく流れが見えない。
「……ちなみに、何で?」
「このわたしがモテると判れば、わたしの価値を理解して悔やむであろうからな!」
「……」
黒サガもサガだけあって、恋愛方面はからっきし駄目なのだなと、カノンはまた思った。
「そんなわけで、愚弟よ。丁度いいからおまえが相手をしろ」
「ごめんこうむる」
時をおかぬカノンの否定に、黒サガが本気でショックを受けた顔をしていたが、そんな顔をされるほうが心外だとカノンは思った。
2013/4/1
◆要不要…シュラと黒サガ
エリシオンへ足を運んだシュラは、通り道の花園に、楽園らしからぬ闇色が小さな絨毯のように広がっているのを見つけた。
「何をしているのですか」
シュラが話しかけると、その闇の絨毯がごろりと動いて、広がった髪のしたから紅玉の瞳が覗く。
「不燃物の気持ちになっていたのだ」
「何を訳のわからないことを。あなたは燃えるでしょう」
シュラも相当に天然であったが、とりあえず黒サガがやさぐれていることは感じ取っていた。道から逸れて黒サガの寝転んでいる花園へと踏み込む。花を踏まぬようにあるくのはなかなか大変だなと思いながら。
「どうしたんです?」
「わたしはそれほど価値のない人間か?」
聞かれたシュラは大そう驚いた。
この自信家のサガが、誰かに自分の価値を尋ねるなど考えられない。
「あなたの価値を他人が量ってよいのですか」
そう返すと、サガは首を捻り、言いなおした。
「わたしはそれほど必要のない人間か」
「あなたなら引く手数多でしょう」
「わたしもそう思っていたのだ。なのに奴らはわたしを要らぬという」
「やつらとは?」
サガはちらりと視線を動かした。視線の方角にあるのはサガとタナトスの住まいであり、弟の住むエリアでもある。
「お前ならばわたしの浮気につきあってくれるか」
サガがいきさつを説明したうえで尋ねてきたが、シュラは困ったような顔をするしかなかった。
「できません」
「……そうか」
サガは黙って立ち上がると、法衣にまとわりついた草や花びらを払った。
「おまえもわたしが不要なのだな」
「違います」
「違わないだろう」
「浮気だから嫌なんです、カノンもきっと」
「意味が判らぬ」
こちらのサガは本当に判っていないようであった。
「まあいい、他のものにも聞いてみよう」
「え、ちょっと、サガ!」
シュラが止める間もなく、黒髪のサガはどこかへと瞬間転移で消えていった。
2013/4/1
◆当然の拒絶…アイオリアと黒サガ
それでも最初は平穏な空気だったのだ。
黒髪のサガが尋ねてきた時、アイオリアは驚きはしたものの、もうひとりのサガへするように挨拶をして迎え入れた。過去をなかったことには出来ないものの、恨みつらみに拘るよりも、辛酸を糧とした今の自分を誇りにして、真っ直ぐに前を見て行こうと、彼は決めていたのだ。
平穏でなくなったのは、サガの一言からだった。
「わたしと寝てみる気はないか」
「は?」
何を言われているのか理解するまでに時間が掛かったのは、決してアイオリアの飲みこみが悪いせいではない。それくらい突拍子もない言葉であっただけだ。
「わたしの浮気の相手をしろ」
「浮気……?タナトスはどうした」
「エリシオンにいる」
「本気なのかどうか知らぬが、おまえの夫だろう」
「フン、その夫から離縁を言い出された。それゆえにわたしの価値を見せ付けてやろうと思ってな」
鼻で笑うサガと対照的に、すうっとアイオリアの目が細くなる。
「俺を馬鹿にしているのか」
闇のサガは何故アイオリアが怒っているのか判らない。
怒っていることすら判っていないかもしれない。
「このわたしが誰かを誘うなど、滅多にないことなのだぞ」
「汚らわしい」
