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◆ねじ巻きオルゴール
1

 兄と暮らす小屋のほうから不穏な小宇宙を察知し、岐路中のデフテロスは、即座に徒歩から瞬間移動での帰宅に切り替えた。扉の前に立ってみれば、間違いない、中から彼らの天敵ともいえる杳馬の気配がする。
 しかし、どういうことなのかアスプロスの小宇宙は穏やかだ。少なくとも戦闘中ではないらしい。
 ギリ、と奥歯を噛み締め、デフテロスは小屋の中へ足を踏み入れた。

「おっかえりぃー」
 癇に障る陽気さでデフテロスを出迎えたのは、兄ではなくて杳馬だった。兄はといえば、さして広くない小屋の奥から、不思議そうな顔でこちらをみている。その無防備さが胸を突く。だいたい、アスプロスが杳馬を自分達の小屋へ入れるはずが無いのだ。
 杳馬を無視して、デフテロスは兄に声をかけた。いやな予感がした。
「アスプロス、これはどういうことだ」
 しかし、アスプロスは困ったような顔をすると、穏やかに問い返してくる。
「お前は誰だ?」
「………」
 絶句するデフテロスを尻目に、杳馬は馴れ馴れしくアスプロスに近寄り、肩に手をかけた。
「こらこら、お兄ちゃんが弟くんにそんなこと言っちゃ、駄目だって」
「おとうと?しかし彼は大人だ」
「言ったろ、お前さんは『事故で』記憶を失ってるって。彼は正真正銘、お前さんの弟デフテロスくんさ」
「…そう、なのか?」
 デフテロスの方を見て首を傾げているアスプロスからは、一切の邪気が感じられない。
 真っ直ぐな、それでいて少年らしい向上心を持った、かつての兄の瞳だ。
「うわっ、ちょ、何しやがる!」
 杳馬が慌てた声を出したのは、足元に溶岩が渦巻き始めたからだ。
「落ち着けって!せっかくプレゼントを用意してやったのに、お兄ちゃんとの家を吹き飛ばすつもりかっての」
 大げさなのは退避の動作だけで、杳馬がまったく余裕でいることはデフテロスも良く分かっている。彼はしようと思えばこの空間の時を止めることが出来るのだ。
「アスプロスに、何をした」
 野獣が攻撃相手へ唸るように杳馬へ問うと、杳馬はニタリと笑った。
「そんなに牙を剥くなって!おいらも反省したわけよ」
 とても言葉どおりには見えない表情でうそぶく。
(だから、闇の一滴を落とす前のオニイチャンを返してあげようと思ってねェ。心の時間を撒き戻したのさ!)
 後半部分は、声に出されることなく、デフテロスのみに念話で伝えられた。
「ふざけるな」
 デフテロスの攻撃的小宇宙が膨れ上がった。小屋の中はその余波で台風が入り込んだかのように荒れている。すぐに必殺のGEを放たなかったのは、杳馬を殺してしまっては、兄を元に戻す方法を聞き出せなくなってしまうからであって、遠慮などでは全く無い。
 殺気立つデフテロスを止めたのは、アスプロスの一声だった。
「デフテロス」
 まだ本当に自分の弟なのか判別しかねるような、遠慮がちな呼びかけだ。
 それでもデフテロスを抑えるのには充分だ。
「杳馬は小屋の前で倒れていた俺を運び込んで介抱してくれたのだ。乱暴してはいけない」
 それはデフテロスの内心の怒りを倍増させはしたものの、冷静さをもわずかに呼び起こした。
(この状況が杳馬の仕業であると、俺はわかっている。しかしアスプロスは違う)
 突然知らぬ場所で倒れ、知らぬ者の世話になり、ただ一人の兄弟は見覚えの無い姿となっている。落ち着いているように見えるが、不安でないはずがない。
 兄へと気のそれたデフテロスの隙を杳馬は見逃さなかった。
「水入らずを邪魔しちゃなんねえよなあっ。おいらはこれで!」
「貴様っ…」
 次の瞬間、杳馬は消えていた。おそらく時を止めて、その間に遠くへ飛んだのだろう。
「…くそっ」
 その場には歯軋りをするデフテロスと、所在無げに立ちすくむアスプロスだけが残った。

(−2011/9/11−)


