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◆この心臓に黄金の矢を放て


 その日、突如として巨蟹宮に巨大な神気が湧き上がった。
 ゴールドセイントの多くはその神気に覚えがある。かつて敵対していたハーデスの配下、死の神タナトスの小宇宙だ。巨蟹宮から通じている黄泉比良坂への道を、タナトスが神の力をもって、強引に冥界側から押し開いたのだ。宮の守人であるデスマスクがいたならば、アテナの結界の敷かれた聖域でそのような真似は許さなかっただろうが、あいにくと彼は勅命で留守にしている。そしてまた、女神は遠く日本へと出かけている。
 停戦条例が結ばれているとはいえ、冥界の神がアテナのおらぬ聖域を訪れたとなれば、聖闘士たちが警戒するのは至極当然のことだった。
 即時に駆けつけ取り囲んだゴールドセイントたちを一瞥し、しかしタナトスは怯むようすなど全くない。神聖衣を着用した者でなければ、己の相手には全くならぬことを理解しているからだ。
「サガを呼べ」
 人間が神に従うのは当然との意識もあらわに、タナトスは命じた。
「わたしならば、ここにいる」
 すぐさま応えが返る。双児宮は巨蟹宮の隣宮だ。サガは真っ先に駆けていたものの、様子をみるために気配を潜めていた。サガとタナトスは私的な交流を持っていたが、それでも聖闘士としての用心を怠っているわけではない。先触れもなく聖域へと訪れたタナトスを最も警戒しているのは、死の神の恐ろしさを嫌と言うほど知るサガなのだ。
 しかし、タナトスの目的が聖域ではなく自分にあるというのならば、それを確かめなければならない。サガは前へと進み出る。一方タナトスもまた、周囲の聖闘士たちなどまるで存在などしないかのようにサガへと近づいた。死の神の小宇宙は強大で、雑兵などであれば、その気に触れただけで昏倒し、死に至るかもしれない。対峙するだけでも、人間にとっては凄まじいプレッシャーとなる。
 八識を備えたゴールドセイントだからこそ、この場に耐えていられるのだ。
「今日、用があるのは、おまえではない」
 タナトスはサガを目に留めると、倣岸に言い放った。
 呼んでおいての言い草に、サガが怪訝そうな顔をする。
 タナトスは近づきながら、ローブに隠れていた右手を取り出した。手には黄金のやじりが握られている。もちろん射手座の矢ではない。矢座のものでもない。
「もうひとりのお前を出せ」
 はっとサガが構えをとる間もなく、タナトスの小宇宙がサガを包み込んだ。
 タナトスの凄まじい小宇宙によって、サガの中から強制的に黒髪のもう一人の人格が表面へと押し出される。それは、白い紙に果汁で描かれた文字が、炎で炙り出されるかのようだった。サガにとっては屈辱的なことだったろう。
 もちろんタナトスの動きに対して、周りのゴールドセイントたちも黙って従うつもりなどなかった。しかし、サガを含め誰一人動くことが敵わなかったのだ。黄金聖衣を瞬時に砕く神の力が、その場の全員を金縛りにして地に縫い付けている。
 青の瞳が消え、憎悪に染まった紅の邪眼が鋭くタナトスを睨み返すと、タナトスはそれすらも楽しむかのように笑った。
「何の用だ」
 動けぬまま低く端的に問う黒髪のサガへ、タナトスはゆるりと手にした矢をみせる。
「これは、エリシオンに暮らすキューピッドより借り受けたもの」
 別名エロスの矢…それが意味するところはひとつしかない。黒サガの表情がすっと消える。最悪の想定からはじき出される結果に対しての嫌悪と、冷静な計算が交じり合う。
 半身である白サガは、自死の過去から死の神タナトスの作り出す掟に縛られていた。それゆえに蘇生後もタナトスとの繋がりが絶たれずにいるのだが、闇を司るほうのサガは十二宮戦時にも女神の盾で弾き飛ばされただけで、死んだことがない。それゆえ死の影響を受けつけず、白のサガを冒すタナトスを常に嫌悪するそぶりを見せていた。
 タナトスは、そんな黒サガを弄ぶつもりなのだ。
「常にオレへ従おうとせぬ双子座の半魂よ、お前がオレに跪いて愛を請う姿を見せてもらおう」
