タナトスの周囲をふわふわと、沢山の小さな首が飛び回っている。
頭部に生えた翼を羽ばたかせ、霊体の尾を引きながら、そのどれもが涙を流し、苦しんでいる。
死の苦しみを嘆きながら、しかしどの首もタナトスの傍を離れる事は無く、彼を中心に漂い旋回していた。
わずかに離れた場所で立つサガは、それを見てはっきりと眉をひそめた。
「哀れなことをする」
その呟きを耳にしたタナトスが振り向く。
「こいつらは、我が体内のタルタロスに飼う低級霊…かつて俺が戯れに摘んだ命の成れの果てよ。六道にも乗れず彷徨う屑を、神が役立ててやるのは光栄なことではないか?」
タナトスは哂い、近くに飛んでいた子供の首を掴んだ。子供の首はキィキィと泣き声をあげている。その首を手のひらで転がすと、白い煙を上げて羽は萎び落ち、肉は削げてただの骸骨となった。白骨と化した頭部がタナトスの手からポトリと落ちる。
サガの脳裏に、かつての巨蟹宮の壁を埋めつくしていた人面たちが浮かんだ。
「彼らは、貴方の成した殺戮の記念か」
「踏みしめた汚泥の多寡を、記念になどするものか」
サガは屈み込んで、タナトスの足元に転がったその頭蓋骨を、静かに両手ですくい上げた。小さな骸骨は何かを訴えかけるようにカタカタと歯を鳴らし、それからフッと消えた。
「双子座の聖闘士であった者よ、お前はアテナの元へ戻らぬのか?」
タナトスは銀の瞳でサガを見た。サガの霊体はうっすらと光を帯び、格の高い魂であることが見て取れる。だが、その足元には数筋の血が流れていた。その血は決して乾くことなく、彼の身体から常に流れ落ちているのだった。
「わたしは既に死人。生き返って世界の理を覆すつもりは無い」
サガは控えめに微笑んだ。美しくも、心をどこか遠いところへ置いている笑みだった。
「お前と同様に、地上へ戻らぬ一部の聖闘士どもは、輪廻の輪に乗ることを選ぶようだぞ」
冥府にある亡者の動向を把握するのは、死を管轄領域とするタナトスには容易い。
それをサガへ教えたのは、単なる気まぐれにすぎない。
「自殺者であるわたしが、彼らと同じ道をゆけぬことは、貴方もご存知だろう。それに、その事がなくとも、わたしは進むことが出来ないのだ。わたしの半分を見つけるまでは」
サガの言う半分とは、アテナの盾の力で払われたサガの闇の人格だった。
半分に刻まれた魂は、裂かれた傷口が癒えることのないまま、ずっと血を流し続けている。
輪廻の輪に乗るためには、魂が一人分揃う必要があった。
今のサガは、どれだけ聖性が高かろうと、本来のサガという人間の一部でしかないのだった。
「では、お前は半魂を探しにゆくのか」
聖戦のさなか、エイトセンシズに目覚めた黄金聖闘士たちは、死の法則を超えている。
双子座もその例に漏れず、望みさえすれば六界を渡り、半身を探し出す事も不可能ではないだろう。
サガは答えず、タナトスの傍へ歩いていった。
「低級霊たちを解放してやってくれないか。苦しんでいるではないか」
返答を返さぬどころか、不遜な要求を口にする双子座の男を、タナトスは怒りもせず面白そうに眺めた。
「メロウの壷を開けろと言うか。これは、我が技タルタロスフォビアの弾でもあるのだが」
「ただでとは言わぬ」
サガはタナトスの前に跪いた。
「代わりにわたしを使役すればいい。有象無象の浮遊霊よりは、役立てる自信がある」
タナトスは目を丸くした。
「何のために」
暫くの無言の後、死の神がそう返したのも無理はない。
サガは自嘲の笑みを浮かべている。
「もしも半身を得て輪廻の輪に戻ったなら、全てを忘れたわたしはきっと、次の世でまた女神に仇なすだろう。友を殺し、弟を傷つけ、仲間を謀るだろう…わたしはそういう風に出来ているのだ」
