教皇宮に隣する執務室で、シオンはいくつもの書類に注意深く目を通し、それからジロリと隣の席でペンを走らせている黒サガを睨んだ。
聖域における事務系の執務は、通常は教皇と複数の補佐官によって執り行われる。聖闘士の職分は戦闘が主であり、通常の人間でも可能な仕事は出来るだけ通常の人間に任せるというシステムになっているのだ。
しかし、蘇生したシオンが教皇職へと仮復帰すると、自分が執務を執り行っていた頃とは明らかに体制が変わっている部分があった。
それは、教皇と黄金聖闘士の支配力を強化し、拡大させる方向への体制変更だった。女神の権限を巧妙に削り、命令体系に黄金聖闘士の認可を処々割り込ませている。おそらくそれにより、蟹座や魚座、山羊座などの腹心たちに指揮系統を割り振っていたのだろう。シオンは直ぐにサガを呼んだ。教皇職の現状を知るためと、執務のサポートをさせ、体制の歪んだ部分に手を入れるためだ。
そうして、執務室で前教皇と元偽教皇の二人による地道な聖域法の改定作業が始まった。
「いろいろ随分と派手に変えてくれたものだの、黒いの」
「…何か不満がおありか、妖怪」
お世辞にも良い雰囲気と言えない一種異様な空間に、教皇づきの従者たちも恐れをなして茶すら持ってこない。蘇生当時の会話すらなかった冷戦状態よりは相当マシになっているけれど、そもそもこの二人の友好的な場面など、誰にも想像できなかった。
互いに歯に衣着せぬ二人だが、事務能力は聖域でトップを独走する二人だけあり、仕事のスピードといい、その質といい、他の追随を許さない。シオンが幅広い視野で案件を大まかに作成すると、サガが過去の範例や実情を元に、直ちに実際的な条文にまとめあげる。通常の者であれば数人で3日かかる書類でも、この二人であれば1日で全て完璧にこなし終える。
私情と公務を切り分けるのも上に立つ者の最低限の資質だが、過去を棚にあげて公務をこなすこの二人は、執務面だけで言えば最高の組み合わせであるといえた。
「変更点に問題はない。むしろ不要な因習が省かれてシンプルになっておる。しかし、これは女神不在の際に向いた体制…いや、将来的には女神を排除するための体制に見える」
「その通りだが、その部分にはお前が先ほど入念に赤で訂正を入れていたろう」
「…口を慎めサガ。先ほどから教皇たるこの身に敬意が全く見られんようだが。おぬしの作った体制下での不敬罪を適用されたいか」
「この老いぼれめ…では申し上げますが猊下、殺した相手に敬意も何もございますまい。あの当時に猊下が今の18の肉体で蘇られた御身のごとく健勝であらせられたなら、私も殺害までは考慮致しませんでした」
要するに、教皇として聖闘士の頂点に立つ者が、配下に殺されるほど弱いのがいけないと開き直っているのだ。シオンは心の中でちゃぶ台返しを行っていたが、今までの執務の成果が飛散せぬようぐっと堪えて、書類へと目を戻す。そして、その中から選り分けておいた束を手にとってサガに差し出した。
「まあ良い。こちらの教皇関連の書類…おぬしが先ほど寄越したものだが、もう少し手を入れて欲しい」
黒サガは差し戻された用紙を受け取ってパラパラめくると上から目を通し、首をかしげる。
「何か不備が?貴方の能力水準に合わせて祭事や他界との定期会談の様式を組んでいるが」
「それだ…内容はこのシオンではなく、次期以降の教皇に合わせ、汎用的にするよう」
黒サガが僅かに目を見開く。
「つまり、アイオロスの就任に備え、教皇としてはまだ経験の浅いあの男でもボロがでないよう、バックアップ体制を整えろということか」
「補助は最初の数年だけで良い。他界との外交も協定を結んでいる今、それほど切迫はしておらぬし、アレはああみえて如才なく頭も切れる男だ。直ぐに慣れようが、当面だけ体裁をつけられるよう考えてやれ…おぬしなら出来るだろう」
元教皇でもある反逆者は苦虫を噛み潰したような顔になったが、何も言わずに資料をまとめだした。その様子を見て、シオンもまた苦笑する。
「サガよ、実際のところ今のお主等であれば、問題も多かろうが教皇を任せるのも吝かではないと思うている。しかし…」
「しかし、元罪人の二重人格者には任せられぬと?」
黒サガが資料を漁る手を止めずに口を挟む。シオンは緩やかに首を振った。
「おぬしは教皇に向いておる。それは認めよう。しかし、教皇として聖域最深部に常駐を課せられるよりも、黄金をとりまとめ、戦時の現場において迅速に戦禍と状況を読み、采配を振るう方がより向いていると思うたのだ。つまり、戦士としての才が惜しい」
黙る黒サガに構わずシオンは独白のように話を続けた。
「そういう意味では射手座の小僧も現場向きで、教皇という座などに縛り付けるのは酷に思う。また、この法衣に袖を通すという事は、永劫の孤独と、地上の誰よりも重い責任もまた受け入れるということに他ならぬ。童虎が二百余年のときを五老峰から動くことが適わなかったように、このシオンもまた聖域から動くことは適わなかった。あれはなかなか鬱屈するの」
当時の冥界の脅威を考えれば仕方の無いことで、その事に不満は無いが、次代の担い手にそれを強いるのは、ためらわれる部分もある。