 タナトスはまた一歩サガへと近づいた。ねずみを嬲る猫のように、タナトスは黄金の矢じりをサガの心臓へと向ける。かつてサガが自ら貫いたそこは、死の神と今でも繋がっている。白サガの精神的な弱点である心臓へ、タナトスは容赦なくキューピッドの矢を突きたてた。
 黄金の矢はゆっくりと胸へ押し込まれていく。不思議なことに物理的な損傷は起こされない。肉は裂けず、血も流れない。それでも苦しいのか、食いしばったサガの唇から呪詛の混じった呻きがこぼれる。
「サガ!」
 動けぬなかで叫んだのはアイオロスだ。
 黒のサガは矢を埋め込まれながらもアイオロスをちらりと一瞥し、それから視線を戻してタナトスへと宣言した。
「貴様にくれてやる愛などない」
 そして次の瞬間、黒サガは自分の頭に向けて幻朧魔皇拳を放ったのだった。

(−2011/2/28−)




 自らの指弾で頭を撃ち抜いたサガは、そのままゆっくり腕を下ろした。
 漆黒だった髪の色は次第に褪せてゆき、くすんだ灰色とも渋銀とも呼べぬ色合いに変わってゆく。その銀は、いつものサガの空色めいた光沢をみせる明るい銀髪とはだいぶ異なっていた。
 紅の邪眼も色を薄め、紫がかった蒼の瞳に変化している。その瞳がぱちりと瞬き、どこか焦点のあわぬ視線でタナトスの顔を見つめた。
「わたしは、一体…アレは何を…」
 どうやら白のサガがまた表面に押し戻されたようだ。
 変化を見せたサガを目の前にして、タナトスが「なるほど」と呟く。
 口端をもちあげるようにして笑い、サガの面をタナトスの掌が撫でてゆく。それを振り払うことなく、サガは死の神へ問いかけた。
「貴方にはわかるのか、アレが何をしたのか」
「半魂のお前にわからぬことのほうが、不思議だが」
 頬を撫でていた手にサガの髪が触れ、タナトスは指先でその髪をくるくると弄んだ。そのまま、釣竿のリールを巻き上げるようにして、サガへ口付ける。触れるだけの軽いものではあったものの、衆人の前での狼藉に対してサガは声をあげることもなく、どこか茫然とそれを受け入れている。
「知りたいか?お前の中で何が起こっているか」
 タナトスは当然のように悪びれる様子もない。
 横合いからアイオロスの怒りの声があがった。
「やめろ、サガに何をする」
 神への敬意は払いつつも、毅然と睨む瞳には迷いがない。
 タナトスは声のしたほうへ振り向き、指をぱちりと鳴らした。すると、今まで金縛り状態であった者たちの拘束が解かれ、自由に動けるようになる。アイオロスはすぐさまサガの元へと走った。
「大丈夫か、サガ」
 タナトスを睨みつけ、間へ割り込みながらサガを背に庇おうとして、アイオロスの身体は反射的に固まった。それだけでなく、咄嗟にサガへ対して防御の姿勢をとる。それは、危険に対して意識する前に動く戦士としての本能だった。次の瞬間、サガから凄まじいまでの殺気が立ち上り、真っ直ぐにアイオロスへと叩き付けられた。
「わたしに触れるな!」
 銀河をも砕く破壊力が至近距離で炸裂する。
 意外にもアイオロスを庇ったのはタナトスだった。ローブの背を引き裂いて現れた冥衣の巨大な羽が、アイオロスを包みこみ、攻撃の威力を左右へ流す。
 周囲の地面はサガの攻撃で抉られ、砕けた瓦礫が土煙とともに辺りへ飛散した。
「…違う…わたしは…アイオロス…」
 攻撃を放ったサガの方が真っ青な顔をして、その中心で膝をつく。そのまま頭を抱え、意味をなさぬ何事かを呟いた。タナトスが再び羽を広げると、その中で庇われていたアイオロスも驚いたようにサガを見つめる。
「サガ、一体どうして」
「簡単なことだ」
 タナトスがサガへと歩み寄り、うずくまったサガを抱き上げた。サガは抵抗することなく、その腕の中に納まっている。神の小宇宙で包み込まれると、サガは誘導されるように目を閉ざし、意識を放棄した。
「キューピッドの矢の効果を相殺するために、この男は幻朧魔皇拳で効果対象を拒絶するよう、感情を固定したのだ。そして、それでも余剰する好意は、対象以外の相手へ振り分ける…もともと博愛傾向のあるサガにとっては、無難な選択であろうな」
