HOME - TEXT - MAIN - ウォーターサファイア

◆ウォーターサファイア
※このお話にはロストキャンバス設定が混じります。

〜1〜

「上に仰ぐお方が女性というのは、どういう感じなのだろうな」
 バイアンが呟いたのは、別に深い意味あってのことではない。先日、三界会議に海将軍筆頭の補佐として参加した席で、ラダマンティスの護衛する冥界のパンドラや、聖域の教皇と和やかに話すアテナを見る機会があり、何となくその場面を思い出したというだけだ。
「気苦労が増える気はするぞ」
 と呟いたのはカーサで、
「女性がいるという意味では多少華やかになるかもしれないけど、うちにはテティスがいるからあまり変わらないかな。何で急に?」
 と尋ね返したのはイオだ。
「凄くどうでも良い事なのだが」
 バイアンは前置きし、こほんと咳払いをしてから続ける。
「女性が会議に参加するとな、休憩時間のお茶請けにスイーツが出るのだ」
「本当にどうでも良いことだ…」
 横に居たアイザックがぼそりと呟いている。イオは小さく首をかしげた。
「あれ?アテナは毎回出ているんじゃないんだ?」
 その疑問を聞いたクリシュナが、顔をあげて指摘した。
「基本的に神は参加しておらんぞ。休眠中のハーデスと半封印中のポセイドン様を差し置いてアテナのみ出席しては、色々と偏ろう。前回も会議後の交流会には顔を出していたようだが、会議自体には参加しておらぬはず。議事録を読んでいないのか」
 スキュラは素直に頷き、話題はそこから年長海将軍による会議のシステムや狙いなどのレクチャーとなっていった。そのため、バイアンの話はいつもの雑談の1つとして、とくに誰の記憶に残ることもないままに終わった。

 だから、まさかポセイドンがそれを聞いていて、なおかつ悪戯心を起こすなどという事は、彼らも予想だにしなかったのであった。

2009/10/3


〜2〜

 海界へ遊びに下りたサガは、いつものように北大西洋の宮でカノンの仕事が終わるのを待っていた。最近は海闘士たちも慣れたもので、黄金聖闘士であるサガの訪問に対し、多少の警戒心を払いつつも、基本は放置状態である。
 海龍の従者が用意してくれた紅茶をのんびり頂きながら、硬めのソファーへ身体を預け、サガは聖域に居るときよりも余程寛いでいた。
 そんなひとときを過ごすなか、ふと空間の揺らぎを感じてティーカップを傾ける手が止まる。原因を探るため意識を集中させたサガは、その結果に眉をひそめた。
(海神の小宇宙がこの部屋へ集まっている…)
 だがそれは、いつものポセイドンの小宇宙とは比べるべくもない小さな波動だった。黄金聖闘士たるサガであればこそ、わずかな変化に気づくことが出来たのだ。精神感応で周囲の海闘士や従者たちの様子を調べたものの、気づいた者はいないようで、サガは首を傾げる。
(お忍びということか?)
 考えている合間にも、その気配は確かなものとなって目の前に人の形を取り始めている。
(わたしは此処にいても良いのだろうか)
 ポセイドンが内密にシードラゴンを訪れるということならば、この場は遠慮すべきなのかもしれないと考えかけ、支配界内の聖闘士の存在に気づかぬ海神でもあるまいと思い直す。
 おそらく、サガの存在など最初から把握した上で、この宮を降臨の場に選んだのだ。
 サガは椅子から立ち上がると、出現地点の前で跪いた。相手は異界の神なれど、自分は客分の身であり、海龍の兄としては礼をとるべきであると判断したためだ。
 部屋の中に光が溢れてゆき、静かにゆっくりとポセイドンが顕現する。海の波動が穏やかに満ちてゆく。
 以前にも海神の降臨に立ち会った経験のあるサガは、それほど慌てることもなく、顔を伏せたまま降臨の完了を待った。

 建前としては、ポセイドンはアテナの封印によって壷へ閉じ込められていることになっている。
 しかし、聖戦後に結ばれた講和条約のあと、女神はその封を緩めた。ただでさえ本気の海神の前では効力の薄い封である。ポセイドンは比較的自由に壷を抜け出しては、こうして時折海界に示現しているのだった。公然の秘密というやつだ。
 封印を隠れ蓑に影で自由に動くことのできる立場を手に入れた海神と、封印を女神の威光として示しつつ、海神の協力を取り付けたい聖域の思惑は一致している。
 それを知っているサガは、此度の降臨がどのような理由であれ、口外するつもりはない。

 空間の揺らぎが落ち着くと、雄大な神威のこもった意思が、直接サガの脳へと響いた。
『久しいな、双子座の聖闘士よ』
 サガは一層こうべを垂れる。
「は、御身による我ら双子への温情、常日頃より感謝を忘れてはおりませぬ」
『堅苦しい挨拶はよい』
 どこか機嫌のよさそうなポセイドンに、サガは内心で首を捻りつつ目的を尋ねた。
「弟は不在にございますが…」
『構わぬ。奴の留守を狙って来たのだ。ここで帰りを待ち、驚かそうと思ってな』
 どうやら、考えていた以上に私的な降臨であったようだ。
 聖域ではアテナの奔放さに聖闘士たちが振り回されることもあるが、どうやら海界においてもそのあたりは大差ないらしい。
「では弟が戻るまで、酒でも用意いたしま…、!!!」
 顔をあげかけたサガは、そのままビクリと固まり、声にならぬ叫び声をあげた。
 目の前には全裸の美しい女性が、前を隠しもせずにサガを見下ろしていたのだった。
 流石のサガも意表を衝かれ、口をあけたまま数秒固まる。
 そして我に返ったその後は、慌てて視線をおとし床へこすりつける勢いで顔を伏せた。