人の上に立つ者として、そのような益体も無い愚痴は本来絶対に他人には聞かせるべきものではなかった。偽教皇としてではあるが、13年間同じ孤独と重みを知ったであろうサガにだからこそ、零した本音でもあった。
「いま射手座を選ぶのは、あの人望と優れた精神力にも拠るが、黄金から教皇への差し替えを行うにあたり、射手座の後任はペガサスの小僧がフォローできるからよ。それに対し双子座は継ぐものがおらん。…おぬしの代わりに弟を配したいところだが、あやつは海の寵児でもあり専任を望めぬ。黄道に欠員なく全員が揃っておるというのに、十二宮の守護に穴を開けるのは痛いのだ」
カノンの名前が出た一瞬だけ、サガの手が止まる。その合間を見てシオンはさりげなくサガに尋ねた。
「お前のもう一人の半身は未だ戻らぬのか。カノンに関しては海界から筆頭海将軍を全面的に返すよう要望もきておる。奴を聖域だけに留められぬ今、そろそろ双子座としての働きをおぬしにも望みたいのだが」
それは形としては責任の行使をせく請求のようであったが、声は穏やかであり、その内には労わりの色さえ滲んでいる。言葉を向けられた黒髪の男は、初めてその表情に苦渋を滲ませた。
「…アレは、カノンに双子座を専任させたいようだ。それで、戻ってこない」
「ほぅ、初耳だの。するとおぬしの片割れは、既に復活を果たしているものの、自らの意思で肉体には降りてこないということか」
「…そうだ」
「あの阿呆が…洟垂れの頃から頭はいいくせにバカ丸出しのところがあったが、そのあたりは相変わらずなのだな」
シオンの毒舌ぶりは弟子のムウが引き継いでいるが、当人のそれもまた、まだまだ健在だ。
「すると、あの阿呆の留まっておる場所は、魂が形を成すことの出来る冥界か。奴は双子座の任を放棄するつもりでおるのか」
「…女神を護る必要のある折には、参じて尽力するつもりではいるようだ」
「たわけ、危急の際にだけ戻る不安定な魂で全力が出せるか。そもそもおぬしとて、魂の半分が欠けているために肉体との繋がりが薄く、能力の全てを出せていないではないか。おぬしが事あるたびに身体を休めているのを、儂が知らぬと思うているか」
それは事実であったので、黒サガは不本意ながら口をつぐむ。蘇生後、魂と肉体の接合が薄れたと感じるときがしばしばあり、そのようなときには横になって精神の綻びを繋いでいた。周囲には適当にメディテーションによる感知や午睡が好きなのだろうと思わせていたが、流石に教皇の目は誤魔化せていなかった。
教皇は呆れたように盛大な溜息をつき、確認するように言葉を紡いだ。
「あの阿呆と、意思のリンクは出来ておるのか?」
「…しようと思えば」
「ならば伝えておけ、冥界の監視役という任を与えてやるので、ハーデス達におかしな動きがあった場合は、逐一おぬしを通して報告するようにと。あとは暫く好きにするが良い」
黒サガが怪訝そうにシオンを見る
「強制的に帰還させないのか」
「暫く、といった。お主等に何かを強制すると、反発のほうが酷いことを学んでいるのでな。時間をやるので自分で何とかいたせ。但し、長くは待たん」
昔の厳格で歪みを許さないシオンであれば、サガのそのような勝手も決して許さなかっただろう。いや、厳格であったのは星の神託によって女神の降臨と聖戦を予見された時期であり、少しの規範の乱れも許すわけにはいかなかった状況がそうさせていたのかもしれないと、サガは思い当たる。定められた聖戦へ至る日常では、誰もが少しずつおかしかった。
「…配下の不安定材料をも利用して冥界監視とは、伊達に長生きをしていないという事だな」
「サガ、感謝しておるときには頭を下げるものだ」
「誰が貴様などに。だが、そうだな。アレへの処遇に礼は言わんが、私から提案がある」
「許す、申してみよ」
黒サガはシオンの前に、聖域の基本的な人事要綱をまとめたファイルを投げて寄越す。
「先ほど老師とともに動きがとれぬことをぼやいていたが、あれは先の聖戦で生き残った黄金が二名しかいなかったための人材不足による、窮余の配置だろう」
「その通りだ」
「しかし今、ここには守護者が十二人揃っている。聖戦も落ち着いていると見て良い。ならば、この封建的な体制をもっと抜本的に変えても良いのではないか?」
「……」
「耄碌した老人どもが自由に外へ出歩けるくらいには、風穴を開けても良いように思う」
「…小僧が生意気なことを」
そう言いながらも、シオンの目はニヤリと笑っている。今の聖域は、あの二人しか残らなかった当時とは違う。仲間がいるのだ。
「そうだの、この機会に思い切っていろいろ変えてしまうか。双子や他界の命運を背負った者が聖域に生まれた折の処遇に関しても手をいれておかねばならぬ。となると、大半の書類に手直しが必要となるか。忙しくなるぞ、サガ」
「猊下の人使いの荒さには慣れている」
不遜に笑う黒サガを横目に、シオンはさっそく新たな作業を神官達に指示するために、控えの従者を呼んだのだった。
それから1ヶ月の間、聖域は新たな体制作りの為に、神官も黄金聖闘士も泣きをいれるほどの多忙を極めることとなる。
「再結晶精製」…不純物を除いて純度を上げること
シオンと黒サガが揃うと、空気が濃すぎて黄金聖闘士でも限られたメンツしか部屋に入ってきません。この二人が暴れだしたら止められる人間はそういない。