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◆蜘蛛の夢糸
1

 暗く濁った水をたたえた池のほとりで、ヒュプノスが何やら細く光る糸を指に絡め、水面へと垂らしている。散策がてら通りすがったタナトスは、それを見て呆れたように声を掛けた。
「釣りがそれほど楽しいか」
「ああ」
「食いつくかも判らぬ魚を、ただ待つだけなど暇なことだ」
「判らぬからこそ、面白いのだ」
 ヒュプノスは笑う。タナトスはその糸の先を覗き込んだ。
 糸は深く池の底へ沈み、どこまで続くのか肉眼では見えない。
「釣れたら、俺によこせ」
「釣れたならば」
 そう言っている合間にも糸は反応し、ヒュプノスは楽しげに指を動かしている。


「お前は女神を選ぶのだな」
 ”私よりも”という声を押し殺し、サガは黄金の短剣を握り締めた。
 まだ幼い赤子のアテナを胸に庇い、アイオロスは苦笑する。
「君が選ばせたんだろう。君が先に、俺より世界をとった」
 それは淡々とした声であったが、どこかに責めるような色があった。
 思わぬ返答に、サガの動きが鈍る。
 アイオロスは声低く、呟くようにぽつりと零す。
「俺は…俺は君を選びたかったのに」
 そのささやかな糾弾はサガの胸を抉った
「なあ、サガ。今からでも選びなおせないのか。君が俺を選んでくれるのなら、俺は」
 口に出されたそれは懇願でありながら、強い力でサガに己を選べと命ずる。サガの面にわずかな動揺が見えた。
 アイオロスは女神をそっと揺り篭へ戻し、片手をサガに向かって差し出す。
「世界とアテナを捨てて、二人で行かないか」
「アイオロス、それは」
 こんなことはおかしい、サガの冷静な部分がそう叫ぶ。
 でも、でも、アイオロスが。
 アイオロスが自分を望んでいる。
 どれだけ求めても得られなかった彼が。

 何時の間にか短剣は指から零れ落ちていた。サガはのろのろと手を上げ、アイオロスの手をとった。



「上手く釣れたようだ」
 糸をたくし上げながら、ヒュプノスが言う。
 タナトスは獲物が引き上げられるのを見て、肩をすくめた。
「意外と簡単なのだな」
「これで微妙な加減が必要なのだ。お前では釣り上げられまいよ」
 手繰り寄せられた糸の先には、柔らかな黄金の魂が、きらきらと光りながらまとわり付いていた。

2009/4/22


2

「約束どおり、それはお前にやろう」
 受け渡された魂を、タナトスはしげしげと眺める。
 ヒュプノスが繰り糸ごと手渡した光は、物理的に拘束されているわけでもないのに、決して糸の端から離れようとはしないのだった。
「丁寧に育てれば、夢はさらに育まれ輝く…が、お前には難しいかもしれん」
 眠りの神は、侮るわけでもなく、事実として淡々とそう決め付ける。
 タナトスは気分を害したのか、僅かにムっとした顔を見せた。
「こんなもの、適当に餌をやれば良いのだろう?」
 死の神はぞんざいに糸を引いた。


 アイオロスの手を取ったものの、サガは次第に不安になってきた。
 捨ててしまった女神や聖域、置いてきてしまったそれぞれの弟、それらについて未練はあるが、後悔はしていない。自分は選んだのだ。ならば後悔は卑怯だ。
 聖闘士の鑑とも言うべきアイオロスが、その誇りを投げうってまでサガへ手を差し出したあの瞬間の至福を思えば、己はどんな非難にも堪えられる。
 しかしサガが不安に思うのは、目の前のアイオロスの優しさなのだった。
 今のアイオロスは優しい。そして、とてもサガに甘い。
 何故、これほど優しいのだろうか。
 アイオロスは、このような人間であったろうか。
 女神よりも、想い人を選ぶような男であったろうか。
「アイオロス」
 サガは少しだけ強く、アイオロスの手を握った。
「お前は、私の手を取った事を、後悔しないのか」
 言ってしまってから、言うのではなかったとサガは思った。こんな縋るような女々しい言葉は、アイオロスを傷つけるだけだ。
 しかし、サガの不安をよそに、アイオロスはにこりと微笑み返した。ドクンとサガの心臓が跳ね上がる。
「後悔なんて、するわけがない」
「…アイオロス」
「だって、そうしなければ、君はアテナを殺してしまっただろう?」
 言いながら、アイオロスはサガを抱きしめた。血の気の引いた、サガの顔を見もせずに。
 サガは、愛していた男に抱かれたまま俯いた。
「お前は最初から、アテナを選んでいたのか」
 ゆっくりと彼の髪の先端が、闇色へと染まっていく。
「私はお前のために、全てを捨てたのに」
 再び顔を上げたサガの紅眼には、哀しみだけが浮かんでいた。



「あれはどうなった?」
 翌日になって、ヒュプノスが尋ねると、タナトスが不貞腐れたように宮の隅を眼で示した。
 そこには、鈍く澱んだ黒い光が、ぼんやりと点滅を繰り返していた。
「言ったろう。きちんと世話をしないから、そうなるのだ」
「面倒な」
「まあ、予測できたことではあるが」
 ヒュプノスは、濁ってしまった魂を拾い上げ、両手の中でそっと転がし、状態を確かめる。
 それから口元へそれを持って行ったかと思うと、すう…とその人魂を飲み込んだ。
「要らぬのならば、返してもらうぞ。これはこれで、面白い悪夢へと育つかもしれん」
 口元をちろりと舌で舐め、ヒュプノスは薄く笑った。

