今日は太陽が見えない。ちょっとした用事を終えて教皇宮から十二宮通路を降りていたカノンは、どんよりと曇る空を見上げ、明日は雨だろうかと予想する。わずかに湿り気を帯びた空気を切りさくように音速で守護宮を抜けていく途中、とある宮の前で自分に向けて発せられた小宇宙の気配を感じ、ふっとカノンは足を止めた。
足留めを受けたカノンの前に現れたのは、人馬宮の主だった。
「こんにちは、カノン。もし良ければ、ちょっと時間を貰ってもいいかな?」
カノンとアイオロスの間に直接の面識はない。それでもカノンの方は、子供の頃にサガから腐るほど射手座の話を聞かされているのだが、アイオロスの側におけるカノンの情報というのは、サガの隠された双子の弟であるということと、蘇生後に周囲から聞かされたポセイドン戦における海将軍としての立場と、冥界戦での更正についてくらいだろう。
生き返ったあとも、片や海将軍として海界と聖域を往復するような日々であり、片や帰還した英雄とあって人々の往来が途絶えることはなく、つまりは双方忙しさのあまり話をする機会もなかったのだ。
一体なんの用があるのかと怪訝そうな目を向けるカノンへ、アイオロスはすっと片手を差し出した。握手かと虚をつかれて、つられるように手を返したカノンの腕は掴まれ、そのまま了承を得たとばかりに居住区へと引っ張っていかれる。兄がこの年下の英雄へした事を考えると無碍にも出来ず、警戒はしていたものの少し様子を見ようとカノンは大人しく付いていってやる事にした。昔サガがあれほど楽しそうに話してくれたアイオロスという人物像に興味もあった。
人馬宮の中は13年間放置されていた頃とは様子を一変させており、人が住んでいる明るさが見える。主であるアイオロスの帰還に伴い、人馬宮付きの従者達が頑張って整えたのだろう。冥界との戦いで女神の助力になろうと聖域に戻ったばかりの頃、人馬宮を抜けたときにはまだこのような温かみはなかったなとカノンは思う。
主の性格に似てこざっぱりとした小部屋へ通されると、カノンは椅子にかけるよう勧められた。
「突然ひきとめて、すまない」
射手座は親密さの篭る穏やかな口調でまずは詫び、テーブルの上で両手を組む。
「いや、気にしないで結構だ…聖域を救った英雄様が、罪人の私になんの御用だろうか?」
カノンは強引な連れ込みへのイヤミも篭め、昔のサガの真似をしてふんわり笑いながら返してみた。途端にその英雄の表情がくもり、本気で傷ついた顔になる。
予想以上の効果に驚きと満足感を覚え、双子座の弟は口調を改め問い直した。
「急ぐ用も無いし別に構わん。で、話とはなんだ」
スイッチが切り替わったかのように、打って変わってぶっきらぼうな簡潔さで問うと、アイオロスは何故か安心したように『同じ顔なのに、サガよりだいぶ性急だ』と言い、気を取り直してカノンのペースに合わせるべく直ぐに本題を切り出した。
実際にはサガもかなり気が短いというか、効率の悪さを嫌う部分があるのだが、兄はこの男に一体どういう顔を見せていたのかとカノンは考える。ついでに射手座を語るときの兄の嬉しそうな顔を思い出してしまい、何だかムっとしてきたので、過去の想いは封印して目の前の男との話に集中することにした。
「ええと…、サガのことや君のことを知りたいなあと思って」
「サガのことは本人に聞けばいいだろう」
「いやその、本人に聞こうと思ったんだが、今のサガにはあんまり相手にしてもらえなくてね。あの黒髪の彼なんだけど。サガっていつからああだったのかな?」
「あのサガについては、オレも聖戦後からしか知らんので役に立てんな。アレが完全に独立して一人格として表に出て振舞うようになったのは、オレが聖域を抜けてからのようだし。ただ、昔からサガは闇を内に隠しているようなところはあった。サガには自分を善悪の狭間におき、自問自答するクセがあって…そんな事を聞いてどうする」
「ははは、親友から拳を向けられた身としては、ちょっと事情を知りたいかなと」
アイオロスの微妙な言葉運びにカノンは笑う。
拳を向けられたどころか、逆賊の汚名を被せられた上で殺されたのだが、アイオロスは恨みや憎しみといった感情を隠しているようにも見えない。兄への糾弾に関しても覚悟して身構えていたカノンは、少しだけ肩の力を抜いた。
「…兄はいつもお前の事を話していた。今生の黄金候補として聖域へ来たのはサガとオレが最初だったが、それに次いで見出されたのがお前たち兄弟だ。サガは黄金聖闘士の仲間が出来たことが余程嬉しかったようで、毎日のようにお前らの訓練の報告をしてきた」
その分オレはムカついていたが、という内面の独白をカノンは口にしない。
真っ直ぐな視線で話を聞いているアイオロスに、カノンは淡々と続けた。