2

 とりあえず兄を椅子へ座らせ、デフテロスはハーブティーを淹れた。茶葉はアップルミントを使う。ミント類の中でも芳香に優れた種類で、鎮静効果もある。蜂蜜を落として差し出すと、アスプロスは素直に受け取った。
「…その、お前は本当にデフテロスなのか」
「ああ」
「しかし、俺の知っているデフテロスは、いつでもマスクをつけていた」
 デフテロスは苦笑した。そうだった、このアスプロスは過去の弟しか知らないのだ。
「今はもう、つけていない」
 そう答えると、アスプロスは目を輝かせかけ、それから急に不安そうな声で聞いてきた。
「被らなくても、良くなったのか?ここは聖域ではないようだが…」
 アスプロスが何を確認したいのか、デフテロスには良く分かる。出来るだけやさしく穏やかに、言葉を選ぶ。
「逃げ出したのではないぞ」
 聖域を二人で脱走して、人知れぬ場所で暮らすようになったのかと、アスプロスは問うたのだ。あの頃のアスプロスは聖域のやり方に反発はしても、聖闘士となる道を…高みを目指さぬ道など考えもしなかったろう。自分もそうだ。差別され、兄の影として生きることを強いられようとも、兄や聖域から離れようとは決して思わなかった。それを受け入れることが自分の役割だと信じていた。
 弟の返事で少し安心したに違いない。力を抜いたアスプロスはミントティーをひとくち含み、『美味い』と顔をほころばせている。
「ここはどこなのだ?」
「カノン島」
「随分と辺鄙な場所だ」
 安心したのちに欲が出たのか、アスプロスは少しがっかりしている。聖闘士となるだけでなく、聖域の中枢を目指していた兄からすると、このような場所に住んでいること自体、出世街道からは外されているのだと判断したのだろう。
 思ったままに心を表しているアスプロスの表情は、とても素直なものだ。見ていると、胸の奥が重く疼くような、それでいて心地は悪くないような、不思議な感情が溢れてくる。
 デフテロスの前で、アスプロスは直ぐに気を取り直した。
「いや、どこであろうと、あんなマスクを外せるようになったのなら、嬉しいことか」
「……」
「デフテロス、俺は聖闘士になれたのか?」
 期待と畏れと自信の入り混じった視線に、デフテロスは胸を衝かれた。
 ひと呼吸置いて、なんとか答える。
「…お前は、黄金聖闘士となった」
 驚いたアスプロスの顔が、嬉しさであふれるのに数秒もかからなかった。それだけではない。衝動を抑えることができないといった様子で、デフテロスへ飛びつく。
「俺たちは夢を叶えたんだな!」
 固まっているデフテロスの表情に気づくことなく、アスプロスは興奮している。
「黄金聖闘士になって、お前を日向へと出すことが出来た、だから、マスクも必要ではなくなったのだ、そうだろう?」
 子犬が飛びつくようにじゃれてくるアスプロスへ『違う』とデフテロスは言おうとした。
 しかし、どうしても声が出てこない。
「先ほどから思っていたのだ。お前が変わったなって。堂々としていて、卑屈なところが消えた」
「……」
「お前はもう、影なんかじゃない。だからか」
「…ああ」
 まばゆいほどに光り輝く笑顔へ、デフテロスはひとこと搾り出すのが精一杯だった。

(−2011/9/12−)


3

「俺の黄金聖衣はどこにあるのだろう」
 浮き立った様子でアスプロスが次に尋ねたのは、やはり双子座聖衣のことだった。
「普段は火山の溶岩のなかへ沈めてある」
「黄金聖衣をか?何故そのような場所に…ああ、みだりに使用しないためか」
 本当は、聖衣を目に入る場所へ置いておきたくないからなのだが、アスプロスは勝手に解釈した。パンドラボックスを無闇に開けてはならぬように、黄金聖衣は普段厳重に封印しておくものだと、まだ見習いの頃の精神を持つアスプロスは考えたようだ。
「だが、少し呼ぶくらいならばいいだろう?」
 アスプロスは小宇宙を高めた。己のものであるはずの双子座聖衣に働きかけようとしているのだ。
「やめろ」
 思わずデフテロスは声を荒げた。驚いてアスプロスが弟を見る。
「どうしたのだ、デフテロス」
「いや…そんなことで聖衣を呼ばぬ方がよい」
「やはり、駄目か」
 記憶のないアスプロスは、黄金聖衣に関する弟の判断を信じて、小宇宙の発露をとめた。弟の言葉を素直に信じるという反応もまた、かつての真っ直ぐな兄のものだ。
 デフテロスは唇を噛み締める。
 黄金聖衣は、おそらくアスプロスの呼びかけには応じない。応じても着用はできない。
 なぜなら、現在、双子座聖衣の主はデフテロスであるからだ。
 アスプロスは蘇生後に黄金聖衣よりは双子座の冥衣を選んだ。『双子座の黄金聖衣はお前が纏え、自分にはもう必要が無い』と言い放ったアスプロスは、それまでの混濁から開放されたかのように晴れ晴れとしていた。そしてデフテロスはそれを受け入れた。
 それは双方納得した上でのことであり、互いに後悔も遠慮もない。
 もちろん、今でも兄が最強の双子座聖闘士だと思っているし、自分に何かあれば代わりに動いてくれると信じている。けれども、アスプロスには高みが似合うと考えるのと、理想を押し付けるのは別のものだということも、デフテロスはもう理解していた。
 アスプロスが聖闘士であろうとなかろうと自分の兄であることに変わりはないのだ。ならば、普段は兄らしく生きていってくれるのが1番だ。
 しかし、闇の一滴を落とされていない頃の、一途に高みを目指していたアスプロスへ、そんな事は言えない。
(記憶が戻るまでのあいだだけ、黙っていればいいことだ)
 デフテロスはそっとため息を零した。