 アイオロスはぽかんとタナトスを見た。
「しかし、それならどうして貴方ではなく私が」
「とぼけるな。お前はこの男を呼んだ。そしてサガは矢に貫かれて最初にお前を見た」
 銀の瞳がアイオロスを睨みつける。しかし、その瞳はすぐに嘲笑へと変わった。
「神を拒否して人間ごときを選ぶなど、引き裂いてやろうかと思ったが、あのサガはお前をも拒んだ。禁断の技を自身に放ってまでな。どうせ拒絶の魔拳を使うのならば、最初から余所見をする必要などあるまいに、下賎な人間の考えることは理解できん。だが、これはこれで面白い見世物よ」
 アイオロスは一瞬怯んだものの、すぐに言い返す。
「サガは誇り高い男だ。誰相手であれ、気持ちを操られることなど良しとしない」
「浅薄なことだ。結局は同じことであるというのに」
「なに?」
「この男の中の全ての拒絶は、今はお前に向けられている。つまり、それ以外の者への抵抗は現在失われている…もう一人のサガであってもな」
 アイオロスは黙りこんだ。先ほどのように、もしもいまタナトスが強制的に黒サガを呼び出したなら。タナトスは拒絶のないサガの誇りを、存分に蹂躙するだろう。
 抱いたサガを見下ろし、タナトスは酷薄そうな笑みを浮かべた。
「矢を受けたのは闇の半魂のみゆえに、光の半魂を表へ出して影響を抑えたか…しかし、キューピッドの矢は太陽神アポロンですら動かした神具。人間の悪あがきがどこまで通じるものか」
「なんだと」
「現に、お前が近づいたことで、不安定になっている。相反する矯正を無理に続けることで、魂が砕けるのも時間の問題であろうな」
 人間のひとりごとき、壊れようが意にも介さぬ言い草であった。周囲のゴールドセイントたちが殺気と共にいきり立つ。
 そのなかで、対照的な静けさをもってアイオロスは告げた。
「死の神よ、聖闘士を傷つけるとは、協定を破るおつもりか」
 タナトスは肩を竦めたものの、心外だとの表情を見せる。
「キューピッドの矢は肉体を傷つけぬ。幻朧魔皇拳は勝手にこの男が自分に撃っただけのこと」
「それが貴方の言い分か。なれば、我等の言い分はアテナを通してハーデスへ訴えられることになるだろう」
 次期教皇としての手腕をもって、アイオロスは切り返す。タナトスが僅かに眉を顰めた。訴え自体はどうということもないが、聖域側は聖戦の勝者である。この件を利用して冥界側が不利となる条約をねじ込まれる恐れがあり、アイオロスは実際その可能性をちらつかせて神を脅したのだ。
 タナトス側からすると、此度のことは単なる私的な遊びに過ぎない。そんなことで面倒を起こすのはごめんだった。
「どうにかしたければ、まずは幻朧魔皇拳とやらを解くのだな」
 タナトスの譲歩を受けて、アイオロスも微妙に声のトーンを和らげる。
「誰かに死ねと?」
「オレはそれでも構わんが、本人に解かせれば問題ない」
 魔拳を解くには目の前で誰かが命を失うか、掛けた本人が解除するかの二通りだけである。アイオロスはタナトスの腕の中のサガを見た。
「双子座を返していただきましょう」
 アイオロスが両腕を差し出すと、タナトスは返事もせずにその場から消えた。人間ごときに譲歩を引き出された腹いせだろう。そのまま石畳へ叩きつけられそうになったサガを、アイオロスはすんでのところで抱きとめる。
 さすがに意識のない間は、アイオロスへの拒絶反応もない。ただ、目を覚ました時はそうもいかないだろう。
「アルデバラン、双児宮まで運んでやってもらえないか」
 双児宮の隣にある金牛宮の主へ協力を頼むと、アルデバランは軽々とサガを受け取ったものの、何だかすまなそうな顔をしている。アイオロスへの遠慮によるものだ。それに気づいたアイオロスは苦笑しながらも受け流した。
「早いとこ何とかしないとね」
 アイオロスは一人ごちると、他のゴールドセイントへ持ち場へ戻るよう命じた。

(−2011/3/8−)




 サガは双児宮での療養を命じられ、海界からはカノンが呼び戻されている。