2009/10/3


〜3〜

「お、恐れながらそのお姿は一体」
 しどろもどろになりながらも、サガは顔を上げることが出来ない。跪いた姿勢ゆえに、顔を上げるとちょうど視界が微妙な位置にあたるのだ。
『なに、気分転換だ』
 美しい金髪をさらりとかきあげ、豊満な肢体を惜しげもなく見せ付けるポセイドンに羞恥心などないように見える。見た目の清楚さとは随分なギャップだ。サガは恐る恐る尋ねた。
「全裸になることがですか」
『違うわ!たまには見た目を変えて職場に華やかさを与えてやろうという、福利厚生的配慮よ』
 答えを返されたものの、サガにはその配慮とやらが全く理解出来ない。
 神の考え方はよくわからぬものだと胸裏で零しつつ、それでも話を合わせる。
「女性の姿になることが出来るとは存じ上げませんでした」
『容れ物があったのでな』
 そう言われてみると目の前の存在感は幻影などではなく、確かな現実の肉体のものだ。
 という事は、この身体も誰かの身体を奪って使っているのだろうか。
「海神の依代は、ソロ家の直系男子と伺っておりますが…」
 思わずサガの口調に非難めいた色が混ざってしまったのは仕方がない。
 そんな感情を見通しているのかいないのか、ポセイドンは面白そうにサガを見下ろす。
『それは存命の人間に降りる時の話だ。この身体は数百年ほど昔のブルーグラード領主の娘のもので、海神の力の器として前シードラゴンが用意した遺骸。前水瓶座のつくりし溶けぬ氷柱に埋もれておったゆえ、肉体がそのままに保存されておったのだ』
 どこからか攫ってきた女性ではないことに安堵しながらも、耳にする内容はなかなか衝撃的なものではあった。
「用意などと…まるで道具のようではありませんか」
『ただの道具とは思わぬ。これは前シードラゴンの姉の身体』
 さらりと海神より告げられた内容に、サガは絶句した。
 何があったのかは判らないし、海界の過去に対して聖域の人間が軽々しく口を挟んでよいものではないのかもしれない。それでも、前海龍という言葉が現海龍であるカノンを連想させる。前海龍は何を思い、肉親の遺骸を神へと差し出したのだろうか。
 無言でサガは立ち上がり、クローゼットへと向かった。頻繁に訪れるサガのために、何枚かの法衣が着替え用としてそこに収められている。その中から落ち着いた色合いの一着を取り出して、サガはポセイドンの処へ戻る。
「配下の身内であろうと亡くなられていようと、若い女性の身体を勝手に他人が晒すものではありません」
 口調は穏やかなものの、反論を許さない言い回しだった。
 サガはそのまま手にした法衣を丁寧にポセイドンの頭から被せていく。どこか手つきが優しいのは、相手が神だからという理由ではなく、女性の身体であるからなのだろう。
 サガのサイズは当然ながら細身の女性に合うものではない。裾は引きずり、袖口は指の先まで隠してしまう。しかし、何もないよりマシだとサガは前留めの掛け金を止め、身なりを整えてやる。
 神相手にも遠慮のないサガのこの行動には、ポセイドンも目を丸くしたが、言訳のようにもごもごと返す。
『…仕方あるまい。そもそも裸で保存されておったのだ』
 当時はそれでもポセイドンの力を具現化させた鱗衣を纏っていたが、神の力をそのままには出来ず、呼び戻した結果の全裸だった。だが、それを目の前のサガには言いにくい。
「未成年の海将軍たちの前へ、そのまま行かぬご配慮があったのは何よりです」
『海将軍たちは、器の外見など気にせぬぞ』
「それはどうでしょうか」
 聖域の人間として多少は客観的に見ているサガからしても、カノンや海将軍たちがこの海神を見たときのことを思うと、とても気の毒になった。もしこれがアテナで、臣下を驚かすなどという理由から男性の全裸姿で現れた日には…
 それ以上は考えたくもなく、眉間に縦じわを作りながらサガは目の前のポセイドンに意識を戻す。
「ポセイドン様」
『な、何だ』
「そのような理由でその身体をお使いになるのなら、せめてその女性に相応しく美しく装うのが礼儀です」
『うっ、しかし』
「職場に華やかさをとおっしゃったのは貴方ではありませんか」
『確かに申したがな』
「女官たちを呼んで身だしなみを、そうだ、テティスに見立てを頼みましょう。ドレスは何色が宜しいですか。海界ならば真珠や珊瑚の類は最高級のものを選べるとして、あと折角可愛らしいのですから、振る舞いもそれに見合ったものになさるべきです」
 畳み込むように手配を決定していく速さは、教皇職経験者だからというよりも、サガの性格と基本能力によるものだ。
『か、可愛い!?』
 サガの面倒見の良さは対象を限定しない。たとえ相手が他陣営の神であろうとだ。その恐ろしさをポセイドンは身をもって知ることとなる。
「可憐と申し上げるべきでしょうか?何にせよ、その姿はなかなか魅力的です」
『………おぬし、天然の女たらしか』
「何かおっしゃいましたか」
『いや、何も』
「いま小宇宙でテティスを呼んでおりますので」