アイオリアもまた、こちらのサガの思考回路に慣れていない。それほど親しくもない。そのため、言葉の奥の真意を汲み取るような芸当は出来なかった。
よって会話は平行線だった。
黒サガはきょとんとすら見える表情でアイオリアを見る。
「わたしは、汚らわしいか」
「冥界の悪神などと通じているだけでも汚らわしいのに、操すら立てられんのか。おまえは誰でもいいのか?その堕落した因業に俺を巻き込むな!」
「誰でもいいわけではないぞ」
サガがタナトスとの結婚生活で身に付けた習慣の1つに、『嘘をつかないこと』がある。
タナトスは自らの前で人間が偽ることを嫌い、また、大概の思考は隠そうとしても神の前において無駄である。大らかにカノンの虚言を許容したポセイドンと違い、タナトスは婚姻まで結んだ相手の嘘を許さないだろう。
だが、本音を漏らさぬ闇のサガが口にする言葉は、嘘ではないけれども真実でもなかった。
「おまえは、アイオロスに似ているからな」
これが、アイオリアの怒りを決定的にした。
アイオリアは物も言わず黒サガの胸ぐらを掴むと、そのまま引きずるようにして扉の外へ叩きだす。それきりサガに扉が開かれることも声がかけられることもなかった。
「……なにが、不満なのだ」
自分の言葉がアイオリアを傷つけたことは察したものの、何がいけなかったのか、聡い頭脳を持ちながら彼にはさっぱり判らないのであった。
当然ながら、自分が傷ついたことには全く気が付いていなかった。
2013/4/1
◆連敗…デスマスクと黒サガ
そのとき、デスマスクは珈琲を挽いているところであった。
良い豆が手に入ったので、午後の一服を楽しもうとしていたのである。
そこへ突然現れた黒髪のサガを見たときの感想は、『タイミングいいな』であった。
デスマスクの印象として、どちらかといえばサガは『タイミングの悪い』人間である。そのせいで二割ほど人生を損しているのではないかと思うほどだ。とはいえ、もともと持っている才能や英気や美貌が他人より抜きん出ているのだから、それでもマイナスにはならないだろう。
ちなみに彼のなかで『タイミングの良い』人間の筆頭はアイオロスだ。
「どうしたんスか?」
とっておきの客用珈琲カップを取り出し、自分のカップの隣へ置く。
サガはもてなされるのが当然のように木製のチェアへ座ったが、デスマスクは密かに眉をひそめた。長年のつきあいだけあって、サガのわずかな小宇宙の乱れを見落とすことはない。珍しく黒髪のほうのサガが意気消沈しているようにみえる。
「アレが、フラれた」
「はあ?」
「それでわたしもフラれた」
「何言ってるのか全然判らないんですケド」
話を聞きながらも手は休めずに、挽きたての珈琲を布製のフィルターでドリップする。紙製を使わないのは彼なりのこだわりで、香りが部屋へと充満してゆく。
「だから、浮気相手を探しているのに、誰からも断られる。わたしはそれほど価値のない人間か?」
「……」
これでもまだ説明不足すぎて、何のことやら意味不明である。
しかし、デスマスクはだてに長年を共に過ごしてきたわけではなかった。
根気よく丁寧にサガへと話しかけた。
「それで誰にフラれたって?」
「カノンとシュラとアフロディーテとアイオリア」
「うおおおおおい、そんなに声かけたのかよアンタ!何でまた!」
「タナトスを見返してやろうと思ったのだ」
「タナトスの浮気の仕返しにか?あの神の女好きはいつものこったろ!アンタは気にしてないと思っていたんだが」
「そのようなことは気にしておらん。ただ、アレを離縁をすると言い出して…」
デスマスクの目が点になる。
正直なところ、よく数年も結婚生活がもったものだと思っていたので、タナトスからの離婚の言及は予測の範疇内なのだが、予想外なのは黒サガの反応だ。