 双児宮にはカノンのほかに、両隣宮の主であるデスマスクとアルデバランが交代で様子を見にやってきていた。今はデスマスクの当番時間だ。双子の為にレモン水を用意している姿は、すっかり勝手知ったる台所である。
 アイオロスから経緯を聞いたカノンは、すぐに幻朧魔皇拳を解除するよう兄へ言い募ったが、サガはどうしても頷かなかった。魔拳を解くことは愛の矢の効能を受け入れることに他ならず、思考に制限のかけられたサガにとっては、最大限の拒否事項となるためだ。
「このままで、別に不都合はあるまい」
 どこか霞がかった目でサガが答え、カノンは舌打ちした。同じ技を取得している者として強引に魔拳を解く方法もあるが、それは最後の手段にしたい。神具の力がどう働いているか判らないため、通常の解除と違い、下手をするとサガの心に深いキズを残してしまう恐れがある。
「不都合があるから言っているんだろ!お前、そのままだと壊れるぞ」
「あの男、いや彼を受け入れるよりは…」
 あの男呼ばわりされたのはアイオロスだ。魔拳によってサガの拒絶の感情全てを向けられているがゆえに、言葉の節々に棘があらわれる。ただ、サガもアイオロスに対して嫌悪の感情を向けることは本意ではなく、懸命に魔拳の作用に逆らっている。そんな兄に対して、普段であれば『ザマアミロ』くらい考えるカノンだが、さすがにこの場でそのような余裕はなかった。
「アイツ一人のために、他の連中への耐性を放棄する気か?誰かが今夜寝ようぜとお前を誘ったらどうするんだ」
「受け入れれば良い」
「良かねえよそれが問題なんだよ!断れなくなってるじゃねえか!オレはそんな尻軽を兄に持った覚えはない!」
 怒鳴りながらも情けなくなってきたのか、カノンは頭を抱えた。サガも出来る限り洗脳に逆らってはいるのだが、半魂とはいえ自身の意志によって撃たれた魔拳とあって、逆らいきれない部分がある。少し離れた場所から一部始終を見ていたデスマスクが、ため息混じりに助け舟を出した。
「なあサガ、ようするに魔拳を解くことによって、誰かに惚れるっつーのが駄目なんだろ」
 サガは少し考えこみ、それからゆっくり頷く。いつものサガに比べると格段に反応が鈍い。
「なら、キューピッドの矢の効力が失われれば、魔拳を解いても問題ないな?」
 デスマスクの顔を、サガが不思議そうな表情で見つめ返した。今度は先ほどよりもさらに時間をかけて頷く。
「彼への好意の強制が失われるのならば、魔拳で抑える必要もないからな…それは構わない」
 隣からカノンが声を上げて割り込んだ。
「おいデスマスク、そんなことが出来るのかよ。神の象徴となるような神具の効力を打ち消すには、杯座(クラテリス)の水でも難しいんじゃないか」
 デスマスクは呆れたようにカノンを見る。
「アンタ、ちょっと冷静になれよ。キューピッドの金の矢には、対となる矢が存在するだろ」
「…鉛の矢か」
「そうだ。射られた者が最初に見た相手を嫌悪するようになるアレだ。持ち主のキューピッドがどこにいるのかも判っている。死の神さんが教えてくれてったからな」
 魔拳を解いただけでは根本的な解決にはなっていない。最終的にはキューピッドの矢の効力を無効化せねばならないということを、デスマスクは示唆したのだ。
「誰かがエリシオンまで鉛の矢を借り受けに行き、その矢の力で金の矢の効力を相殺する。その後サガに幻朧魔皇拳を解かせる…って流れでいいんじゃね?」
 デスマスクが案を伝えると、カノンも納得したのか肩の力を抜いて頷いた。
「ではオレが取りに行ってこよう。デスマスク、すまんがあとを頼む」
 しかし、デスマスクは首を横に振って異を唱えた。
「いや、アンタはここに残れ。サガの状態によっちゃ、幻朧魔皇拳を扱えるアンタが近くにいたほうが良いだろ」
 現在は神具の効能を抑えられているように見えているが、このまま安定するとは限らない。時間の経過で影響が濃くなる可能性もあるし、サガの精神が長時間もたない可能性もある。
 鉛の矢が間に合わないときには、カノンが無理にでも幻朧魔皇拳を解除しなければならないというデスマスクの主張はもっともであった。