 悪意はまったくなかったが、混沌を喚ぶ者とクロノスの称したサガの介入により、当初の海神の目的からはどんどん離れた方向へ事態は流れてゆくのだった。

2009/10/4


〜4〜

「…………」
 自宮へ戻ってきたカノンは、無言で部屋の入り口に立ちすくんだ。
 中には輝かんばかりに美しい娘が、春の陽だまりのような微笑を浮かべてカノンを出迎えようとしている。
 宮仕えの女官たちとは明らかに違う。身にまとう衣服も最上級のものだ。薄絹を重ねたAラインのドレスは、純白の生地が裾へ向かって薄紅が広がるように色合いの変わるグラデーションで、胸元を飾るピンクパールのネックレスと見事な調和が取れていた。白魚のような指に可愛らしくはまっているのは、小粒の珊瑚の指輪だろう。流れる金髪に編みこまれた白のリボンは、動くたびに変化を生み可憐さを引き立てている。
 天上の女神と言われても、人は信じてしまうに違いない。その娘の後ろには何故か満足そうなサガと、櫛を片手にこれまた自慢げなテティスが立っていた。
「…………」
 外から事前に把握した小宇宙によって、サガ以外の人間が宮へ入り込んでいることは、カノンも判っていた。
 サガ目当てに海闘士たちが訪れるのは時折あることで、海皇の気配が感じられることが少し気になったが、聖戦後のポセイドンは封印を抜け出すことも多いので、深く気に留めていなかったのだ。
「…………」
 無言のまま何のリアクションもとらないカノンを見て、サガがその娘に話しかける。
「申し訳ございません、貴方のあまりの美しさに、愚弟は声もないようで…」
「違うわ!」
 初めてカノンが大声を出した。
「何が違うのだ。アテナと比べても遜色ないお姿を前にして、美しくないとでも言うのか」
「そうですよシードラゴン様。照れているにしても、もう少し別のお言葉があるでしょう」
 呆れたようなサガに続いて、テティスまで不満そうな顔をする。
 しかし、カノンはそんな言葉を聞いていない。真っ青な顔で、つかつかと一直線に双子の兄の前へ向かう。
「お…お前…、うちのポセイドン様に何をした!幻朧拳か、幻朧魔皇拳か!?」
 海将軍筆頭として、さすがに中身が海神であることは瞬時に見抜いている。
 外見など関係ない。たとえポセイドンがどのような姿をとろうと、海将軍は自分の主を間違えないし、見た目の美醜など気にしないだろう。
 しかし、可憐な娘の姿でカノンに笑いかけたときの、たおやかげな微笑みときたら!(ちなみに娘らしい動作や表情は、サガとテティスの指導の成果による)。
 違和感で鳥肌を立てまくっているカノンは、とりあえず原因を兄に求めた。
「何を言っているのだ、神に人間相手の精神技など効くか。…試した事はないが」
「では物理攻撃か!?頭を打っておかしくさせたのか!」
「お前は意外とわたしの実力をかってくれているのだな」
 かみ合わない会話をしている双子の横で、娘の姿をしたポセイドンが覗き込む。
『なんだ、これでもまだ不満か?お前の兄の助言に従って、かなり努力したのだが』
 やはりお前の仕業ではないかと、サガを睨みつけているカノンを他所に、ポセイドンは続けた。
『だが、お前が"うちのポセイドン"と言ってくれたことは嬉しいぞ』

 途端にカノンがハッとした顔となる。それから赤くなってそっぽを向いた。
 サガは何も言わず苦笑し、テティスはにこにことその様子を眺めた後、全員分のお茶を入れ直すために台所へと去っていった。

2009/10/6


〜5〜

 香りたつ温かな紅茶を前に、テーブルを挟んで美丈夫な双子と妙齢の可愛らしい娘が二人腰を下ろしている。
 仲睦まじげに会話をしている姿は、一見男女2組ずつのコンパ的風景に見えなくもない。
 しかし、娘二人のうち一人は中身が魚で一人は神、しかも男神である。
 そして会話の内容も微妙に痛いのだった。

 双子座のサガが真剣な顔で、娘姿のポセイドンへ頭を下げる。
「わたしも男です。出来る限りの責任はとらせて頂きます」
『ほう、潔いな』
「やめんかサガ!全裸を見たことで責任が発生するなら、お前は今頃星矢の嫁だろ!」
「男の裸と女性の裸では意味合いが違う」
「大差ねえよ、お前が裸を見せ返せばイーブンだろ。大体、お前に妙な責任の取り方をされるほうが、海界にとって大迷惑なんだよ!」
『どこがイーブンなのだ』
「あの、私の前でオヤジ的なセクハラ会話は止めていただけませんか」
 三人の会話を横で聞き流しているテティスが、時折口を挟んで暴走を制御している。
 とはいえ、その制御がゆきわたるのは、比較的常識人のカノンに対してだけなのだった。
「すまんテティス…ポセイドン様も兄をからかうのはおやめ下さい」
 ポセイドンが娘の身体を使うことになった経緯を説明する途中から話が逸れ、何故かサガのいらぬ責任問題に発展しているのだった。何気に冷静なテティスはともかく、カノンは既にツッコミ疲れてぐったりしている。
『からかってなどおらぬ。アルテミスなどは己の裸体を見た者を動物に変えて犬に噛み殺させているではないか……ときにシードラゴン、そのような怖い顔で睨むな。そこまでは流石にするつもりはない』
「微塵でもあったら殴ります。大体サガが、兄側が謝罪する謂れがないでしょう。無理な言いがかりを付けずとも、何かサガにさせたい事があるのならば普通に頼めば良いのです」
 疲れながらもこめかみに青筋を浮かばせているカノンと、強気な言動のようでいてカノンの顔色を伺っている海神とでは、最初から勝負はついている。そもそもカノンは、こと兄に関わる事に関しては堪忍袋の緒が短いのだ。
 カノンの言うとおり、別の目的あって因縁を付けていたポセイドンは、こほんと咳払いをして誤魔化してから、サガの方を向いた。
『まあ、そのようなわけで、侘びとしてこのポセイドンの護衛を1日勤めよ』
「わたしは構いませんし、御信頼はとても光栄ですが、海神の護衛が黄金聖闘士1名だけというのは、海闘士たちに不安を招くかと…」
『無論だ。護衛をシードラゴンと一緒にどうかという話だ』
「オレを巻き込まないでいただけますか」
「弟と一緒なのでしたら…しかし、貴方の支配界である海界で護衛が必要とも思えませんが」
「おい、オレを巻き込むなと言っているだろうサガ」
 そろそろキレそうなカノンのティーカップへ、テティスは黙って紅茶のお代わりを注いでやる。
 ポセイドンは椅子から立ち上がると、サガの隣へ歩いていきその手を取った。
『久しぶりに地上に出て、アテナへ軽く挨拶でもしようかと思うてな。その際の案内なども頼みたい』
 サガもその手を振り払わずに娘姿のポセイドンを見上げる。見た目だけであれば、二人は似合いのカップルのようである。
「そういうことであれば、喜んで…」
「却下だ」
 快諾しようとしたサガの声へ被せるようにカノンが即断する。
『姪との交流に不満があるのかシードラゴンよ』
「嫌がらせに行く事を交流とは申しません!」
『不敬な。何故に嫌がらせと決め付けるのだ』
「では、アテナにどう挨拶するのか見せてもらいましょうか」
 冷たく言い放ったカノンの前で、ポセイドンはサガの手を引いて立たせた。そうして並ぶと、長身で体格の良いサガの横で、娘姿のポセイドンの可愛いらしさが一層引き立つ。
 ポセイドンはそれこそ娘がするように、サガの腕に自分の腕を絡ませ、ぴったりと寄り添った。
『このように聖闘士とも仲良くしているところをアテナの前で実践し、好意を表現する』
「それは護衛と主人の立ち位置じゃねえだろ!!サガ、お前も何か言え!」
「何だか本当の女性とこうしているようで、照れるものだな」
『デートでもしてみるか?』
「コラー!」
 とうとうポセイドンに対しても素の言葉で怒鳴り始めたカノンを見て、これは女神以前にシードラゴンに対する嫌がらせ(ポセイドン的にはコミニュケーション)なのではないかと、テティスはお茶請けを摘みながらこっそり思っているのだった。

