お前の修行地を見てみたい。
そう彼の人が言い出したので、拒む理由もなくピレネー山脈へと連れ出した。西部はなだらかな山あいが続くが、東に進むにつれて険しい山岳が空に迫る。
もっとも、スターヒルでさえ軽々と登る彼の人…サガにとっては、この程度の急斜も足の負担にはならないだろう。無論、俺にとっても。
この辺りは俺の庭のようなものだ。目を瞑っていても進むことが出来る。切り立った岩場に慣れている自分だからこそ、かつてアイオロス相手に、あの危険な岩山の合間を追い抜くことが出来たのだ。
長い間放置され、草生した小屋へとサガを案内すると、埃も気にせず彼は椅子へ腰を下ろした。その椅子も折れそうなほど古びていて、前もって新しいものを用意しておくのだったと頭の隅で少しだけ悔やむ。
人里遠くはなれたその小屋は、昔と変わらずしんと静まりかえっていた。
星を見たい。
次にサガはそんな事を言い出した。
ならばスターヒルへ戻りましょうかと問うと、この地で星を見たいのだと言う。
高地ピレネーで見る星空もそれは絶品だ。あの星の海は、確かに彼へ見せたい。
ならば夜まで過ごすこの小屋を片付けねばと思い、俺は彼を座らせたまま、部屋の中を整え始めた。
元々何もない部屋のこと、掃除は楽だった。サガは手伝うでもなく、じっと物思いにふけっている。
簡単に綺麗になってしまったため、持て余した時間で小屋の修繕をした。残されていた生活用具で、椅子まで作る事が出来た(厚板に脚をつけただけの簡単な椅子だが)。
サガに新しい椅子を勧めると、彼は当然のように腰を移した。
夜になって見上げた空は、天蓋一面の輝きを見せ、星読みの得意なサガは目をきらきらさせていた。
闇をうつしたようなサガの黒髪が、星明りの元で静かに揺れている。
ずっと寡黙だったサガが、ようやく声を発した。
「此処で暮らしたい」
目を丸くしている俺に、黒サガはもう1度声を発した。
「手伝ってくれるな、シュラ?」
それは脱走罪になるのではないかとか、拒否権は無いのかとか、いろんな想いが脳裏を駆け巡ったが、俺に出来たのは『判りました』と返事をすることだけだった。
2009/5/9
◆2日目
次の日は少しだけ忙しかった。
まずは二人で暮らしていくために必要なものを、麓の町まで買いに降りる。
昨晩の寒さを思い出し、「敷布はともかく掛け布は必要ですから、最初に布団を買いましょう」というと、サガは呆れたように「かさばる荷物は最後に買うものだ」と言い返してきた。
サガにそういった生活感があることに驚いたが、心を読まれたのか「私を何だと思っている」と睨まれる。
しかし、何となくサガは霞を食って生きているような印象があるのだ。
13年もの間、共に過ごしてきたにも関わらず、互いの生活を覗いた事は殆どない。そもそも、偽教皇として過ごしていたサガには、生活というもの自体が存在しなかったのではないか。シオンとして暮らし、シオンとして聖域を改革していくだけの毎日。私生活を楽しんでいる姿など見た事が無い。彼の全ては、聖域を強化し、その覇権を世界へ根付かせる為にあったと言っても良い。
サガは俺の顔を見て、「私を何だと思っている」とまた呟いた。
それにしても昨晩の寝床は狭かったと思う。少年の頃には充分すぎるスペースだと感じられていた寝台も、いい年をした青年二人を収めるには限度がある。あの寝台は作り直そう。幸い小屋には生活工具は残されているし、錆びた刃物は磨けばまだ使える。
そう話したら、「寝台に使った余り木で、棚や皿を削れるな」とサガは頷いた。