 躊躇をみせているカノンの耳に、凛とした聞き覚えのある声が飛び込んできた。
「それなら、私が行こうかな?」
 はじかれたように全員が声の主を見る。
 いつの間に訪れたのか、アイオロスが戸口の柱に寄りかかって腕を組んでいた。双児宮の守護者であるサガが不調であるとはいえ、ゴールドセイント三人に気づかせずここまで接近したのは、さすが次期教皇の実力と言うべきか。とたんに険しい表情で顔を背けたサガへ、アイオロスは子供に向けるような笑顔を浮かべた。
「大丈夫だよ。これ以上は近づかない」
 サガが唇を噛みしめる。サガにとってアイオロスは、返しきれぬほど借りのある大切な相手であり、このような態度が許されないことは判っている。判っているのに、植えつけられた嫌悪感がとめどなく湧き上がるのを抑えられず、いまも視線を合わせることが出来ない。もしもこれ以上接近されたならば、攻撃の衝動を我慢できる自信がなかった。なぜ我慢しなければならないのかも、判らなくなりつつある。
 顔を背けているサガへ、アイオロスはほんの少し寂しそうな表情を浮かべたものの、直ぐにいつもの泰然とした雰囲気を取り戻す。
「カノン、私が行ってもいいよね」
「…ああ、頼む」
 不承不承といった感はあるが、カノンがぶすりと答える。自分が行けないとなれば、アイオロスこそが誰よりも信頼のおける適任者であることは判っているのだ。
「ちなみにカノン、私が出かけている間に、お兄さんに手を出したら駄目だよ」
「ふざけんなてめえ、さっさと行け!」
「デスマスク、カノンの見張りをよろしく。あと巨蟹宮の通路を通らせてくれ」
 返事の変わりに、デスマスクはひらりと片手を振った。
 そのまま背を向けたアイオロスへ、顔を背けたままのサガが独り言のように声を絞り出す。
「すまない…迷惑をかける」
 それが精一杯の言葉なのだろう。
 アイオロスは一瞬立ち止まるも、そのまま巨蟹宮へ向かって歩き出した。 

(−2012/2/1−)




 冥界は聖戦時にいちど崩壊しており、現在はハーデスによる界再生と修復の只中である。
 エリシオンはその片隅に仮の形で創られていた。復活したばかりのハーデスには、界を二つにわけて維持する余力がなかったためだ。本来、楽園へゆくには神の道を超えねばならなかったのだが、おかげで人間の行き来も可能となり、交流が生まれる要因になっている。
 黄金聖衣をまとったアイオロスは、広がる花々の楽園を見渡しながら、考え込む素振りをみせた。
(さて、普通はキューピッドを探さなければならないところだが)
 ニンフなどに尋ねながら居場所を探すのがセオリーだとは思う。しかし、彼の目算ではもっと手っ取り早い方法があった。
(タナトスが持っていそうな気がするんだよね)
 金の矢を用意していたタナトスが、対となる鉛の矢も借り受けているに違いないという予測である。金の矢が誤って自分や対象外の人間を傷つけた場合に必要となるし、目的を果たしたあとは黒サガの正気を戻すのにも必要となる。この場合、黒サガを元に戻すのは優しさからではなく、むしろ逆だ。屈辱を味合わせるために、タナトスであればそのような手段をとるであろうとアイオロスは考えたのだ。
 死の神殿の場所については、戦勝界の次期教皇として把握している。
 たとえタナトスが鉛の矢を所持をしておらずとも、その時にはキューピッドの居場所を教えてくれるよう頼めばよい。
 アイオロスは黄金の翼を広げ、タナトスの神殿へ向けてテレポートした。


「よくも図々しくオレの前に現れたものだな」
 神殿前に跪き、来訪の礼をとったアイオロスに対して、タナトスが忌々しげに吐き出した。
 サガへの戯れを邪魔した当人が、エリシオンまで押しかけてきたあげく尋ねごとがあるという。そもそもタナトスは、人間ごときが軽々しくエリシオンへ踏み込んでくること自体不快だった。通行証を持つパンドラや、許可を出した数名(聖域の次期教皇も含まれる)はフリーパスになっているとはいえ、本音としては神側が招いた場合にのみ来訪を許す形にしたく、人間側の都合による来訪などは認めたくない。