2009/10/7


〜6〜

「そういえば、その女性は何と言う名前なのですか?」
 テティスが娘姿のポセイドンに尋ねた。いつのまにかポセイドンはサガの隣の席を陣取っている。最初に隣に居たはずのカノンは来客用のソファーへ移り、背中を向けてぐったりと横になっていた。関わることを放棄したのだろう。
『セラフィナだ』
「セラフィナ…名前も綺麗ですね」
 テティスはにこにこと心から嬉しそうだ。どんな形であれ、海の主であるポセイドンが魅力的なのは誇らしいのだ。最初にサガに呼ばれてこの姿のポセイドンを目にした時には驚いていたようだったが、法衣だけで下着すら身に着けていなかったセラフィナを、ここまで美しく着飾らせたのは彼女の功績だ。

 戦うことを生業とする海闘士の一人とはいえ、アクセサリーやドレスを楽しそうに選んでいる姿は普通の女の子そのもので、サガはこっそり聖域の女性陣と比べてしまっていた。
(マリンやシャイナたちも、普段はこのように娘らしいのだろうか)
 しかし、どうにもその光景を想像出来ないのだった。女聖闘士たちが女性らしくないとは思わないが、やはり戦士としての彼女たちのイメージのほうが強い。聖闘士となるためには、女であることを捨てなければならないという聖域独特の掟もある。
 修行の必要ない海闘士や冥闘士と異なり、聖闘士は幼い頃からの厳しい鍛錬が必須となる。長期にわたる集団生活の中で男女を共に育てると、どうしても異性へ余所見をする者が出てしまい、余所見だけですめばいいのだが、その気の緩みによって命を落とす危険が修行には常に伴う。
 それを防ぐための厳しい掟とはいえ、テティスを見ていると、自然な女性らしさと闘士としての在り方が同居できる海界の仕組みというのは、良いものだなと思ってしまうのだ。
(だが、それは無い物ねだりというもの)
 サガは首を振り、目の前へと意識を戻す。女性であることを捨てても何かを守る力を得ようと望む信念とて尊いもの。比較すること自体、失礼というものだろう。

「わたしはテティスも綺麗だと思う。先程のドレスの山のなかには、君に似合いそうなものが幾つかあった。どうせなら君もセラフィナと一緒に着替えてくれれば良かったのに」
 海界ではそれが許されるのだから、という思いは言葉にしない。
 テティスはきょとんとサガの顔をみて、それから真っ赤になって俯いた。
「おふたりも男性がいらしたのに、その前で着替えるなんて、出来ません」
「お前、うちの人魚姫を口説くなよ…」
 横になりつつも話を聞いていたカノンが、ぼそりと突っ込む。
「いや、わたしは着飾ったテティスは今以上に可愛らしいだろうなと思っただけで…」
 慌てて言い訳するも、ポセイドンにまで溜息をつかれる。
『お前は本当に性質が悪いの』
 戦略面や人心把握では百戦錬磨のくせに、女心や恋愛方面は全く守備範囲外なのがサガだ。ポセイドンもそれは判っていて、からかうようにサガを横から見上げる。
『この海皇に責任を取るとぬかしておきながら、その舌の根も乾かぬうちに他の娘を褒めるとは』
 しかし、冗談のつもりで言った言葉を、真面目なサガは素で受け止める。
「ひなげしと白百合のどちらが美しいかなどと選ぶような事は、わたしには出来ません…」
 しょんぼりしながらも言い切るサガを見て、この男は本当に罪作りな人間だと、遠い目でセラフィナ姿のポセイドンは思った。カノンもこちらへ背中を見せているが、同じく遠い目をしているであろうことは小宇宙の気配で知れる。
 放っておくと、サガがさらに怖い事を言い出しそうなので、ポセイドンは話の矛先を変えた。
『しかしサガの言い分にも一理ある。テティスよ、次の海将軍召集議会の折には、身を整えて華を添えよ』
 不定期に行われる海神からの海将軍への神託の場では、大まかな今後の方針や政治的な命令が下されたり、海将軍たちの報告や陳情が上げられたりするのだが、その際にはジュリアンの身体を使い降臨してくるのが通例である。
 テティスは先ほど以上に真っ赤になりながら、異を唱えることなく小さく頷いた。この人魚姫はジュリアンのことが好きなのだ。
 ポセイドンがなにげなくテティスの後押しをしたことに、カノンだけは気づいて小宇宙の気配が少しだけ和らぐ。
 しかし、ソファーから起き上がったカノンは、ポセイドンがちゃっかりサガを慰めるように(そのじつ面白がって)頭を撫でているのを目にして、またピキリと青筋を立てた。

2009/10/8


〜7〜

 突然の招集に馳せ参じた海将軍たちは、緊張を隠せずに居た。
 海神の呼び出しとあらば、何を置いても駆けつける彼らではあるが、聖戦後にこのような先触れのない呼び出しは例がない。
 また、『日常服で来ること』などという指定もかつて無いことである。海将軍が揃う神託会議の折には、鱗衣が当然の礼装であったからだ。
 時刻は夕暮れを過ぎたあたりで、太陽を持たぬ海底では既に夜の燭台が神殿内を灯している。筆頭のカノンがいないのは、一足先にポセイドンを出迎え、神の意向に従い招集の準備を整えているかららしい。通信兵を通さず直接小宇宙で連絡が来たことや、服指定の件から考えても、何か極秘の通達があるにちがいないと海将軍たちは予測していた。

