1.この手で奪い、この手で与える / 2.彼が望んだ終わり / 3.潰えた野望 / 4.いつか思い知るがいい / 5.自分の居場所は何処にある?/ 6.どうしてこんなことになってしまったんだろう / 7.うらぎり / 8.あの日の傷跡 / 9.手を繋ごう /10.葬りそこねた愛 /11.その背中に恋い焦がれる /12.まるで磁石のようにすれ違う /13.光でもなく影でもない、それなら何? /14.単純な答えだったんだ
◆この手で奪い、この手で与える
「お前は俺から色々なものを奪った」
アスプロスがぼそりと呟いた。デフテロスは黙ってそれを聞いている。
「安息の日々も、双子座の聖衣も、命さえもだ」
うつむいたデフテロスの顔が、少しだけ泣きそうに歪む。
(…すまない。全部返すから)
答えようとして、言葉に詰まる。
聖衣と命は何とか返すことができた…と思うけれども、安息の日々とやらはどうか。奪ってしまった過去は戻らないのだ。
アスプロスはフンと鼻であしらう。
「返してもらうのは当然。もともと俺のものなのだからな。悪いと思っているのなら、俺のものを返すだけでなく、お前のものを差し出して謝意をみせろ」
デフテロスは考えこむ。差し出せるようなものなどあったろうか。
考えても、何も思い浮かばない。
「渡せるようなものを、俺は持っていない」
しかしアスプロスはそんな言い分を聞き入れなかった。
「いいや、あるだろう。俺の死んだあと手に入れたものが」
弟へ視線を合わせぬまま、自分の髪を指先に巻いてくるりくるりと弄んでは、ほどくことを繰り返している
「火星宮の戦いで、お前は『俺はもう、ただ俺だ』と叫んだな。このアスプロスの影でも付属物でも所有物でもないというのならば、お前自身のお前を寄越せ」
傲岸不遜なアスプロスの言い分に、デフテロスは先ほどまでよりも何倍も泣きそうな、困ったような顔をして兄を見上げた。
2010/3/13
◆彼が望んだ終わり
とつぜん俺は表の世界に立つこととなった。
アスプロスのものだった黄金聖衣を与えられ、自由まで手に入れた。誇りある聖闘士として存分に高みを目指す事だって出来る。かつて影から羨望した全てがいま、この手にあるのだ。
反逆者となった兄の死と引き換えに。
願い叶って考える。俺が望んだのはこんな世界だったのだろうか。
『君たち二人には初めから光も影もない』
アスミタは幻朧魔皇拳を受けていた俺にそう言った。
それは影の立場にあった俺には光明のような言葉に聞こえた。
だが、影であることを止めた今になって、己のなかで囁く声がある。
本当にそうだろうか?と。
アスプロスは遠からず邪悪として蘇るだろう。俺は無意識下の望みを叶えるために、アスプロスを殺して闇を押し付けただけではないのか?
「アスプロス…」
呟いても振り向く者はいない。
そうして気づく。
俺の世界は兄が死んだときに終わっていたのだと。
死んだ兄と再び合間見えるその時を待ちわびながら、俺は自我を磨き続ける。終わってしまったこの世界を、再び終わらせるために。そうして兄と二人の世界を再生するために。
2010/3/16
◆潰えた野望
「お前は野望など持ちそうにないな」
アスプロスがふと呟いたその言葉は、デフテロスには『覇気がないな』と同義であるかのように聞こえた。多分それは彼の引け目からそのように聞こえてしまうだけであって、アスプロスからすれば己の過去を鑑みた上での褒め言葉なのだろう。
デフテロスは少し躊躇したあと、ぼそりと答えた。
「俺も野望はあるのだが…」
「ほお?」
とたんにアスプロスが興味を持ってデフテロスを見た。それだけでなく近寄ってきて顔を覗き込む。
「どのような野望なのだ?」
「その、兄さんを…」
「俺を?」
アスプロスは楽しそうに聞いているが、デフテロス側としては本当のことなど言える筈もなく、語尾が小さくなる。
それはまだ口に出せぬ、兄への行き過ぎた想いだからだ。
「……」
「何だ、言ってみろ」
弟の葛藤など知る由もなく、アスプロスが言い募る。
「その…その…兄さんを…超えたい」
仕方なく誤魔化したデフテロスへ、アスプロスは目を丸くしてから笑い出した。
「お前は言葉を知らないな!『野望』とは身の丈にそぐわぬ高望みのことだ。何であれお前に負けるつもりはないが、それならば『目標』で良かろう」
「目標でいいのだろうか」
「お前は俺と同等の力と可能性を持っている。何を卑屈になっているのだ」
デフテロスはちらりとアスプロスの顔を見て、それから赤くなって下を見た。