「嬉しいだろ?やっと男の嫁なんて立場から開放されるんだぜ?」
「それは嬉しいが、アレの…わたしの価値を否定されるのは許せん」
「それがなんで浮気に繋がるんだよ…って、見返すためというのはそれか!?」
デスマスクからすると恋愛音痴としか表現のしようがない。しかも、浮気の誘いをことごとく断られ、自爆を重ねているようなのだ。
「考えてみれば、わたしは誰にも必要とされたことがない。私自身にすらだ。世界を手にするだけの力を持っているのに、何がいけないのだ」
いくら馴染みのデスマスクの前とはいえ、このサガが他人の前で愚痴を零すなど、相当に打ちのめされている。本人には半分ほどしか自覚がないようだが。
デスマスクはそっとサガの前に珈琲を差し出した。
(さて、俺にも浮気の誘いが来たらどうしようかね)
おそらく、というかほぼ100%そのつもりで来ているのだろう。安売りなどサガに似合わないことこの上ない。
サガを大切に想うがゆえに、または真面目であるがゆえに断った面子と異なり、デスマスクは浮気くらい問題ないかなとは思っている。サガを楽しませる自信もある。
ただ、そのあとが怖い。
サガを受け入れた自分は、多分タナトスとアイオロスを相手にすることになるだろう。
それも怖くない。
怖いのは、デスマスクを相手にした事を、それによってサガが後悔するかもしれない未来だ。
(しょうがない、全力ではぐらかすか)
自分までが断った時のサガの顔を見たい気もしたが、デスマスクはそこまで酷い男ではなかった。
冷めぬうちにと自分も珈琲カップを口につける。
焙煎の苦味が舌先に広がった。
2013/4/1
◆水の器…タナトスとヒュプノス
「嫁が出て行ってしまった」
慌てた様子でタナトスが駆け込んできたので、ヒュプノスは遠い目をした。
「とうとう愛想をつかされたか」
ヒュプノスは大層タナトスを愛しているのだが、表面にそれが現れないため、傍目にはぞんざいに扱っているようにしか見えない。
「違うわ!離縁の話をしただけだ」
「お前から離縁を言い出したのなら、慌てることはあるまい」
「結婚解消の方法があると言っただけで、離縁するなどひとことも言っておらん」
「……お前は短慮なだけでなく、馬鹿なのか」
繰り返すがヒュプノスはタナトスをとても大事にしている。
しかし、それが表面に現れないため、とても損をしていた。
タナトスもさすがにムッとする。
「お前に相談したオレは確かに馬鹿であったな」
そのままくるりと背を向けて出て行こうとしたので、慌ててヒュプノスはタナトスの法衣の裾を踏んで引き止めた。
「離婚する気はないということか」
「玩具を捨てるのは、オレが飽きてからだ!勝手に出て行くなど恩知らずも甚だしい!」
いろいろ言い分が図々しいのは、神なので仕方がない。
ヒュプノスは密かにため息をつく。タナトスと自分が水入らずの時間をもてるようになるのは、もう少し先になりそうだ。
「ならば拾いに行けばよい。拾い上げたうえで勝手に出て行くなと命ずれば戻ってくるであろう」
「戻ってくるだろうか」
「人も玩具も、必要とする者のところに落ち着くものだ。出て行かせるつもりがないのなら、手元で使い捨てればよい」
とても嫁に対する会話とは思えないが、人間を塵芥とも扱っていなかった彼らからすると、これでも格段の進化なのである。
「そ、そうだな…戻ってきて欲しいわけではないが、アレはニンフたちのアプローチからのいい弾除けになるからな」
「……」
「話を聞いてくれて感謝する、ヒュプノス」
そわそわと出て行ったタナトスの姿は、家出した妻を追いかける夫そのものであったが、本人としては使い勝手の良い玩具を拾いに行くだけのつもりでいる。
「水が器に従うというのは、神にも当てはまるのだな」