「その後すぐに黄金候補の子供たちも増えた。あの頃のサガはまだおかしくなかったから、挙動不審になったのは女神降臨の予見をシオンがした頃からだろうか。オレの誘いにも動揺を見せるようになったしな」
「君の誘いって?」
邪気無く尋ねる英雄をチラリと見て、カノンはそっけなく応える。
「女神と教皇を殺して、二人で世界を掌握しよう…という類の誘いだ」
これが短気なミロやアイオリアあたりだったら相当睨まれるところだが、予想に反してアイオロスは顔を顰めつつも逆にカノンを心配してきた。
「そんな事をあの真面目なサガに言って、よく叱られなかったなあ」
「叱られたに決まってる。いや、叱るなんてレベルじゃあなかった。サガは怒ると怖くてな、殺す勢いで鉄拳が飛んでくるんだ」
「本当か?サガがそんな風に拳で直接的に怒るなんて、想像もできないんだが…聖闘士指導の時には、どんな場合でも諭すように優しく叱っていたし」
お前ら聖域の連中の前では、弱みも影も本気の怒りも見せなかったんだろうよという言葉をカノンは飲み込んだ。そこまで親切に教えてやるつもりは毛頭ない。あの頃のサガには反発したものだが、今にして思えば、サガが神のような聖闘士としてでなく普通の兄として振舞っていたのはカノンの前でだけではなかったろうか。
そんなカノンの想いをよそに、アイオロスは考え込むように呟いた。
「でも、じゃあ黒髪のサガのほうは、君と二人で世界を分けようとしたのかなあ」
カノンは思わず苦笑いする。訝しそうな顔をした相手へ、言下に否定の言葉を発した。
「…そうだったら、良かったんだがな。オレはその前にサガによってスニオン岬に幽閉されて、一緒に世界征服どころじゃなかった」
「そうだったのか、それはすまない」
アイオロスは、失言したという顔で頭をかく。
「謝るようなことじゃないだろ。そういうわけでサガはたった一人で世界を手中にすべく動き、神に対峙した。使えそうな黄金聖闘士を抱き込んで手駒として使い、必要とあらば排除してな」
「私にしたようにか?」
「そうだ。オレも人づてに聞いたり、聖域を調査したりした上での間接的な情報しか持たないが、当時の聖域でシオンを殺した後に1番の障害となるのはお前だろう。老師は五老峰から動けないでいたし、他の黄金はまだ幼く、女神自身は降臨したばかりの赤子で、何の力もなかった。しかしお前は…オレがサガの立場でも、お前を手なずけるか排斥しようとするだろうよ」
実際には生まれたての女神でも、聖域の神気を借りてスニオン岬で死にかけたカノンを護るだけの力はあったのだが、それでもあの頃のアテナではサガから身を護り、他神からの侵略を止めるだけの力までは無かった。英雄は困ったような顔をして微笑んだ。
「降臨したてで、まだ御力を存分に発揮できない女神だからこそ、聖闘士の守りが必要であるのだ。それに、彼は無抵抗な赤子に短剣を振り下ろした…サガなりに世界を思っての行動だとしても、彼を肯定することは出来ないし、手なずけられるわけには行かなかったな…彼もそうしなかったけれどね」
それでもアイオロスの批判はあくまで「赤子への殺害行為」であって「自分を殺したこと」ではない様子だった。目の前に居るサガの弟への遠慮で言葉を控えているわけでもなさそうだ。
ただ寂しそうに過去を語るアイオロスの精神構造が理解できず、カノンは僅かに畏怖すら覚える。自分を牢に押し込め、捨てたサガをあれほど憎んだカノンにとっては、アイオロスのそこまでの穏やかさは、サガへの許しとも、器の大きさという言葉の範疇ともまた違う気がした。
僅かに眉をよせたカノンに気づかず、アイオロスは続けていた。
「でもまあ…肯定は出来ないけれど、皆の話を聞いて、サガが女神殺害を試みたのは、彼の中にあったという邪神の意思のせいではないかなと思ったんだ。黒いサガは影響を否定していたけれど、地上を護るだけなら女神を殺すまでしなくてもいいのだし。聖域から私が逃した女神を彼は放置し、成長して聖域に戻るまでは真剣に殺害を急いたわけでもないと聞く。だからきっとあれはサガの本来の意思でなくて…」
ひといきに吐き出すような台詞の途中で、彼は言葉を止める。
そうして自分を落ち着かせるようにぽりぽりと頭をかくと、ポツリと言葉を零した。
「…駄目だなあ。私はやっぱりあの反乱を、どのサガのせいにもしたくないみたいだ。黒いサガのことは、肯定も許しも与える理由がないのに、あれもサガだと思うとどうも冷静になれない」
カノンは腕を組んで椅子の背もたれに寄りかかり座ったまま、そんなアイオロスを見ている。
そして年下の英雄に、初めて自分の疑問を呈した。
「お前は、サガをどう思ってるんだ」