「それならば、目標ということにする」
「そうか。それは楽しみだ。正直、野望などと言われると寝首をかかれるような気がするのでな」
楽しそうに笑っているアスプロスの声を聞きながら、デフテロスは拳を強く握り締める。
そうして彼は胸のうちの熟れた野望を、『兄を振り向かせる』という心焦がす目標へ、そっと置き換えた。
2010/3/17
◆いつか思い知るがいい
「二番目ごときが!」
言葉とともに、セージ教皇の似姿・ロストキャンバスを拳で叩き潰す。
それは海の泡のように脆く崩れ、消えていった。
しかし、いくら恨みをぶつけたところで、それは所詮絵の具のかたまりでしかない。
相手は既にこの世になく、妄執と怨念はただ昏く重く自分の中で淀むばかりだ。
生前には蒼銀であった長髪も、呪いと闇を吸い漆黒に染まった。
選ばれるべき相手に教皇の座を与えなかった愚かさを、いつか思い知らせてやるのだと、その一念で肉体持つ怨霊となりこの世に蘇ってきたというのに、憎しみの言葉は矛先を失い、ただむなしく火星宮に響く。
『いつか』などという刻はなかったのだ。
その場で思い知らせてやれなかった時点で、永久に敗北が定められてしまったのだ。
行き場を失った悔しさも未練も、昇華されることなく汚泥のように溜まり続ける。
「何故貴方を殺すのが俺ではなかったのだ、セージ様」
そのとき、アナザーディメンションの中へと、半身が飛び込んだのを感じた。
「…デフテロス、か」
二番目を表すその名前が、希望のように心を照らす。
そうだ、まだ牙を突き立てる相手がいる。この怨念を晴らす相手は、まだいるのだ。
口元にゆっくりと笑みが浮かぶ。
「待っていたぞ」
それは二番目などではない。誰よりも一番この世で憎い弟の名前。
2010/3/18
◆自分の居場所は何処にある?
デフテロスが兄へ乙女座アスミタの宮に出かけてきた事を伝えたのは、同居家族への一般的な日常報告であること以外に、自分が外の世界に繋がりを持っていることを話したかったからでもあった。
かつてのデフテロスは、聖域の閉鎖的な因習により差別され、兄の影としてしか存在する事を許されなかった。デフテロスはそれを受け入れ、ただひっそりとアスプロスの後ろで息を潜めて生きていた。
今は違う。むかし兄が望んだように、二人ともに光の下で生きている。互いに自立して己自身の世界を持っている。アスプロスが心配して邁進する必要はないのだと伝えたくて、デフテロスは珍しく饒舌になった。
処女宮で聞いたアスミタの説法は難解だがなかなかに面白く、兄ならばどのような解釈をするのか聞いてみたくもあった。
だからデフテロスは、話すうちアスプロスの機嫌が次第に傾いている事に気づかないままだった。
話が終わるまで黙っていたアスプロスは、ふいに立ち上がった。
「それほどアスミタが良いのならば、好きなだけ遊びに行けばいい。俺も杳馬のところへ行く」
兄が何を言っているのか判らなくて、デフテロスの頭は真っ白になった。気づけば向けられているのは冷たい視線。何故アスプロスが嫌っているはずの杳馬の名前が出てくるのかも判らない。
「アスプロス…」
何とか絞りだした呼びかけに振り向きもせず、アスプロスはそのまま外套を羽織り本当に出て行ってしまった。
デフテロスはひとり小屋に残される。
兄と二人でいたときの楽しかった気持ちもすっかり冷えて、デフテロスは固まったまま動けない。
どうして兄が怒ったのか、まったくわからず途方にくれている彼には、アスプロスが杳馬のところへなど行かず、ひとり活火山の噴火口で月を眺めていることなど、知るよしも無かった。
2010/4/7
◆どうしてこんなことになってしまったんだろう …杳馬が干渉しなかった場合のパラレル
弟は凶星のもとに生まれてきた。
性質が悪いわけでもない。真面目で実力もある。身びいきとしてでなく良く出来た弟だと思う。
何かの間違いではないかと思い、修行の合間に星見を学んでは、何度も夜空を見上げた。しかし、未熟な自分が占ってすら、凶星は弟の上に輝くのだった。
凶星は不吉を運ぶ。そんな理由でデフテロスは双子座のスペア候補にすら挙がらなかった。禁じられていた修行を通して身に付けた力は、俺とまったく同等であるというのに。
ときおり弟が背中から俺をじっと見る。無理もない。虐げられ、権利を奪われ、俺だったらとうに反旗を揚げてもおかしくないところだ。おそらくデフテロスは俺のために我慢をしているのだと思う。
俺はデフテロスに何が出来るだろう?