形式だけの婚姻が、心の形を変えることもある。
残されたヒュプノスは不満そうにぼそりと呟いたが、己の撒いた種がそれなりにサガへ痛い目を見せているであろうことを想像して、少しだけ溜飲を下げた。
でもヒュプノスはサガが嫌いでもないという不思議 2013/4/1
◆ロスト…黒サガとアイオロスとタナトス
黒サガは聖域外れの岩に腰を下ろしていた。
軽い気持ちでエリシオンから出てきたものの、誰一人として相手にしてくれなかったことについて、人心の機敏に疎い彼ですら多少傷いていた。正直なところ自業自得であり、やりかたの拙さが原因なのだが、他人の好意を得ようなどと思ったこともない彼にとって、そんなことは脳裏に浮かびもしていない。
彼が理解したのは、自分が思ったよりも必要とされていないと言うことだけだった。
(いや、まだ押しかけていない相手がいる)
ふとそんなことを考えてしまったのは、無自覚ながら相当ダメージを受けている証拠だ。
こちらのサガが、このような場面でアイオロスを俎上にあげることなど、まずプライドが許さないからだ。
すぐに彼は首を横に振った。自分のこのような状況など、アイオロスにだけは知られたくなかった。彼にだけは神のような自分であらねばならない。
そこには、負けたくないという以外の理由も存在していたけれども、サガがその感情を認めることはなかった。いや、認めるということ自体が負けを受け入れるようなものかもしれなかった。
「ねえ、エリシオンを出てきたんだって?」
どきりとサガの心臓が跳ね上がる。
たった今脳裏に浮かんだばかりの、ここにいるはずのない男の声だった。
デスマスクが彼を『タイミングの良い男』と評していることなど知る由もなかったが、サガが振り返ると、オリーブの木立の向こうからアイオロスの茶褐金色の髪と、心臓を射抜くような翠緑の瞳が見えた。
「誰から聞いた」
「風の噂で」
アイオロスは教皇見習い用の、丈夫な厚手の法衣を着ていた。おそらく、ここへ来る直前まで、教皇宮で修養に励んでいたにちがいない。
「わたしがどこへ行こうと、わたしの勝手だ。貴様には関係ない」
「君がエリシオンを出たあと、何をしようとしたか、俺は知っているよ」
サガへの返事としては唐突であったが、芯を貫く言葉でもあった。サガの呼吸がほんのわずか止まり、それから瞳に憎しみの色が宿る。どこから情報を得たのだとは思わない。かつて自分が偽教皇をしていた時も、教皇宮にいながらにして、世界各地から情報を得ることが出来た。教皇の住まう場所は、人智を超えたところにあるのだ
「……笑いにきたのか」
「違うよ」
「では何だ」
「サガ。どうして知っているくせに、知らない振りをするのだ」
「『わたし』は知らん!こんな感情など!」
それは確かに闇を受け持つほうのサガが知るはずのない理由と感情であった。そういったものを分担するのは、ふつう、もうひとりのサガであったので。
「君もサガのはずじゃないか」
アイオロスはじわりとサガの退路を削っていく。
「浮気相手を探しているんだよね」
「それが、どうした」
歪んだ笑みで悪意を向けるも、アイオロスは引こうとしなかった。
「どうしてそんなに、自分を傷つけようとするのかな」
「は?何だそれは」
「どうして俺から逃げるの」
真っ直ぐにサガを見すえる瞳には、底の見えぬ深淵が浮かんでいるようだった。のみこまれそうな眩暈をおぼえ、黒髪のサガをして後ずさらせる。
彼が恐れたのは”のみこまれたら、どうなるのだろう”と一瞬考えてしまった己の思考の不確かさだった。彼のような存在にとって、自分で自分を信用できない瞬間というのは、何より恐ろしいものだ。
サガが下がった分、ゆっくりとアイオロスが歩を進める。