 指定の時間が近づくと、ポセイドンの小宇宙が雄大に広がり周囲に満ちた。海将軍たちは慌てて玉座前を開けるようにして左右へと並び、平伏して神の訪れを待つ。
 程なくして扉が開き、衣擦れの音とともに進んでくるポセイドンを前にした海将軍は、例外なく固まり言葉を失った。
 カノンに手を引かれながら付き添われ、後ろにテティスとサガを従えたセラフィナ姿のポセイドンが、皆へ輝かんばかりの微笑みを向けたのだ。
 唖然としている海将軍達へ向かい、筆頭のカノンがどこか棒読みに告げる。

「ポセイドン様は此のたびの降臨においてセラフィナという女性の御姿をとられている。これはあくまで臨時のことであり、普段はソロ家の長子に降りる決まりに変わりはない。言うまでもないが、姿の如何に関わらずお仕え申し上げるように」

 その声も聞こえているのかいないのか、海将軍たちはポカンとしたまま目の前の海神に目を奪われていた。最年少のアイザックが1番冷静という有様だ。
 ポセイドンの小宇宙は力強く男らしいものであったが、美しく装ったセラフィナの容姿はその正反対のたおやかさである。エスコートしてきたカノンと並ぶと、まるで一対の芸術品だ。身体に沿ったラインのドレスは艶やかさを引き立て、それでいて優しい微笑みは春を告げる可憐な花を思わせる。
 見た目だけは、聖域のアテナにも比肩する神々しい乙女っぷりであった。
 そのポセイドンが口を開く。
『お前達が今日もつつがなくあることを嬉しく思う』
 口調はいつもと変わらぬことに、何となく安心する海将軍一同である。
 ソレントが恐々と口を挟んだ。
「畏れながらポセイドン様、そのお姿は何ゆえに…」
『うむ、そのことだが』
 頷いたポセイドンの眼差しには、よくぞ聞いてくれたという満足感が溢れている
『答える前にまず海馬へ尋ねたい。この姿をどう思う』
「凄く…お綺麗です」
 指名されたシーホースの目はうっとりと輝いていた。
 その返答を聞いた海将軍たちが、遠い目で同僚を眺める。どうやら、先程から皆が動揺で固まっている中、バイアンだけは感激に震えていたらしい。カノンなどは胸中で"こいつはサガの同類か"とこっそり零しているものの、ポセイドンはますます満足げだ。
『そうか、では女主人に仕える状況を存分に味わうが良い』
 はっと表情を赤らめて、バイアンが問う。
「まさか、そのお姿はわたしのために」
『まあ、お前のためだけではないがな。此度の招集はほかでもない。そなた達の日ごろの働きを、労いたいと思うたからだ』
 海の主たるポセイドンからの思わぬ言葉によって、海将軍一同の顔が引き締まった。
「我らがポセイドン様の御為に働くのは当然のことでございます」
「勿体無きお言葉…」
 カーサやクリシュナまでが感激の色を顔にのぼらせている。
 先ほどまでとは別の意味で言葉数の少なくなった一同を、ポセイドンは目を細めて見つめた。カノンの策謀であったとはいえ、中途半端な覚醒での戦を強いたのは、己の責任という思いはある。苦労をかけたという気持ちは本物で、だからこそ何かの形でねぎらう機会を待ってはいたのだ。
 娘姿のポセイドンは、自分の胸の前で祈るように指を組み、可愛らしく告げた。
『感謝を込めて宴を用意した。本来であれば海闘士全員に振舞うべきであるとは承知している。しかし急なことゆえ材料が整わぬ。よって正式な宴は後日とりおこなうが、今宵は我が軍の要であるお前たちを先立ち招いたのだ』
 海将軍一同の顔に言葉にならない何かが浮かんでいる。イオなどはちょっぴり涙ぐんですらいる。
 しんみりした雰囲気を打ち破るように、テティスが続いて可愛らしく宣言した。
「そんなわけで、今からケーキバイキングです!」
 その場の空気が固まった。
(もう夕飯時間なんですが…)
 おそらく海将軍全員が同じ感想を浮かべる中、ポセイドンが天使の笑みを浮かべる。
『最上級のスイーツを用意した。休息時間の茶請けと言わず、存分に食べるが良い』
 ポセイドンの後ろで、お相伴に預かれる甘党・テティスとサガが、控えめながら嬉しそうにしている。カノンが先ほどから皆と視線を合わせようとしないのは、計画を修正出来なかった済まなさからなのだろう。

 海将軍たちは誰からともなく顔を見合わせ笑い出し、空きっ腹を甘味で埋め尽くす覚悟をきめた。

2009/10/11


〜8〜

 私室エリアに設置された洋服ダンスの前で、どこか浮き立った様子のサガが、カノンに話しかけている。
「カノン、この服などどうだろうか」
「…何でもいいのではないか?」
「そうはいかない。女性と出かけるのだ。男の側がいい加減な格好をして、相手に恥をかかせるわけにはゆかぬ」
「女性って…中身はポセイドンだろ…それにその服オレのだろ」
 結局双子はポセイドンに押し切られる形で、共に地上へ外出する運びとなっていた。
 聖域への乱入を諦めさせるかわりに、地上観光という妥協案を飲まされたわけだが、カノンの方は既にやる気がない。
「性別は肉体に付随するもの。身体が女性であれば女性扱いが当然であろう。お前の服を借りることはすまないと思うが、わたしは世俗用の私服を持っていないのだ」
「何でそんなにやる気に満ちているんだよ」
「女性とデートなのだぞ」
 敢然と言い切った兄の発言に、カノンは果てしなく脱力してしまう。
「オレも一緒なんだが」
「Wデートだな」
「お前はWデートの意味を判っているのか」
「わたしとセラフィナ、わたしとカノンで2組のダブルだろう」
「……思考回路の基準がお前中心なのは理解した」
 兄の発言で精神力を削られているカノンをよそに、サガは服選びに余念がない。ソファーに寝転がってそれを眺めていたカノンは、呆れの色を隠さず語りかけた。
「お前はモテるのだから、今更デートなどで喜ぶこともあるまいに」
 何気ない一言であったのだが、サガは手を止めて苦笑した。
「モテたりなどしない。それに、女性とのデートも初めてだ…そのような余裕も機会も、1度たりとてなかったのでな」
「え、」
 思わずカノンは身を起こす。『女性との』という前置きが気になるが、それは敢えて流した。
「しかし、女と手を握ったことくらいはあるだろう」
「さすがに、それくらいはある」
 サガが拗ねたような顔で言い返す。
「ほう、いつのことだ。相手は?」
 安心したような妬けるような気持ちが沸き起こるのを押さえ、カノンはサガの隣へ移動し顔を覗き込む。
「アテナに黄金の短剣をお渡ししたとき」
「………」
「他にもあるぞ。13年前のロドリオ村で、皆に囲まれているとき少女の一人から…。あ、あの時は別の少女から花も貰った。少年からも貰ったが」
「………もう何も言うな、サガ」
 考えてみれば、幼少時から黄金聖闘士として厳しい修行や任務に明け暮れていたサガだ。陰の身分にあかせて遊びまわり、悪事に手を染めていた自分とは違う。そして13年前の反逆時以降、サガは老教皇シオンに化けて暮らしていたという。デートどころか私的な遊興時間もなかっただろうし、そんな事のためにリスクを冒す事など出来よう筈もない。
 そしてすったもんだの末、いち聖闘士に戻ったサガの記念すべき最初のデート相手が娘ポセイドン(と弟)。
 あまりの哀れさにカノンは涙が出そうになる。そもそもそれはデートと呼べるのか。
 兄に向けてこれほど生暖かい同情の視線を向ける日が来ようとは、スペア扱いだった13年前の自分には思いもよらない事ではあった。
 せめて楽しい思い出となるよう、フォローしてやらねばとカノンは決意する。