その日購入したのは、鍋が1つと二組のカップ、日持ちする野菜、何種類かの大きな布、そしてつがいの山羊になった。白と黒の二匹の山羊は、身体も大きく丈夫そうで、何より乳を沢山出すと市場の親父が太鼓判を押した。
山羊が山羊を飼うのかとサガは笑ったが、高地で飼うのならば牛よりも山羊がいい。乳はそのまま飲んでも良いし、チーズにもバターにも出来る(山羊乳は牛乳よりも脂肪球が少ないのでクリームへの分離が大変なのだ。加工のために分離機も買おうと後で思った)。
帰りは俺が大半の荷物を持ち、サガは山羊を追いながら付いてくる。
山羊飼いの真似事など初めての筈なのに、妙に家畜さばきが上手いと思っていたが、よく見ると、山羊が道を外れそうになった時には念動力で強引に軌道修正させているだけだった。
超能力を日常生活に使うという発想のなかった俺がそこでも驚いていると、サガは「慣れたらきちんと追い方を覚える」と多少バツが悪そうに、それでもツンと澄まして答えた。
急斜を歩き、道ならぬ岩場を伝うときには、二匹の山羊を念動力で運び上げあげていく。瞬間移動すれば早いのではないかと途中で気づいたが、なんとなくこの時間を失いたくなくて、そのことは黙っていた。
小屋からわずかに離れた山あいの中には、ほんの少しの平地がある。そこを耕し畑を作れば、二人分くらいの野菜は賄えるだろう。夕方までに山羊の為の柵を作り、サガには鳥でもウサギでも捕まえて来てもらえば、今日買ったばかりの鍋で立派な夕餉を用意できる。自活には慣れているので、今更困る事は無い。
そうだ、綺麗好きのサガの為にサボン草も採ってこよう。確か西の草原の方に生えていたはずだ。
聖域外で修行する聖闘士は、食住に関してほぼ自給自足だった。衣に関しても、聖域から支給されるものを使うか、師匠に手渡される僅かな給付金で揃える事が出来る。その給付金とて、自給にかまけて肝心の修行が疎かにならぬための支度金だ。贅沢する気がないのだから、寝るところさえ確保できれば、あとはどうにでもなるものだ。
聖域を離れたいま、給付金は期待できぬものの、暮らしていくのに困らぬ程度の蓄えはあり、昔と違って修行の為に一日の大半を費やさずともすむ。
自分の生活のために時間を使うことが出来る暮らしというのは、なんと恵まれたことだろう。
俺はサガを見た。サガは相変わらず、適当に山羊を追っていた。
この時間は夢のように恵まれいる。
けれども、星をも砕く彼の人の力が、こんなところで山羊追いなどにしか使われないのは、才能の無駄遣いではないか…と、どこかで少しだけ思った。
2009/5/11-13
◆3日目
三日目に、カノンが山小屋を訪れた
サガは昼食に使う水を汲みに離れた水場まで出かけていて、ちょうど留守の時だった。
「聖域から脱走したんだって?」
汗一つ無く高地を登ってきたカノンは、来るなりそんな事を言って、他人事のように笑っている。
そのようなつもりはないと説明しつつも、情報の速さに内心舌を巻いた。
カノンは現在、黄金聖闘士としての地位も持っているが、実質は海界を束ねるシードラゴンである。
生活拠点を海界としているはずの彼が、これほどまでに聖域の内情に敏いのは如何なものかと思う。
しかし、そう告げると
「相変わらずお前は真面目だな。だからあのアホ兄貴に振り回されるんだよ」
などと呆れたように言われた。今の話とどう関係があるというのだ。
「そもそも、どうしてこんな事になっているんだ?」
と聞いてくるので、事の流れを正直に話すと、カノンはますます呆れた顔になり、それから苦笑した。
「そうか、あの馬鹿が、自分から聖域を出たいと言ったのか」
「いや、俺の修行地を見たいと言っただけだが…」
反駁するも、カノンは長い髪をくしゃりとかき回し、トントンと足先で地面を鳴らしている。