狩人の伸ばした手が獲物に届こうとしたそのとき。
ふいにあたり一面へ、強大な死の神意(デュミナス)が降り注いだ。
銀色の光が粒子となってはじけ飛んでいる。このあたりは外れとはいえアテナの聖域だ。聖域を満たしているアテナの暖かな小宇宙が、冷たい死の小宇宙に反発しきらきらと舞い散っているのだ。
「タナトス」
サガが聖域に降臨した神の名を口にした。
どこかほっとしたような色の混じる声に、アイオロスが冷えた視線を向ける。
(もう少しで、彼の中身を洗いざらいひっくり返してやれたのに)
それでもアイオロスは次期教皇として、やってきた神に礼を取らねばならなかった。教皇はあらゆる権限を持つ代わりに、私情で振舞える立場ではなくなる。
「ようこそ、死の神よ。聖域に何ぞ御用がおありか」
判りきった問いを、茶番と思いながらもアイオロスは尋ねる。
「嫁を迎えに来た」
幸いなことに、タナトスはアイオロスの心情を読むどころではなかった。サガを見つけると髪の色など気にせず怒鳴りつける。
「夫に迎えにこさせるとは、どこまで出来の悪い嫁なのだ貴様は!」
「出来が悪くて悪かったな。それゆえ離縁するのだろう」
「誰がそのようなことを言った。だいたい、お前のような出来の悪い嫁を、オレ以外の誰が相手にするというのだ」
サガが目をしばたき、タナトスを見る。
しまった、とアイオロスは胸のうちで舌打ちをした。タナトスが来る前に、さっさと口にしてしまえばよかった。まさかタナトスが此処まで来るとは思っていなかった。今更見通しの甘さを後悔しても遅いのだが。
アイオロスの予感どおり、サガは目を伏せて自嘲した。
「残念ながら、そのとおりのようだ。わたしを必要とするものなど、他におらぬ」
今さらアイオロスが違うと言っても、伝わらないだろう。
タナトスが駄目押しのようにサガへ告げる。
「おまえはオレが飽きるまではオレのものだ。勝手な里帰りなど許さん」
それを聞いた黒サガは笑い出した。笑い声は次第に大きくなり、次第に髪の色が変わっていく。
タナトスの豪奢な銀髪とは対照的な淡い金髪があらわれ、アメジストのようなやさしい夕暮れ色の瞳がまたたくと、人格転移は完了した。
「……わたしは、お前のところに居てもいいのか?」
同じ音質でありながら、印象のまったく違う声がタナトスへ問いかけている。
アイオロスは強く拳を握りこんだ。
(タイミングは良いはずなのに、どうしていつも間に合わないのだろう。どうして自分は教皇に選ばれたのだろう)
聖域を巻き込む立場でなければ、「行くな」と言えるのに。
春を迎えた聖域には、エリシオンには及ばなくとも、あちらこちらと花が咲き乱れている。
サガは一度だけアイオロスのほうを振り向いた。視線はアイオロスの表情ではなく、きつく結ばれた握りこぶしに向けられている。
「迷惑をかけたな、アイオロス」
その言葉と共にサガとタナトスは消え、アイオロスは拳を地面へとたたきつけた。
2013/4/1
◆花婚式…白サガとタナトス
神力をつかい、エリシオンの神殿へと戻ったサガに、死の神は1輪の花を差し出した。
地上の花ではない。決して枯れることのない、七色のひかりを彩なす天上の花だ。
「これを、わたしに?」
「四年目は花婚式というのだろう、人間の世界では」
ぶっきらぼうな言い方で渡されたそれを、サガはそっと両手で受け取った。
散ることのない代わりに、実ることもないエリシオンの花。
この徒花は今の自分にふさわしい贈り物の気がした。
「ありがとう、タナトス」
サガは微笑んで、そっと花の香をかいだ。
芳香は控えめに肺へ染み渡り、サガの奥底の痛みをやわらげた。
そうしてこうべを垂れるサガの姿こそ、純潔をあらわす白百合のようであった
2013/4/2