 数日間は何事もなく過ぎた。
 生活するには不便の多いカノン島だが、訓練生時代と違って自由時間が山のようにある。
 デフテロスは島内の狩場や温泉、食べられる野草やハーブの自生地などを次々に案内した。小さな畑をつくっていることや、鶏まで飼っていることを知るとアスプロスは驚き、それらの食材を使って簡素ながら立派な夕餉が用意されると、目を輝かせた。
「凄いな、聖域での食事よりも、よほどいい」
「カノン島は田舎だが、材料は新鮮なものを好きなように用意できる」
「なにより三食ともお前の手料理だ、デフテロス」
 スープのお代わりを要求するアスプロスに屈託は無い。
 このままでも良いのではないかと、少しだけデフテロスは考える。このまま本来の兄の心を伸ばしてやりたい、正しく聖闘士として生まれ変わったアスプロスになら、黄金聖衣をまた返してもいいのではないかとすら思う。
 だが、そんな時間はふたたび杳馬が現れるまでのことだった。


「堪能してるかい?」
 見た目だけは親密そうな笑顔で、杳馬はふらりと二人の小屋へやってきた。
 ただし、小宇宙を抑えずに。
 聖闘士とは異なる異質な気に、アスプロスは怪訝な顔をした。デフテロスはいつでも戦闘に入れるよう体勢を整えつつ、杳馬へ向かって低くうなる。
「何をしに来た」
「へーえ、お兄チャンを元に戻せ!が第一声じゃないんだねェ?」
「………貴様」
 一発触発な雰囲気を読み取り、アスプロスがデフテロスへこそりと尋ねた。
「デフテロス、杳馬は何者なのだ。何故そんなにお前が敵意を向ける?」
「奴は、」
 言いかけてデフテロスは口ごもった。どこまで話していいのかが分からない。
 その言葉じりを奪うようにして、杳馬が嘲笑った。
「あれ、まだ紹介してくれてないのかい?オイラはメフィストフェレスの杳馬。天魁星の冥闘士さ!」
 カイロスではなく、敢えて聖闘士の天敵である冥闘士を名乗ったのは、計算されてのことに違いなかった。さっと青ざめたアスプロスへ、へらへらと杳馬は続ける。
「おっどろいた?でもまあ、安心しな!敵対するつもりはないからさ」
「本当か?」
「アスプロス、その男の話を聞くな」
 兄と杳馬に会話を続けさせるつもりのないデフテロスが、二人の間に身体ごと割り込む。
「ええー、何だよ弟くん。オニイチャンに本当の事を教えてやれよ」
「何のことだ?」
「ははっ、オイラとオニイチャンは同類だからさ!」
 ひゅん、と杳馬に向かってデフテロスの光速拳が放たれた。
 杳馬はその拳圧をかいくぐって逃げながら、高笑いする。
「オニイチャン、自分の闘衣を呼んでみな!冥闘士が目の前なんだ、呼んだって許されるさ!」
「言われずとも」
 売り言葉に買い言葉のごとく、アスプロスが小宇宙を高める。
「やめろ、アスプロス!」
 悲鳴のようなデフテロスの声が届く前に、アスプロスは身を守る闘衣を呼んだ。非常時にためらいはない。瞬時に飛来した闘衣が身体を覆う。
 しかし、それは漆黒に輝く闇色をしたサープリス。
「な…んだ、これは」
 何が起こったのかわからないという顔で、アスプロスが己の身体を見下ろしている。
 杳馬はにやりとデフテロスを見た。
「弟君は呼ばないの?ジェミニの黄金聖衣を」
「デフテロスが、黄金聖衣を…呼ぶ?」
 杳馬の言葉に導かれるように、呆然とアスプロスが弟の顔を見る。
「そうさあ、弟君は立派な黄金聖闘士だもんなァ!影なんかじゃないもんなァ!」
 一瞬、ぽかんとした顔で聞いていたアスプロスの顔が、何かに気づいたかのように青ざめる。
「デフテロス、そうなのか?」
「……それは」
「お前が黄金聖闘士になって、俺が影になったから、お前は自由になったのか?」
「ちがう」
「なら、どうして俺は、こんなものを!」
 引きつった顔でデフテロスを見る視線には、今までにはなかった疑惑と拒絶と絶望とが入り混じっている。
「アスプロス、話を聞いてくれ」
「…なあ凶星は、俺だったのか?」
 震える声で問うアスプロスに、デフテロスの声は半分も届いていない。

「オルゴールは何度巻き戻したって、同じ曲を繰り返すのさ」
 心底楽しそうに、となりで杳馬がケタケタと笑った。 

(−2011/9/16−)