どうにも落ち着かぬ内面を、抑えているように見えた。
「サガは昔から『何かをしたい』とは言わない奴だった。何かを望んだときには、もうそれはアイツにとって『実現すべく行動するもの』なのだ。まさに不言実行というのか?弟のオレにすら、自分の望みを明らかにしようとはしなかったのだぞ」
俺は黙って話を聞いていた。声も形もサガと同じ双子の弟は、まるで性格は異なるように見えながら、時折妙に仕草が重なっている。
「サガの奴、お前のことは頼みにしているようだな」
カノンはじっと俺の顔を見た。
カノンの言う不言実行の光のサガと、俺を振り回す闇のサガでは内実も異なるだろうし、頼みと言うのであれば、カノンの方が余程信を置かれているではないかと思うのだが、言い返しかけて何となくやめた。
サガが弟を巻き込まないのは、カノンには海界での責があるからだ。いきなりこのように気まぐれな隠遁生活を迫られたところで、カノンが困るのは目に見えている。それをわざわざ声にするのは詮無きこと。
カノンもその遠慮には気づいていて、だからこそ愚痴めいた言葉になっているのだ。
(本当は、カノンにこそ我侭を言いたかったのだろうに)
それが出来ないから、手軽な駒…後輩の俺を捕まえて、代わりの気晴らしをしているに違いない。
半年もすれば、きっとサガもこの生活に飽きると俺はふんでいる。このような鄙びた場所は、世界をも統べていた彼にとって、退屈しか生まぬ筈だった。
「そのサガだが、もう少しすれば此処へ戻ると思う」
答えることから逃げた俺に、カノンは気づかぬフリをしてくれた。
「いや、顔を見に来たわけではない」
茶を出す間もなく、もう帰るという。ならば一体何をしに来たというのか。
「愚兄が面倒をかけるが、宜しく頼む」
そうしてカノンは、本当に直ぐに帰っていった。
暫くして戻ってきたサガへ、カノンの来訪を伝えると「そうか」とだけ返ってきた。
何も問わぬ彼らの繋がりを、少しだけ羨ましいと感じる。
ささやかな昼食を摂り、午後は山羊の小屋をつくるための材木を切り出しに行こうと二人で決めた。
2009/5/13
◆4日目
今日は畑を作る事にした。山草やハーブは天然のもので賄えるが、それでもこの地では限りがある。しっかりとした野菜は街へ買いに下りるつもりでいるので、適当な副菜となり、苗を植えれば勝手に育つような、簡単で丈夫な作物がいい。
修行時代に畑として利用していた土地を見に行くと、当時の面影はほとんどなく、低木も生え放題ですっかり野原の一部と化していた。この険しい高地で、わずかな平地に草木が密集するのは当然のことだ。
サガがこちらを向いてぼそりと呟いた。
「お前のエクスカリバーで斬り払えるか?」
「それは出来ますが、結局は根を掘り起こす羽目になるかと」
「地面もお前の聖剣で耕せば…」
「無理です」
エクスカリバーでは鋭すぎる。いかな名剣であろうとも、剣では土を耕せはしないのだ。アイオリアの光速拳のごとく、1秒間に100回でも繰り出せば、みじん斬りの土壌にはなるかもしれないが、土の中のミミズやモグラも全滅だろう。
黒サガは肩をすくめて自分の手を見ている。
「ギャラクシアンエクスプロージョンで掘り起こしてみたいが」
「ただでさえ土壌が薄く、適合作地が少ないのですから、それを吹っ飛ばすような真似は止めてください」
俺は慌てた。この人は土を耕した事がないのか。
「すると、やはり自分の手で行うしかないのだな」
サガはしようが無いといった面持ちで、しかしどこか楽しそうにしている。
この作地面積であれば、人の手でもって土を整えるのが、結局は1番効率が良いのだ。