 聖戦以前であれば、一も二もなくアイオロスを殺して排除しただろう。今とてアテナとの協定がなければそうしていたに違いない。面会の希望を無視しても良かったが、さすがに神として大人気ないと姿だけは見せたのだ。
 アイオロスは跪いたまま、出来るだけ丁寧にタナトスへ言上した。
「先触れもなくおとないをした非礼をお許し下さい。聖域を束ねる次期教皇として、黄金聖闘士を欠くわけにはまいりませぬゆえ、畏れながら先の件で貴方のご助力を得られればと思い、まかりこした次第です」
「フン、それで?」
「もし鉛の矢をお持ちでしたら、お借りしたく…」
「断る」
 にべもなく端的な拒否であった。しかしアイオロスにとって、それは想定内だ。「持っていない」とは言わなかった。ということは、鉛の矢はここにあるのだ。
「双子座は意に沿わぬ感情の強制に苦しんでおります。哀れとお思いになりませんか」
「何が哀れだ。サガとて幻朧魔皇拳とやらで他人の意志を操った過去があるではないか」
「……」
「大体、故なくしてあれの半魂に忌まれるオレの方が不憫であろう。お前も同様に否定される理不尽を存分に味わうがよいわ」
 なるほど、とアイオロスは胸のうちでひとりごちた。
 タナトスは死の神として人に忌まれるのは慣れているはずだし、塵あくたと蔑む存在に嫌悪されたところで露ほども心は動かないかもしれない。しかしそのようななかで、自死をしたサガが平安としての死に惹かれ、タナトスを肯定したことは物珍しかったのではなかろうか。
 だが、白サガがタナトスを受け入れたことで、黒サガは逆に反発した。敵意すらみせている。表立って喧嘩は売らないものの、徹底的な拒絶と無視が黒サガのタナトスに対するスタンスである。
 けれども、考えてみればそれはタナトスに咎あってのことではない。自裁をした白のサガが死に惹かれるからといって、それはサガの側の問題であり、タナトスのせいではない。
 讃えておきながら同時に蛇蝎のごとく嫌悪してくる相手に対して、『勝手な』と憤るのは神ならずとも無理のないことだろう。
 黒サガからの風当たりについてはアイオロスも他人事ではなく、強引に意志を捻じ曲げようとする部分については反対するが、理由については共感するところも無くはない。
「それについては、私からも重々言い含めておきますので…」
 聞き入れてもらえるかはともかく、外交上の問題として、他陣営の神に対する双子座の態度について、次期教皇が本人へ叱責するのは『有り』だ。神妙な顔つきになったアイオロスの心情の変化を認めたのか、タナトスも頑なな態度を緩めた。
「あの男が壊れようと構わぬが、そうなった場合アテナがうるさかろうな」
 アイオロスは無言によって同意を見せた。聖戦でもない平時に、神の手出しで壊れた聖闘士を女神が放っておくはずはない。またその手出しを許しもしないはずだ。
 タナトスが左手をかざすと、宙に鉛の矢が現れた。矢は鈍い光を放ちながら空中を移動し、目の前へきたそれをアイオロスは両手で捧げ受け取る。手に持った神の矢は羽のように軽く、触れた途端にざりざりと神経を逆なでするような不思議な感触が伝わる。
 鏃へ触れぬよう気をつけながら、アイオロスはタナトスへ頭を下げた。
「それでは、お借りいたします」
「誰が貸すといった」
「……違うのですか?」
 話の流れで許しが降りたものと判断していたアイオロスが、わずかに慌てる。
 タナトスは初めて溜飲が下がったとばかり、嘲笑の笑みをみせた。
「この神具はオレが使用する旨で借り受けたもの。持ち主に断りなく勝手にまた貸しするわけにはゆかぬ。ゆえに返却をお前に依頼しよう。届けがてらキューピッドとの交渉をお前自身で行うが良い。場所は教えてやる」
「…判りました」
 もっともな話であるので、そこはアイオロスも頷くしかない。
 キューピッドの位置を伝え、ささやかな意趣返しをすませたタナトスは、踵をかえして神殿の奥へと戻っていった。

(−2012/2/4−)