「サガよ」
「なんだ」
「お前の高スペックの半分は無駄だ」

 しかし、殊勝な思いも口から出されるときには簡略化されており、しみじみ呟いたカノンの両頬は兄によって掴まれ、左右に極限まで引き伸ばされた。

2009/10/14


〜9〜

 空には雲ひとつなく、絵に描いたような絶好の行楽日和である。
 もっとも、水をつかさどるポセイドンが介入しているのだから、天候は崩れようもない。
 暖かな陽射しの下、アテネにほど近い港町の一角へ、高級ハイヤーが走りこんできたかと思うと、すべるように路肩へ車を止めた。運転手の開けたドアから、上品なワンピースにストールをふわりと巻いた若い娘、そして全く同じ顔だちをした美貌の青年二人が颯爽と降り立つ。
 遺跡が主な収入源であるこの町には、まばらながらもそれなりの人数の観光客が道を歩いている。その通行人たちの間からどよめきの声があがった。それほど三人は人目を惹いたのだ。
 ひと目で只者ではないと思わせるオーラを撒き散らしてはいるが、芸能人には全く見えない。彼らの持つ輝きは芸能人の軽薄さとは無縁のものだ。ともに上流階級を匂わせる優雅な身のこなしと気品を持ち合わせながら、しかし単なるセレブにも見えない。
 ギリシア彫刻のごとく整った双子の青年二人は、娘の両側に寄り添う形で歩いており、その無駄のない動きはSPを思わせる。ひとりは隠すつもりもない鋭利な刃の威圧感を放ち、もうひとりは穏やかな聖者のごとき清廉な空気を纏いつつも、彼に傅くのが当然であるかのような気にさせられる。受ける印象は正反対なのだが、それでいて二人は完璧な対の調和を作り出していた。
 青年二人を引き連れた娘の方も、見劣りすることのない輝きを見せている。まだ少女らしさの残る若い娘でしかない筈なのに、見た目にそぐわぬ王者の威厳が周囲を圧倒する。
 三人を目の前にすると、道をあけることが当然のように思えてくるのだ。
 現れたサガとカノン、そして娘姿のポセイドンは、ようするに観光客の中でとても浮いていた。