教皇候補に自分の名が挙がったとき、もしかしたら弟を救えるのかもしれないと光明が見えた気がした。俺が教皇になって、弟が双子座になればいい。そうすればデフテロスも光の下に立てるのだ。
途中で候補にシジフォスの名も挙がり、彼こそ本命という噂も流れたが、俺は気にしなかった。俺は自分の力を信じるだけだ。シジフォスに勝るだけの自信と自負は持っている。それで駄目なら、デフテロスを連れて聖域を出ればいい。
俺たち兄弟は真っ直ぐに生きてきた。そのことに誇りを持っているし、聖域のシステムの歪みに疑問も持たず放置した聖域上層部の、いったい誰が俺たち双子を前にして上からものを話せるというのだ?
その後、自負のとおり俺は教皇に選ばれた。これでやっと弟は影で無くなる。初めての勅令で、俺はデフテロスを双子座にしようとした。
しかしそれは出来なかった。
「お前が教皇でなければ、デフテロスを双子座とする方法も、まだあったのだがな」
引退したセージ様が、幾分哀れみの篭った目で言い放つ。
「なぜ」
「ひとつに教皇には影武者が要る。ひとつに教皇という立場のものが因習を蔑ろにする事は許されん。どちらにせよお前が戦士として現役の間は、聖衣の優先順位が変わることは無い」
「……」
「そこをあえて順列を変えるために、お前の方が双子座のスペアとなるのならば、話は別であった。しかし、教皇は黄金聖闘士から選ばれるのが決まり。今さらスペアに戻す事は出来ぬ。よって、いまデフテロスに適うのは、双子座のスペア扱いまで」
教皇になって立ち入る事の許されたスターヒルでの星見でも、弟の上から凶星は消えるどころか、いっそう強く輝いていた。心のどこかで何かが軋む音がする。
『こんな聖域など、滅ぼしてしまえばよいのではないか?』
奥底でそう囁く声がした。
2010/5/11
◆うらぎり
「アスプロスは杳馬のことが好きなのか?」
デフテロスが尋ねると、アスプロスは心底嫌そうな顔をした。
「ふざけるな、あんな男のことなど考えるだけでも虫唾が走る」
「本当に?」
「本当だ」
言い捨ててそっぽを向いた兄の横顔を、デフテロスは困ったようにじっと見る。
確かにアスプロスは本当のことを言ってるのだ。
双子なのだ、それくらいは判る。
それならどうして、今でもあんな男と寝るのだ?
喉元まで出かかったその問いを、何故か聞くことが出来ない。
人間と交流した経験がほとんどないデフテロスは知らなかった。
本当の言葉でも嘘を付けるのだということを。
2010/8/3
◆あの日の傷跡
「アスプロス!」
名を呼ばれて振り返った途端、こちらへ伸ばされようとしていたデフテロスの指先がびくりと止まった。その指先は戸惑いを隠すように軌道を変え、頬へと触れてくる。
「どうした、デフテロス」
軌道の変更に気づかぬフリをして返事をしてやると、食事の支度が出来たから知らせに来たのだと言う。
聖戦後は退屈なほど平和だった。
だのに、まだ弟の心には癒えぬ傷跡が残っている。
今のもその一つだ。
デフテロスは俺の左胸に触れることが出来ない。
後ろから肩を叩こうとしたのに、俺が振り返ったせいで右手が心臓に近付いた。だから避けたのだ。
デフテロスは己の拳が俺の心臓を貫いた時の事を忘れることが出来ないでいる。馬鹿だと思う。
弟の頭を掴んで俺の胸に押し当て、その鼓動を聞かせてやろうかと思ったがやめた。
もう少しの間、縛られているデフテロスを見ていたいと思ってしまう俺もまた馬鹿で、あまり過去に学んでいないのかもしれないなと思う。
けれども、早々に治してしまうなどつまらない。
この傷跡は弟から俺への確かな愛の証なのだ。
2010/9/3
◆手を繋ごう
デフテロスは足を止めた。アスプロスが追いついてくるのを待つためだ。
もう何度足を止めたろう。それほど早く歩いているつもりはないのだが、気づくと兄が一歩後ろにいる。
いま二人はカノン島の村ではなく、ギリシア本土にある大きめの町へ買い物に来ていた。
必要な買い物はほとんど終えて、あとは帰るのみとなっている。
ちなみに重い方の荷物はデフテロスが持っているので、アスプロスの歩調の遅さはそのせいとは考えにくい。いや、聖闘士であれば、今の荷物が10倍の重さであったところで、片手で軽々と運ぶだろう。
(…アスプロスは俺と並んで歩くのが嫌なのだろうか。それとも過去の意趣返しか?)
