サガは博愛のひとだ。誰にでも優しく厳しく、平等に手を差し伸べる。
それは聖戦後に生き返ってからも変わらない。闇のこころを女神の盾で浄化された彼は、元罪人と蔑まれようとも毅然と他者のために生きている。その姿は、偽善者だとか八方美人だとか、そんな陰口を何時の間にか黙らせる強さを持っていた。
昔以上に輝かしく、それでいて控えめに振舞うサガのことを、やはり神のような男よと賞賛する者も増えつつある。
「でも、サガは変わってしまったよね」
溜息をつくように嘆くと、サガが目をぱちりと瞬かせた。俺の言葉はいつでも唐突に聞こえるらしい。サガは聡いし、それほど分かりにくいことを言っているつもりはないのだが。
俺たちは訓練を終えたあと水場で汗を流しているところで、蛇口から流れ落ちる水は陽を反射して時折きらきら光っている。サガは両手で水流を溜め受け、ぱしゃりと顔を洗った。激しい運動で高まった体温が心地よく冷やされていくのを、俺は黙って眺めている。もう1度両手に水を貯めだしたので、俺はじっとサガを見つめた。根気良く待っていると、自分が返事をしていないことに気がついたのか、ようやく彼はこちらを向く。
「そうか?」
急かされるままに答えたのが分かる、内実の伴わぬ返答。俺は少し寂くなりながら続けた。
「どこかへ一緒に出かけないか」
「何の為に」
「天気がいいし、行楽日和だろう」
言葉が終わるのと同時に、サガが困った顔となる。
(ああ、まただ。俺が近づこうとすると、サガは引いてしまう)
昔はもっとサガは近くにいて、当たり前のように気持ちも通じていた気がしたのだが。
内心のため息を押し隠していると、サガは曖昧な笑顔を見せた。
「わたしはいいから、アイオリアたちと楽しんで来るといい」
「サガは、俺とは出かけるのが嫌なのか?」
流そうとしたサガを許さず、容赦なく直接的に尋ねる。
「そのようなことは、」
ないと続けられることはなかった。何かを言いかけた唇は2〜3度開かれて噤まれる。
サガは黙って視線を外した。
「俺のことを避けているよね」
「共に訓練をする時間も、教皇職の引継ぎの時間も充分設けているだろう」
サガの言い訳は予測どおりのもので、そのことが一層胸を凍らせる。
「それは全部、双子座としての君の時間だ」
「双子座としてのわたしが全てだ」
自分は聖闘士として存在しているだけであって、個人的な生を歩むつもりはないのだとサガは主張する。しかし、それもまた俺を避けるためのお題目でしかないように思われた。何故なら、サガは他の者の誘いには応えているのだ。元罪人という立場上、表だってのことではないが、目に映る限りサガが任務の都合以外で誰かの誘いを断っているのを見た事が無い。
「どうしてなんだ、サガ」
俺には理解出来なかった。聖戦後に思いもかけぬ復活という奇跡の恩寵を得て、今度こそサガときちんと向き合えると喜んでいたのも束の間のこと、蘇生を経たサガはまるで変わっていた。厳密に言えば、俺に対してだけ変わってしまった。
その違いは訓練のときなどにも明らかだった。サガは13年間分の戦闘経験の差がある俺に対して、導き支えとなろうとはするものの、それは決して並び立ち、競い合うためのものではなかった。
サガはもう決して俺の前に立とうとしない。横にすらも。必ず一歩引き、全てを譲る。
目に見えぬ一線が俺たちの間に引かれてしまったのだ。
昔はそんな事はなかった。俺の知る彼は身のうちに凄まじいまでの向上心を隠し、常に高みを目指していた。ひたすら天を目指す傲慢なまでの気高さを持っていたし、他者の追随を許さず、比較において負ける事を嫌った。同期の俺とも切磋琢磨する毎日であり、良くも悪くも、その貪欲さはサガをサガたらしめているものであったと思う。そして当時サガと磨きあえるのは自分だけであった筈。自惚れでは無く、それは事実だった。
サガとぶつかり合い、その瞳に対等な他人として映るのは俺だけだったのに。
今のサガの目には、穏やかな慈愛と少なからぬ遠慮、そして柔らかな拒絶しかない。あの頃、ふとした折に感じたサガからの何らかの心の発露や執着(当時はそれが憎悪まじりとは気づかなかった)が、今や綺麗に失われている。
サガは俺と競う事をやめてしまった。俺だけを見る事をやめたのだ。
そのことは何より俺を打ちのめした。裏切られた気さえした。
過去の行為に対する贖罪の意思から生まれた距離感であろうことは、容易に想像できる。しかし、こんな風に一歩引いて道を譲られたところで嬉しいわけがない。なにより私生活でまで壁を作られるいわれはない。
数多の博愛と贖罪の対象者のひとりとして扱われることは、とても屈辱だった。
「昔のように、俺を見てくれ」
「…できない」
「どうして!」
「わかってくれ、アイオロス」
サガの声が震え、それでも断固とした意思を持って紡がれる。
しかし、俺も引くつもりはなかった。
「償うというのなら、俺の事を嫌いになったのでないなら、望みを聞きいれてくれ」
「アイオロス、」
「お願いだ。俺を君の世界に入れてくれ」
サガの肩に手を置こうとして、跳ね除けられる。サガは初めて真っ直ぐに俺を見た。
「わたしはお前を憎みたくないのだ」
「そんなこと!」
俺は訴える。
「君に触れられないくらいなら、憎まれるほうがずっといい」
サガの瞳が見開かれ、そして静かに伏せられた。
「わたしはお前に触れる事が二度と叶わずとも、もうあんな感情を持ちたくはなかったのに」
ザ…とサガの髪が靡く。小宇宙の質が変わったのだ。目の前でサガの髪は瞬く間に色を変え、漆黒へと染まっていく。その様子はまるでサガという人間の形に、闇が降りてきたかのようだ。
その姿には覚えがあった。教皇の間における最後の対峙でみた、サガの暗黒面。星矢との戦い以降、聖戦後にも決して現れることの無かったサガの半身。
「アテナの盾で、払われたのではなかったのか」
流石に驚いていると、そのサガは鮮やかに笑った。
「あれは、13年前のカノンの望みが創り出した『わたし』。此度の親はおまえか」
顔にかかった黒髪をかきあげ、サガは俺の首に手を回す。
「お前のために喚ばれたのだ。望みどおり愛してやろう、触れてやろう、憎んでやろう」
「…うん」
俺もサガの身体へと手を回す。腕の中の体温は逃げることなくそこにあった。
「おかえりサガ」
肩口に顔を埋めると、サガは子供をあやすように頭を撫でてくれた。
アイオロスに望まれたら応えずにはいられない。だってサガもアイオロスが好きだから。
繰り返される感情は過ちなのか本望なのか、ロスとサガの関係は色々複雑で純粋だなと思います。