2009/4/23


3

 パサリ。
 羊皮紙をめくる音だけがその部屋に響く。
 古めかしい装丁の本を片手に長椅子へ横たわる黒髪の青年は、時折なげやりに身体の向きを変えるものの、衣擦れや息遣いといった生の気配は無い。
「サガ」
 静寂を破るように名が呼ばれ、青年はゆっくりと声の主を見上げた。
「何の用だ、ヒュプノス」
 現れた眠りの神を目の前にしても、かしこまることのない不遜な言葉と紅い視線。ヒュプノスは、その無礼をむしろ楽しそうに眼を細めて受け入れた。
「私の手伝いをしてみる気はないか」
「何をしろと?」
「私の創り出した道にのり、相手の夢へと降りるだけでよい」
 黒髪のサガは僅かに眉を顰め、それからフンと鼻を鳴らした。
「友釣りか。私は餌か」
「理解が早くて助かる」
 ヒュプノスは長椅子の横へ腰を下ろし、寝そべるサガの黒髪を手に取った。
「お前も、弟や次期教皇の夢を覗いてみたいと思うだろう?」
 柔らかな黒髪をくるくると指に巻き、弄んでからするりと梳く。サガは紅い瞳でその仕草を追い、どうでも良さそうに返事をした。
「どうせ拒否権は無いのだろうが」
「いいや。望まぬならば、幻影で代用するのみ。お前の時にそうしたように」
 一瞬、サガの眼に危険な光が宿ったが、すぐにそれは秘められる。サガは肩を竦めた。
「貴様には一応感謝をしている。夢の中でアレが自ら全てを捨てたお陰で、アレには私しか居なくなり、サガを縛るものは何も無くなった。それゆえ、私はこうして自由に外へ出ることが叶う」
「お前の生まれた理由も、失われてしまったようだが」
 ヒュプノスの指摘に、サガは笑い出した。
「そうだな。確かに私はすることがなく、たいそう暇なのだ」
 パタンと本を閉じ、身体を起こして長椅子に座りなおす。
「退屈しのぎに、貴様の思惑へ乗ってやっても良いぞ」
「退屈であるのならば」
 ヒュプノスは起き上がったサガの手を取り、その指先に軽く唇で触れた。
「夢へ降りる前に、私とも暇を潰してみぬか」
「貴様も暇なのだな」
 サガは呆れたように、それでもヒュプノスの肩へ両腕を回した。

2009/5/2


4◆…※LC双子バージョンです


 ヒュプノスは指に巻きついている虹色の糸を、細く水面へと垂らしている。
 風が吹いているわけでもないのに、その池には時折さざなみが立ち、ゆらゆらと波紋を沸かせては凪ぐ。
 それはヒュプノスの垂らす糸が水に引き込まれるのと同じタイミングだった。だが、魚の食いつきが不完全なのか、糸が沈みきる事は無い。
 瞳孔のない金の瞳で、ヒュプノスは池の奥を覗き込む。


 アスプロスの死に顔が目に焼きついて離れない。
 それは俺の眠りまで侵食し、おかげで暫く不眠症だ。
 それでも戦士として身体を休めぬ訳にはいかないため、睡魔に身をゆだねると、きまってかつての兄が笑いかけてくる。
「デフテロス」
 俺は騙されない。どんなに優しい声を出そうが、アスプロスはどうせ俺の事を道具としか見ていない。目を見てはいけない。
「俺と世界を支配しようではないか。二人で一緒に」
 甘く低い声で囁いてくる。幻朧魔皇拳なんかより、こんな風に微笑まれるほうが、よほど俺を縛る事をアスプロスは学んだのに違いない。
「…二人じゃ、ないだろう」
 押し出した声はかすれていた。
「貴様の傀儡として横にあったとしても、それは貴様の模造品で俺ではない」
「そんなこと」
 アスプロスがにこりと笑う。邪悪だけれども美しい笑み。他人を惹かずにはおかない魅惑的な煌きをもつ兄。だが俺は昔の、単純であっても輝かしい真っ直ぐな笑顔の方が好きだったのだ、アスプロス。
 だがそのアスプロスは同情するような目つきで俺を見る。
「デフテロスよ、お前は一瞬でも思わなかったのか?完全なる俺の傀儡として、俺の手足となり、俺の望みのままに生きる事を…そう、俺を殺すよりも」
「………」
「俺にはお前が必要だった」
「黙れ!俺はお前のように弱くは無い!」
 渾身の力でなぎ払う。簡単に兄の姿は消え、闇だけが残る。
 一瞬、もっとアスプロスの顔をみていたかったと望んだ心を、俺は押し殺した。


「ふむ、まだ餌に調整が必要なようだ」
 ヒュプノスは糸を巻き上げながら呟く。いつのまに来ていたのかタナトスがその隣で呆れたように零す。
「この聖戦の支度で忙しいときに、釣りとは暢気だな」
「支度はお前がつつがなく進めているだろう?それに、これは遊びではない。一応仕事の一環だ」
「そうは見えなかったが」
「黄金の光をひとつ釣り上げようかと…だがまあいい、既にもうひとつは堕ちているのだし」
 呟くヒュプノスへ、タナトスは勝手にしろとばかり背を向けて歩いていってしまった。その背へ視線を向けてタナトスはこそりと零す。
「光の代わりに、お前が釣れた」
 繰り糸をしまうと、ヒュプノスはタナトスを追いかけて歩き出した。

2009/11/2

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