つい、否定的に考えてしまい、すぐに脳内で否定したものの、疑問と寂しさを含んだ視線がその分強くなる。
振り向いたその視線に気づいたのか、アスプロスは目をしばたかせ、慌てて近づいてきた。
「お前の方が前にいても、そんな視線をするのだな…いや、俺がそうさせてしまったのか」
思ったままを口にするアスプロスは、ある意味以前より遠慮もない。
「すまん、お前の背中が珍しくて、つい眺めていた。他人の後塵を拝するのは許せんが、お前の後ろを歩くことは気にならないのも不思議でな」
すっかり追いついて横へ並んだアスプロスは、片手でばふりとデフテロスの背中を叩いた。
「これだけ広い背中ならば、もう俺の背にかばう必要はなさそうだ」
兄の言葉でデフテロスの視線が緩む。
(大丈夫、本当のアスプロスはいつだって俺の心情を理解し、手を差し伸べてくる)
そうして、過去のトラウマを少しずつ埋めてくれる。
デフテロスは深呼吸をした。
「手を繋ぎたい」
そう伝えると、アスプロスはちょっと上から目線になり『なんだ、やはりまだまだ子供か』と言いつつも手を差し出してきた。
2010/12/15
◆葬りそこねた愛
デフテロスは手刀で自分の左腕に切れ目をいれ、血を溢れさせた。
血は腕を伝って赤い筋を作り、こぶしまで流れたあと滴って落ちる。
彼はそのまま、左手に握っていた小瓶の蓋をあけた。
かび臭い独特の匂いが鼻腔を刺激する。二百年以上空けられることのなかった、女神の血の入った小瓶。
デフテロスはその小瓶を傾け、自らの血とともに兄の胸へと注いだ。
兄アスプロスの胸にはぽっかりと穴が開いている。デフテロスが貫いてあけた穴だ。
黒く変色した血と引き攣れた肉がのぞいて見える。
アテナの血を自分のために使うことへのためらいは、兄を生き返らせたいという津波のような衝動の前では、砂の防壁ほどの力もなかった。
やがてアスプロスの身体がぴくりと動く。蘇生が始まったのだ。
胸の穴が、自然にはありえない形でみるみる塞がっていく。土気色であった肌は、異常に白めいているものの、ほんのわずかに赤みが差す。
「兄さん」
搾り出すように口から零れ落ちた呼びかけに応じて、アスプロスが目を開けた。しかし、そこにはデフテロスの好きだった青はない。
瞳全体がまるで血の塊であるかのように赤く、視線は憎しみに満ちていた。
「二番目ごときが!」
その第一声とともに、ざあっとアスプロスの銀髪は黒へと変じた。仰向けに横たわったまま、悪鬼の形相で弟へと叫ぶ。
「この俺を蘇らせたことを後悔させてやる」
「アスプロス」
またデフテロスは兄の名を呼んだ。
呪詛の言葉も耳に入ってはいなかった。ただもう1度兄が目を開いてくれたことが嬉しかった。跪いて兄の身体を起こし、抱きしめる。
アスプロスはまだ自分で動くことが出来ない。それでも出来る限りの力で暴れ、歯をむき出しにしてデフテロスへ噛み付こうとする。しかし、肌を食い破ろうとして出来ない。その事に気づいて、アスプロスがはじめて怪訝そうな戸惑いを見せた。
デフテロスは気にも留めず、ただ歓喜の表情で抱きしめ続けている。
「もう高みなんて目指さなくていい」
「ふざけるな、貴様、俺に何をした」
「何も。ただ蘇生者である俺を傷つけることは出来ないだけ」
赤い目に浮かんだのは一瞬の絶望と、新たなる憎悪だった。
「絶対に殺してやる。そして聖域の全てを滅ぼして、俺が教皇となる」
「兄さん、もういいんだ」
「殺してやる、殺してやる、殺してやる…」