面倒とはいえ、黄金聖闘士の体力があれば、常人よりも時間はかからない。
「我らの技も、生活の役にはまるで立たん」
「当たり前でしょう」
聖闘士の技は、闘う為に磨かれたのであって、生活の為にあるのではない。
平時には使う必要もないし、乱用すべきでもない。
風が吹いた。サガの黒髪が靡いて広がる。
「生きた武器としての我らに、平時を生きよと命ずるのは、剣で畑を耕せと命ずるようなものではないのか」
ぽつりと聞こえてきたサガの声は平坦で、感情が読み取れなかった。
俺が黙っていると、サガは手に持った鉈で近くの藪を払い始めた。
確かに、物凄く似合わない姿だと思った。
「だが、生きる為に身体を動かす事は楽しいとも思うのだ、シュラ」
続けられた言葉で我に返った俺は、サガを手伝うべく鍬を手にする。
作業の合間に食べたパンとミルクだけの弁当は、とても美味かった。
サガはといえば、神の造形たるその身体を土で汚し、額にはうっすらと汗を滲ませている。
やっぱり似合わぬことこの上ないと思ったが、オレはこのサガの姿を絶対に忘れまいと思った。
この日は耕地を整えるだけで終わったものの、通常であれは数日を要すであろう作地を1日で終えられるのだから、聖闘士という武器も、農具に負けたものでは無いと俺は思うのだ。
2009/7/1
◆5日目
山の朝は早い。肌寒いほどの清廉な大気が空を覆う。生まれ育った場所であるからかもしれないが、ピレネーの気候はとても馴染む。
大きな甕に蓄えた水をひしゃくですくい、真鍮の盥に移し変えて顔を洗う。サガは先に起き出していて、山羊小屋へ行こうと俺を誘った。山羊の乳は多少癖があるものの、サガの舌にはあったようで、このところ朝の日課は乳搾りだ。
二人で柵と屋根だけの簡単な山羊小屋へ向かう。簡素な作りだが頑丈に建てたため(聖闘士レベルでいう『頑丈』は、殆ど堅牢レベルだ)、いまのところ山羊は逃げ出す事もなく大人しく暮らしている。
その山羊の声が近くに聞こえてくると、サガの足が一瞬止まった。
理由はすぐに判った。小屋の方から覚えのある小宇宙が感じとれるのだ。
隠すつもりもないのであろう、凛とした気配。俺は息を付いた。この小宇宙はムウだ。
彼が、カノンと同じ理由でこの地を訪れたとは考えにくい。ムウはサガの被害者の一人なのである。おそらく聖域の使者として、アイオロスに命じられて言伝を運びに訪れたのだろう。
勝手に聖域を出たまま戻らぬ黄金聖闘士を、教皇がそのままに置くわけが無く、ましてサガも俺もかつての反逆者なのだ。教皇アイオロスは前教皇のシオンよりも温厚であるとはいえ、規律には厳しい。
それでもサガは顔色を変えず、またゆっくりと歩き出した。山羊は空気も読まずにメエメエ鳴き続けている。
家畜の臭いが届くほどの距離までくると、柵の隙間から山羊へ草を与えていたムウがこちらを振り向いた。
「私は、貴方がたがどこで生きようが、放っておけばよいと言ったのですがね」
アリエスの第一声は、挨拶もなく切り出された。
「あの人も、双子座と山羊座のこととなると、少し冷静ではなくなるように思います」
あの人というのは、教皇アイオロスのことだろう。
糾弾ではないムウの言葉が、俺は意外だった。
ムウは『貴方がたがどこで生きようが』と言った。『どこへ逃げようが』ではなく。
「脱走と言わないのか」
思わず零すと、ムウは呆れたような顔をした。
「それを私に問うのですか。13年前に聖域に残ることなくジャミールへ引いた私へ」
そうは言うが、あの時にムウが逃げたのだとは、サガも自分も思っていない。幼少ながら、ムウの判断は正しかった。あれと同列に語ってよいものなのだろうか。