アイオロスは言われたことがよく判らないかのように、首をかしげながらも即答した。
「変わらずに親友だと思っている…サガのほうはどうか判らないが」
「今のアイツをサガだと思えるか」
次のカノンの問いには少し間を置いて、それでも正直に答える。
「まだ…難しい。私は彼をサガとは認めたくない。何かが彼に憑いたままで、サガの振りをしているような気がして…けれど、彼もまたサガだということも判る。だから、時間をかけてでも理解して、いつか彼の方とも友達になれれば良いと思っている」
「サガがお前を殺したいと思っていてもか」
「うーん、理由があってのことなら。嫌われるのよりはいいかな?…黒い方のサガは話もまともにしてくれなくてヘコむよ」
アイオロスの中では殺すことと嫌う事は別ベクトルのことらしい。さらには、殺されたことよりも、サガから憎悪を向けられることのほうが重大事らしい。本当にヘコんでいるらしき英雄の様子に、こいつの思考回路は理解の外だとカノンは匙を投げ、適当にアイオロスを慰めてやる。
「今のサガは確かにお前を避けているようだが、それだけもう一人のサガがお前を気に入っている反動だろう。だから、そんなに気を落とすな」
アイオロスはその言葉に不思議そうな顔をした。
「サガが気に入っている相手は、もう一人のサガが嫌うのか?」
「そういう所があるように思う…それも、ただ気に入っている程度ではなく、ハンパでなく気に入っていたり、認めていたりする相手にだ。アテナとは和解したようだが、お前のことはまだ駄目なんだろう。どういう基準かオレには判らんが」
「なんだか、私と君は同じ頃に黒いサガのことを知ったのに、君のほうはもう随分と彼のことを理解しているんだなあ…ちょっと羨ましいよ」
「寝食ともにしていれば、自然に知る機会も多いというだけだ」
カノンの言葉に対し、アイオロスは何かに気づいたように目を輝かせる。
「そうか、一緒に暮らせば人となりを知る機会も増えるのだよな」
「ああ、まあ、そうだな」
「双児宮に、しばらく私を泊めて欲しいと言ったらどうする」
「……断る。それに、おそらくサガが許可を出さない。お前、ヘコんでいたくせに、恐ろしく前向きだな」
「悩んでいるだけでは何も動かないさ…じゃあせめて、黒いサガの好物とかあったら教えてくれないか。土産に持って遊びに行くから」
「甘いものはあまり食わないようだ。おい、本気で来るつもりか」
確認するカノンの目に、冗談なのか真剣なのか判らない穏やかな表情のアイオロスが写る。つかみ所のないところは、サガに似ているなと少しだけカノンは思った。1つだけ判ることがあるとすれば、アイオロスが自分にとっては、邪魔者になるであろうということだ。カノンには、黒サガがアイオロスを嫌う理由が俄かに理解できた。
自分とサガの世界に、この男は当たり前のように侵入してくる。そうしておそらく、それをもう一人のサガは許すのだ。カノンは呆れたような溜息をついてアイオロスに告げる。
「双児宮へ来るというのなら、サガが迷宮を出した時には通れるように導いてやる。しかし、仲立ち以上の協力をする気はないぞ。オレはお前に、どちらのサガも渡すつもりはない」
「渡すって、サガはものじゃないだろう。どうしてそういう話になるんだ?」
「モノではないが、オレのものだからだ」
きっぱりとしたカノンの口調に、アイオロスは目を見開く。
「先ほどオレは、お前にサガをどう思うかと聞いた。お前は親友だと言ったが、オレにとってのあいつは、好き嫌いのレベルで表せる対象ではない。半身だ」
「……」
アイオロスはアイオロスで、双子の深い繋がりをよく理解できないでいるのだろう。カノンの言葉に曖昧な顔をする。
「うーん、何だかサガには保護者が多いのだな」
チリ…と一瞬だけ二人の間に緩やかな火花のようなものが散る。
カノンは黙って立ち上がると、用は済んだとばかりそのまま人馬宮を出て行った。
残されたアイオロスは、テーブルにコトリと頭を乗せ、長い溜息を付く。
「はー…サガと同じ顔してる奴を相手にするのは、黒い方といい弟さんといい、緊張する」
しかし、黒サガと対峙したときのような痛みはアイオロスになかった。視覚上は弟のカノンのほうがアイオロスの知るサガに近いにも拘らず。やはり彼はサガとは違うのだった。
アイオロスはカノンの言葉を思い出し、テーブルにつっぷしたままの姿勢で呟いた。
「オレのもの、か…そう言われると取りたくなるんだけど」
サガに関しては負けず嫌いの英雄は、物騒な台詞を口にすると、早速双児宮へ押しかける算段を考え始めていた。
アイオロスの一人称は、サガ以外や公式の場では「私」で。カノンはジェミニとして動く時や、サガのフリをする時に「私」で。まだ初対面なので二人の火花も穏やかにぬるめ。