叫び続ける兄の頭を、デフテロスはいとおしそうに胸へ抱きしめた。
2010/12/27
◆その背中に恋い焦がれる
「かつてお前は修行すらも禁じられていたが」
こほんと咳払いをしてから、アスプロスはデフテロスに話しかけた。まだ多少気まずさが残るのだろう。だが視線はまっすぐに逃げることはない。
「そのような差別的な因習は、もう無視して良いと思う。そんな聖域のつまらぬ命に従うよりも、俺はお前との関係やスキンシップを大事にしたい」
真正面からみつめるアスプロスの視線は、デフテロスにとってもまだ慣れぬものであった。兄と真っ向から対峙したのは、兄が冥闘士となって蘇った黒髪紅眼のときくらいで、本来のアスプロスの青い瞳を向けられると、自我を鍛えたにもかかわらず、胸の奥がざわめくのだ。
かつてデフテロスは、いつでもアスプロスの背を追っていた。兄の背中については、本人よりも詳しいと自負するくらいだ。その背中に追いつきたくて必死に影で修行をしたことが、兄を変えてしまったのは皮肉なことではある。
だが、今また昔の兄が目の前に居る。メフィストのせいで多少変わってしまったところもあるが、それでもアスプロスはいつだって輝いている。
「それで、お前さえよければ、さっそく今から…うわ」
言いかけたアスプロスの言葉は、抱きついてきたデフテロスの勢いに飲み込まれて中断される。
「…どのくらいの時間触れ合えば、スキンシップになるのだ」
「さ、さあ…」
”今から稽古でもしないか”と続けられるはずだった言葉は飲み込まれ、アスプロスは苦笑しながらも弟の勘違いを受け入れる。
背中よりももっと焦がれた正面からのアスプロスの視線を、デフテロスもいまは存分に受け入れた。
2011/1/30
◆まるで磁石のようにすれ違う
「なるほど、お前は俺の傀儡ではない…そう主張したいのか」
「そうだ。影でも模造品でもない。俺はもうただ俺自身だ」
「ふむ」
デフテロスの強い視線を受けながらも、アスプロスは怯むことなく笑んで肩をすくめた。教皇候補として邁進していた頃の取り繕った笑顔ではない。己のなかの闇を隠さぬ不遜な笑みだ。
しかし、それとて本心を見せていないことに変わりはない。
アスプロスは笑顔のまま、冷酷な口調でデフテロスを突き放す。
「では、お前は俺のものではないということだな」
「………それは」
「勝手にするがいい」
傲慢に伝えながらも、アスプロスは胸中で呟いた。
(そんなことはとっくに知っている。お前が俺を殺したときに)
自由を得て光の下へ歩き出した弟は、もうアスプロスに縛られない。
どう生きようと、どこへ去っていこうと、弟が自分で決めれば良い。
(まあいいさ)
アスプロスはうそぶいた。デフテロスには充分良くしてもらった。自らにかけた幻朧魔皇拳の虜囚として、死後も安らぐことのなかった魂を、解き放ってくれた恩義もある。
あれほど厭わしかった視線も、いざ失うとなると身を切られるような喪失感があった。けれども、これ以上縛るような言動はしまい。そうアスプロスは誓っていた。
デフテロスは少し下を向いたあと、切羽詰った激しい視線で兄を睨んだ。拳は強く握られ、今にも殴りかかりそうだ。
低い声で吐き出された言葉は、アスプロスの予想外のものだった。
「俺を捨てるな」
聞き間違いかと脳裏で反芻する。
「便利な道具でなかったら、お前は俺を捨てるのか」
どこか泣きそうな弟の目を見て、アスプロスはまた己が間違っていたことを悟った。
2011/4/5
◆光でもなく影でもない、それなら何?