ムウは繰り返した。
「女神への忠誠が変わらぬのであれば、どこで暮らそうが問題ないと私は思うのです。ですが、手順を無視すると兵士たちに示しがつきませんからね。まあ、貴方の召集を無視し続けた私の言えたセリフではないのですが」
本当にどうでも良さそうにムウは言う。
サガが眉を顰め呟いた。
「お前が何を伝えたいのか判らぬ、アリエス」
「いいえ、判っているのでしょう?サガ」
ムウは初めて笑った。低く、唸るように。
「貴方がどこで何をしようが、私には全くどうでもよいことなのです。ただ、あんまりアイオロスが気の毒になったから、使者を引き受けました」
「何が気の毒なものか」
「サガ、アイオロスは一人で頑張っていますよ」
「一人ではあるまい。最初から女神と聖闘士の支持のある英雄教皇に、いかほどの苦労が?」
「サガ!」
傲慢に答えるサガを、俺は流石に横からたしなめた。それはサガが言ってよい言葉ではない。
サガはちらりと俺に不満そうな視線を向けるも、自省するところはあるのか、それ以上の言葉は控えられる。ムウは目をぱちりとさせてサガと俺の顔を見比べ、それから何故か溜息をついた。
「どうも、本気でアイオロスは気の毒なようですね…。せめて、同じ黄金聖闘士仲間として、彼の施政を手伝ってあげたらどうなのです。ねえシュラ」
矛先を変えられて、俺は言葉に詰まる。勿論アイオロスの支えにはなるつもりでいる。しかし、戦闘以外知らぬ自分が、今の聖域で一体どんな役に立てるというのだろうか。
困っていると、サガが俺の代わりに言葉を返した。
「聖域には元反逆者の影などないほうが、むしろ上手くゆく」
それもある意味、事実だろう。特にサガには信奉者も多い。サガが聖域にいるだけで、教皇へ対抗せんとする勢力の御輿にもなりかねないのだ。
ムウはその言葉をも軽く切り捨てた。
「そんなものを力で抑えられずして、何のための教皇ですか。無用の心配でしょう。言い訳は結構、アイオロスからの伝言を伝えますよ」
「…」
「『まだ君たちの力を借りたい』だそうです」
俺は隣のサガの顔を見た。サガは険しい顔をして、地面をじっとみている。
(この人は、聖域と女神とアイオロスのものなのだ)
その時初めて、俺はサガを縛る鎖に気が付いた。蘇生を受けてからこのかた、女神に刃を向けた者も全てを許され、物理的な束縛などはなにもない。
だからこそ、もっと深い部分で、サガは捕らえられてしまったのだ。
贖罪を望んでいる筈のサガが、何故聖域を出ようと思い立ったのか、今になって理解する。
そして、何故もうひとりのサガが、決して現れなくなってしまったのかも。
無限の許しが、サガを殺す。
無限の許しの等価となるのは、無限の償いだけだからだ。
「サガ、貴方はアイオロスを拒絶するのですか?」
ムウが静かに尋ねる。
しかし、口調とは裏腹に、サガを見つめるその視線には、多分に憐憫が篭められていた。
「おそらく明日には、アイオロス自身がここへ着ます。それまでに考えておいた方がいいですよ」
”何を”とまでは、ムウは言わなかった。
サガはまるで死刑宣告をうけたかのように、目を閉ざしていた。
2009/7/1
◆6日目
翌日、本当にアイオロスはやってきた。
雑兵と変わらぬ訓練着姿で、何も知らぬ者がその姿を見たならば、とても教皇だとは思わないだろう。
聖域の要である彼がたった一人でこのような場所まで来るために、しきたりやスケジュールの上でかなりの無茶をしたであろうことは想像に難くない。
彼は遠慮がちに小屋の扉をたたき、紅眼のサガが無表情に扉を開けた。まるで立場が逆転しているかのようだ。アイオロスがにこりと微笑みかけても、サガは視線で”入れ”と指し示すのみだった。きれいに表情を消した顔には、かつての憎しみも羨望も見えない。