「それゆえ転生も拒むと?」
「そうだ。こんな業はもう沢山だ」
言いながらも、サガの霊体は淡くきらきらと煌いた。
「タナトス。わたしを痛みと共に、貴方のもつ奈落へ閉じ込めてくれ」
強い希求とともにぶつけられたその言葉は、求愛にも似ていた。
「俺がお前の望みを叶えると思うか」
サガは真っ直ぐにタナトスを見返した。
「神は人の願いを聞き届けるものだ」
人間とは、どれだけ図々しい生物なのかとタナトスは思う。神は人間のために存在しているわけではない。
それでも、無礼を理由に問答無用で消し飛ばさなかったのは、目の前の男が奈落…タルタロスを本気で望んでいたためだ。タナトスは、そんな事を言う人間には出会ったことが無かった。
タルタロスは、神ですら忌み嫌う不毛の虚獄だ。
そこへ至る道を身のうちに持つタナトスまでも、一部の神々からは深淵そのものであるかのように恐れられ、避けられていることを、タナトス自身知っている。
己と己の領分を、誰もが嫌悪しこそすれ、望む者がいるなどとは理解のほかであった。
「わたしには、貴方が必要だ。だから、わたしのために居場所を空けてくれないか」
昏く淀んだ願いである筈のその言葉を、サガは神のような微笑で請うた。
その微笑はひどくタナトスを惹きつけるものだった。
いまや死の引力は逆転しつつあった、それは神をも混乱させた。
クロノスがサガを「混沌(カオス)を招ぶもの」と称したことを、タナトスは知らない。
タナトスは動揺のなか、いつしか身の内にある深淵への門を知らず開いていた。
それは牢獄の開放に等しかった。途端、あたりは噴き出した数多の浮遊霊で満ちる。
タナトスのもつ深淵の中でも、ほんの入り口〜冥府へ至る黄泉比良坂に該当する上位エリア〜に漂い、タルタロフフォビアの弾幕として捕らえられていた魂の群れ。
これらの霊体は、タナトスの命じるままに敵を襲い、肉体と精神へダメージを与える。
それを開放して、自分のための場所を空けろとサガは言っているのだ。
サガは立ち上がり、漂う霊たちに手を伸ばした。サガの聖なる小宇宙に触れると、彼らは弾け光の粒となり、天へと昇っていく。それが誘い水となったのか、魂は次々に光と化していった。
サガの勝手な振る舞いを、横槍も入れずに見ていたタナトスであったが、あらかたの魂が光と化すと、ぎろりとサガを睨んだ。そして、傲然と宣告する。
「これからは、お前が我の一部となり、我が盾となれ」
その言葉と共に、霊体であるサガの形状に変化が訪れる。
人としての形はそのままに、輪郭は曖昧となって溶け、背や頭部へと羽が生まれていく。先ほどまでの霊魂たちが、頭部に羽を生やし飛んでいたように。
翼はゆったりと弧を描いて広げられ、柔らかに羽ばたいた。
(ああ、わたしにも翼が)
かつて殺した友人の持つ黄金の羽とは、比べるべくも無いただの羽。
それでもサガは大切そうにその羽を撫でた。
今やサガを包み込むように、奈落が口を開いている。
サガは死の神を見て、心の底から感謝しているように見える笑みを浮かべた。
「貴方を、わたしのエリシオンを、永遠に守ろう」
その言葉を最後に、奈落の扉は再び閉められ、その場にはタナトスだけが立っていた。
タナトスは両腕で己の身体をそっとかき抱き、それから溜息と共に顔を顰めた。
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精神分析学用語ではタナトスの同義とされるデストルド。でも死の側からみたら押しかけ女房みたいな感情ですよね。純度100%の白サガは、自分に厳しく他者に優しいあまり、全てを置いていく事に躊躇いが無い化け物だと萌えます。