「アスプロス、聖域から召集が掛かっているが…」
聖戦後、カノン島で暮らす二人のもとへ届いた一通の召集令状。
黄金聖闘士を一同にあつめ、各自の職分について定期報告をさせる黄金結合を再開するようだ。
アスプロスは読んでいる分厚い書物から顔も上げず、デフテロスに答える。
「双子座の黄金聖闘士はお前だ。行ってくるといい」
「アスプロス」
「この本がなければ代行してやってもいいのだがな。だが、俺はこの本を今日中に読み終えてしまわねばならん。ブルーグラードへの返却期間が明日までなのだ」
「俺が双子座の黄金聖闘士だというのか」
己が黄金聖闘士だという自負は、もちろんデフテロスも強く持っている。しかし、兄をさしおいて双子座の黄金聖闘士を名乗ることを、兄がどう思うのかが気になった。
また、兄がもしも”二番目に黄金聖衣を『ゆずる』”気でいるとしたら、それはデフテロスの矜持とプライドを傷つけるものであり、許せない。実力はともかく、自分はもう兄と対等のつもりでいる。哀れみや同情で下賜されるつもりはない。
「兄さんは以前、双子座の真髄は俺にある…そう言ったではないか」
わずかに非難の色が混じる弟の声を聞き、ようやくアスプロスは顔をあげた。
「そのとおりだが?」
「ならば、何故」
「俺は双子座の真髄と言ったのだ。双子座の黄金聖闘士とはひとことも言っておらん」
アスプロスは真っ直ぐにデフテロスを見上げた。
「デフテロス、お前はたがうことなく双子座の黄金聖闘士よ。しかし俺は『双子座』だ。聖衣にも冥衣にも縛られず、光でも影でもなく、それでいて善も悪も内包する…それこそが双子座の真髄」
だから、その黄金聖衣はお前のものだとアスプロスは笑った。
納得して出かけていったデフテロスを見送り、アスプロスの視線はまた本へと戻る。
「定例報告会など面倒なだけだからな。まあデフテロスは机作業的な部分についても覚えた方が良かろう」
実はそんな理由でちゃっかり仕事を弟へ押し付けたアスプロスは、春の陽気に誘われるように、のんびりとあくびをした。
2011/4/9
◆単純な答えだったんだ
夕飯前のひとときを、アスプロスはのんびり本を読みながら過ごしていた。
食事当番は基本的にデフテロスである。平等な関係となった今も、昔からの習慣がそのまま残っているのだ。
デフテロスのほうが料理上手という理由もある。
身近な香草をふんだんに使った味付けは、いつでも兄の好みに合わせられていた。
漂ってくる夕餉の香りに小腹を空かせつつ、突如、台所方面で膨れ上がる小宇宙を感じて、アスプロスは本から目を上げた。
普通に考えて、夕食の準備で小宇宙を燃やす理由など無い(黒い虫がいた場合は別だ)。
台所へ意識を向けて探ると、なにやらデフテロスが小宇宙を燃やしたまま、目の前の鍋を凝視している様子である。デフテロスの小宇宙はその鍋へと注がれている。
「…何をやっているのだ?」
思わずアスプロスはひとりごちた。以前であれば、食事に細工でもするのかと、疑心暗鬼になっていたところだろう。いや、正直なところ、今だとて不安になることもある。
ただ、弟との死闘を乗り越えたアスプロスは、その不安が杞憂であることも知っているのだ。
アスプロスは立ち上がり、台所を覗いた。
「アスプロス、もう少しだけ待ってくれ」
夕飯を急かしに来たのだと勘違いしたデフテロスが、振り向きながら伝えてくる。
「そのかわり、味は期待して良いぞ」
「小宇宙を燃やすと味が変わるのか?」
弟の不思議な行動について純粋な疑問として尋ねると、デフテロスが目を丸くしてから笑った。
「さすがのアスプロスも料理方面は不得手か」
これが弟以外に言われたのであれば、プライドや対抗心から気を悪くしたであろう台詞なのだが、アスプロスは素直にうなずく。デフテロスは熾き火の上から鍋を下ろした。
「空間を圧して、料理に火を通りやすくするのだ。味も染込むし、調理時間も短縮できる」
「…なるほど」
現代で言う圧力釜の原理だ。
デフテロスが鍋の蓋をとると、大きな塊のままの鹿肉を使ったシチューの匂いが台所に広がり、アスプロスの食欲を刺激した。
「さあ、夕飯にしよう」
湯気を立てている鍋の取っ手を、デフテロスは平気で素手で掴んでテーブルへと運んでいく。
弟の後を食器片手に追いかけながら、『なんだ、そのような理由か』と、アスプロスは己の猜疑心を笑い飛ばした。
2011/6/27
14個まで書いたところでお題サイト様が閉鎖されてしまったため、途中ですが完遂扱いデス(>ω<。)