「小宇宙は消しているはずなのに、人目を引いている気がする」
 遠巻きな人々の好奇(と既に崇拝に変わり始めた視線)を受けたサガが、不思議そうに呟く。
 カノンのほうはサガよりも世間慣れしているぶん、ある程度この状況を予測していたものの、車から降り立ったとたんの目立ちぶりに溜息をついている。
「サガよ、もともと一般人は小宇宙など感じとれはしない」
「それもそうだな。となると、やはりポセ…セラフィナの美しさが人々を魅了しているのか」
「…お前がそれで納得するなら、そう思っとけ」
 街中で海神の名を出すわけにはいかないので、今日は依代の娘の名で通すことになっている。物珍しそうに周囲を見ているサガと海皇を横に、実質二人のお守り役となっているカノンは、この後の苦労を予想してふたたび溜息をついた。
「それにしても、ここは随分とアテナのおわす地に近い気がするのだが…」
 サガが振り返りカノンをみた。本日のコースを決めたのはカノンだ。ポセイドンが封印を抜け出していることについては女神公認であるものの、かつてアッテカの地を争った相手である海神が女神の膝もとの地へ降り立つことについて、いらぬ刺激を女神に与えないかとの懸念を示唆したのだ。
「判っている。だがセラフィナが最初にこの地をと指定してな…何か用があるらしいのだ」
 苦い顔をしているところを見ると、同じ懸念を持ちつつも押し通されてしまったのだろう。海界におけるポセイドンの神意は絶対だ(神を奉じる集団ではそれが普通だが)。
「この港町にか?」
 サガが首を捻る。なにかポセイドンに縁のある場所であったろうかと知識を辿るも、特に思い至るものはない。
 二人の会話を耳にしたポセイドンがにこりと笑顔を見せ、小宇宙通信で思念を届けた。
『心配せずともよい。それに、ここを待ち合わせ場所に指定したのはこのポセイドンではないわ』
「「待ち合わせ場所?」」
 双子の声が期せずして重なる。そういえば道向こうの広場には、なにやらモニュメントが鎮座している。誰かと会うための目印としては判りやすそうだ。しかし誰と?
 サガとカノンの疑問は、間を置かずして解消されることになった。
 自分たちが来た時と同じように黒塗りのハイヤーが走りこんでくる。運転者が辰巳であることを確認する前から、双子は乗車人物を把握できた。
 ポセイドンに引けをとらぬ小宇宙の持ち主など、この地にひとりしかいない。
 ハイヤーから降り立つ美少女=沙織と、早くもこちらに気づき手をぶんぶん振っている星矢をみて、カノンは光速で主人を怒鳴りつけた。
「ポセイドン様!何のために聖域行きを諦めて頂いたと思っているのだ!」
『カノンよ、地上ではセラフィナと呼べ』
「くっ…セラフィナ、どういうおつもりか。女神と諍いを起こす気なら、今からでも観光は中止するぞ」
 揉めている海界主従の傍らで、サガはといえば嬉しそうに目をきらきらと輝かせていた。サガは女神と星矢にことのほか弱いのだ。さっそく駆け寄り沙織の前に跪く。
 長身の美青年が突然少女へ膝をついたのをみて、周囲で見物していた観衆が再びどよめいた。海神の相手をしていたためにサガの行動を止める事のできなかったカノンが、完全に頭を抱える。
 そんな中、沙織のほうは当然のごとくそれを受け入れ、嫣然と微笑んだ。
「顔をおあげなさい、サガ」
 彼女のオーラもまた人々を圧倒する。
「アテナよ、恐れながら何故このような場所に?」
「沙織と呼んでください」
 こちらも呼び名について釘を刺すことは忘れない。星矢が隣から口を挟んだ。
「海皇が地上観光をするからって沙織さんを誘ったんだ。でも、サガがいるとは思わなかったなあ」
「ええ、星矢のいうとおりです。カノンの同行は予測しておりましたが、貴方までとは。それにまさか伯父様があのような姿でお越しになるとは」
「そういえばポセイドンは?さっきから小宇宙は感じているんだけど」
 きょろきょろと見回す星矢と、すでに状況を把握した女神の目の前へ、セラフィナ姿のポセイドンが歩いてきた。
 海神は優雅にサガの手をとり立ち上がらせ、もう片方の手でカノンを引き寄せる。そして、左右それぞれの腕に双子の腕を絡ませた。
 アテナは何も言わなかったが、無言で同じように星矢の腕をとった。ぴきりと小宇宙の火花が散ったような気がして、カノンだけが蒼白になっている。
『アテナよ、多忙のところ観光などにつき合わせてすまぬな』
「いいえ、なかなか凝った趣向ですね。予定をやりくりした甲斐がありました。けれども私の聖闘士を貸し出した覚えはありませんよ」
『ジェミニは休暇中であろう。今はただのサガとしてわたしの供をしてくれているのだ』
「まあ、伯父様は女性以外にも手が早いのですね」
 ちっともすまなそうな笑顔でポセイドンが微笑めば、アテナも負けぬ笑顔で返す。星矢が目を丸くしてセラフィナの姿を眺め、感嘆したように零した。
「女の子の格好をしているから、判らなかったよ!そんな綺麗な姿にもなれるんだな…いて」
 最後の台詞は、さりげなく沙織が星矢の腕をつねったせいだ。
『ペガサスもジェミニの同類か』
「え?サガはオレよりも今のポセイドンや沙織さんの同類じゃないか?みんな凄い美人だし」
『………』
 海皇の脳内で”天然女(&男)泣かせ”という分類棚が作られ、星矢とサガが同類項に括られる。
 話題に挙げられたサガは、感激を隠さぬ表情で顔をほころばせていた。
「まさか初デートが、ダブルデートどころかクォドラプルデートとは…」
「ちょっと待てサガ、それはどういう勘定だ」
 即座にカノンが突っ込みをいれる。
「セラフィナとわたし、アテナとわたし、星矢とわたし、そしてお前とわたしだ」
「お前は、根本的に何かを勘違いしている」
 この面子でまっとうな常識感覚を備えているのはカノンだけだった。それゆえに貧乏くじを引いているのであるが、幾重にも取り囲む人の輪をみやり、胃を痛めている場合ではないと己を奮起させる。
「とにかく移動するぞ。ここは目立ちすぎる」
 とはいえ、ここまで目立ってしまうと歩行での移動は無理そうだった。
 結局、辰巳が運転手役をそのまま続けることとなり、一同は揃ってハイヤーへ乗り込んだ。

2010/1/15


〜10〜

 通常なら、ギリシアで観光といえば風光明媚なエーゲ海の島々や、遺跡巡りが王道だろう。
 しかし、海神たるポセイドンにとって、海域は見慣れた支配地であり、遺跡については、現在進行形で暮らしている神殿や聖域の建物そのままである。いや、建築物としても歴史的資料としても、神代から続く神々の聖域の神殿群に、なまじな人間の建築物が敵うはずもない。
 さりとて、現代文明の一端であるオフィス街でのビジネス風景も、海商王の一族であるソロ家長子・ジュリアンに降臨している間に、ポセイドンにとっては見慣れたものとなっている。
 そんな海皇が希望したのは、市街地における、一般人の生態体験であった。
「それならば、私に任せていただきましょう」
 胸を張ったアテナ・沙織を、カノンが微妙に生暖かい目で見つめた。巨大財閥の後継者として育った彼女の「一般的」感覚を、彼はいまひとつ信用していない。それでも口を挟まなかったのは、アテナが地上側のホストとして、海界からのゲストをもてなすというスタイルを取ったほうが、形式的に無難であると考えたからである。少なくとも「勝手に地上へ出た海神が、目的不明のまま女神の地をうろついた」よりは全くマシだ。事前に計画していたプランもあったが、沙織と星矢が参加することは予想外で、そうなると内容的にも白紙に戻して考え直した方が良い。
『ほう、どこへ案内してくれると言うのだ?』
 ポセイドンも興味深そうに身を乗り出した。リムジンシートに背をあずけ、いつものように足を組もうとした海神は、さりげなくカノンに足を直されている。
「地上の文化レベルや生活を1度に見るのならば、ショッピングが1番ですわ。幸いアテネにはGOLDEN HALLなどのお手軽なショッピングモールがあります。」
 アテナはにっこりと説明する。例として挙げられたのは高級ブランドを大量に詰め込まれた巨大モールだが、アテナやポセイドンからしてみれば手軽といって良いレベルだろう。
『ふむ、そういわれて見ると、ジュリアンであったころも、自分で買い物などしたことはなかったな』
「そうでしょう?私も実はあまり行った事がないのですけれど、庶民的で生活品の博物館のようなところですよ」
『現代版バザールだな』
 身に付けるものは基本オーダーメイドで、日用品などは使用人が取り揃える生活の彼らであった。それは人間の沙織・ジュリアンであっても、神であるアテナ・ポセイドンであっても変わらない。
 ちなみに、自給自足の聖域育ちであるサガも、ほとんど自分で買い物をしたことがないという意味で、似たり寄ったりの反応だ。
「恥ずかしながら、そういった都会での買い物はわたしも初めてで…。きっと様々な品物があるのだろうな」
「オレもオレも!そんなトコで買い物とかしたことないよ、サガ」
 そしてまた星矢も、贅沢とは縁が無い。アテナとポセイドンの会話にも、素直に「金持ちの感覚だなー」と感心するばかりである。
 一同の反応をみたカノンは、このメンバーの社会勉強のためには、意外と良いルートなのかもしれないと心の中で呟いた。早速、運転をしている辰巳に意向が伝えられる。
(アテナにしてはまともな案ではないか)
 そんなことを思いながら、ひとりカノンは目を閉ざして、目的地までの時間をこの空間から逃避する為に、堂々と狸寝入りを始めた。


「…と思ったオレが馬鹿だった」
 カノンはぐったりと、カフェのテーブルへ頭をつっぷした。ここはショッピングモールの1Fに入っているケーキショップで、カフェも併設されているため、買い物の合間の足休めとしても便利な場所となっている。
「田舎町の街頭ですら目立ったというのに、こんな人の集まる場所で、こいつらが注目を浴びないわけがなかったのだ…」
 ぶつぶつ呟いているカノンのとなりで、星矢が気の毒そうに、しかし元気に同意する。
「カノンも目立ってたぜ。四人がブランドのお店に入るたびに、気取った店員が目の色かえてて面白かったなあ」
「お前、他人事だと思って」
 そう、注目度合いは街路の比ではなかったのだ。群がる人の波は彼らが移動するたびについてまわり、遠巻きに零される感嘆の溜息や、携帯のシャッター音が途切れなく続く。彼らに気づいて微笑みかけようとしたサガを、カノンは光速で殴って止めた。そんなことをした日には、さらに人の輪が増え、下手をすると神スマイルにのぼせて失神する女性が出ないとも限らない(冗談でないところが怖い)。
 神々による威圧感のせいか、あからさまに接触してくる者はいなかったが、人々の視線だけですっかりカノンは疲れていた。
 しかし、崇められ慣れている神々やサガは全く気にならないようだった。ことに沙織やセラフィナ(の姿のポセイドン)は、物珍しいのか様々な店舗へと足を運び、その度に買い物をしようとするので、慌ててカノンが制したほどだ。そして、そのようにして制したにも関わらず、沙織は城戸家のカードを使いまくり、セラフィナも海将軍たちへの土産と称して山のように品物を買っている。ほとんどは配送手続きをとったため、手持ちの荷物はあまり増えていないが、二神はまだまだ買う気満々のようで、楽しそうに買い物の成果を話し合っている。
 購入されたものは、カノンからみるとしょーもないものばかりだ。いわゆる雑貨や便利グッズ的なものが多い。
 普段の彼らは、出入りのお抱え業者がお得意様用に選別したVIP用カタログを、屋敷で見ながらの注文が主だ。それゆえに、これだけの品がその場に並んでいること自体が珍しいのだろう。目新しく安い二流品(とはいえ、一般的に見れば充分高価なもの)ばかり購入したのだ。感覚としては、夜店で遠慮なく駄菓子を買う大人に近い。
 見た目だけは若い娘である二神が、甘いスイーツをつついている姿は可愛らしく、目の保養といえば言えないこともない。だが、中身を知っているカノンとしては、二神の仲睦まじさにむしろ怖いものを感じる。
 カノンの視線に気づいたのか、セラフィナがにっこり笑った。
『お前は食さぬのか?ここのケーキはなかなか美味だぞ』
 フランス風のどっしりとしたケーキは、こってりと甘い菓子が好きなギリシアの人間の舌にも合うらしい。セラフィナは既に1つめのケーキを食べ終え、2つめのスイーツを頼んでいる。
「貴方が甘いものをお好きだとは存じ上げませんでした」
 げんなりしているカノンに代わって、サガが多少の意外さを含んだ感想を零す。そういうサガは最初から大き目のモンブランを頼んでいる。
『先だってのケーキバイキングの時に判ったのだが、この身体だと、何故か甘いものが沢山腹に入るのだ』
「女の人って、甘いものは別腹だっていうからなー」
 星矢も遠慮なくぱくぱくと食べていた。二神の買い物に付き合って疲れを見せないのはさすがだが、戦闘に使うのとはまた違った方面での体力浪費の分、カロリーを補っているようだった。
「叔父様、いくら別腹とはいえ、食べ過ぎると身体のラインが崩れますよ」
『この姿の時に叔父と呼ぶな。食べた分は運動で消費すれば良い。なあ双子座、手伝ってくれよう?』
 隣へ座るサガへ寄りかかろうとしたポセイドンを、反対側隣に座るカノンが強引に引き戻した。護衛すべき神であろうと、サガが関わると容赦が無い。即座に小声でポセイドンを叱りつける。
「未成年もいる前で、海界の品位を疑われるような、シモネタの冗談は止めていただきたい」
『お前が突っ込まねば、アテナ以外、誰も気づかなかったと思うが』
 海皇の主張するとおり、星矢とサガは言葉どおりに「運動」の誘いとして受け止め、聞き流している。が、沙織のほうは笑顔ながら、視線が怖い。
 緊張感を崩したのは、ある意味空気を読まない星矢のひとことだった。
「沙織さんも遠慮しないで沢山食べればいいのに。沙織さんはスタイルいいから心配ないと思うけど、オレだって運動くらいいくらでも付き合うよ?」
 途端に赤くなったアテナを見て、ポセイドンはぼそりと『天然たらし』と呟く。
 海皇が星矢に負けじとばかり、目の前に届けられた2皿目のケーキを一口分フォークですくい、サガの口元に持っていくと、サガもまた同じように真っ赤になった。
 その反応に満足したものの、反対側に座るカノンからは思いっきり腕を抓られた海皇だった。

2010/7/10


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