感情を押し殺した能面のような顔を改めて見ると、なるほどもうひとりのサガと同じつくりをしているのだなと気づかされる。こちらのサガは本心を隠しても感情を表さぬ事など今までなかったので、それほど似ているとは思っていなかったのだが、静かに伏せられた睫毛の長さなどに気づくと、この人は美しいひとなのだと実感する。
「ここは、いい所だな」
それがアイオロスの第一声だった。穏やかな低い声が、狭い小屋の中に染みこむ。
そして彼はぐるりと部屋の中を見回した。
簡素なテーブル。二人分の椅子。壁から下がるのは乾燥ハーブとにんにく位で、余分なものは何一つ無い。生活感しかない小さな小屋。
サガはそっぽを向いている。
「なるほど、これは私が君たちに与える事の出来ないものだ」
どこか寂しそうな顔でアイオロスが言う。
「教皇である私が、黄金聖闘士である君たちに差し出せるのは、血と栄光だけ」
「聖闘士に、他のものは必要あるまい」
視線を合わさぬまま、サガが呟いた。
サガとアイオロスは、時折余人の計り知れぬ何かを共有しているのではないかと感じる。アイオロスに反発している黒髪のサガの方ですらも。誰も入り込めぬ至高の領域を、俺は外から眺めているしかない。この二人はどうしようもなく生粋の聖闘士で、それ以外の生き方など出来ないに違いない。
俺は少しだけ、サガをこんな処へ連れてきた事を後悔した。
「ジェミニのサガ、そしてカプリコーンのシュラ。聖域へ帰って来い」
はっきりと、アイオロスが畏れていた言葉を形にする。それは依願ではなく、命令だった。
サガがようやくアイオロスに視線を向ける。そして何故か、俺にもその紅い眼をチラリと向けた。
その瞳の奥に、何か言いようの無い熾火を感じたが、それが何かは判らなかった。
「黄金の弓矢を持ちながら、聖剣まで欲するとは、贅沢な奴だ」
口元だけで、サガが哂う。
「私が望むのではない。もともと我らは女神の懐刀。十二のうち一つでも欠けさせるわけにはいかない」
「なるほど。この命我が物に非ず…か。蘇生された時点で覚悟はしていたがな」
サガは肩にかかっていた黒髪を面倒くさそうに払いあげている。その仕草も優美なもので、このような時にも関わらず、俺はその指先を思わず追っていた。
「シュラ、お前は女神のものか?」
唐突にサガが俺に尋ねた。
「はい」
何故そのような当たり前のことを今さら確認されたのか判らなかったが、答えるまでもなく今の俺の忠誠は女神のものだ。もう節を曲げるつもりは無い。
その返答を聞いたサガは、ふっと口元に笑みを浮かべた。
「ならば、仕方が無い。借り物は返さねば」
「サガ?」
その途端、ザ…とサガの髪がざわめき、先端から漆黒が抜けはじめた。
驚いて再び名を呼ぶも、サガはもう俺にも振り向かなかった。
「この数日、なかなか楽しい茶番だった」
茶番というのは、ここでの暮らしのことだろうか。不意に頭を鈍器で殴られたような気がした。
サガは真っ直ぐにアイオロスを見ている。
「山羊座と双子座を、貴様に託す」
「有難う、サガ」
アイオロスもまた真っ直ぐにサガを見た。
ざわりと胸の中を焦燥が走る。これでいいのだろうか。カノンは俺に「宜しく頼む」と言っていたのではなかったか。しかし、それは聖闘士として間違った事ではないのか。
聖闘士として
はっと俺は気づいた。このまま黒のサガは消える気だ。それは確信に近かった。
慌ててサガを背中から抱きとめる。サガの髪からはほとんど黒が消えていて、絹糸のような銀糸が煌いていたが、構わず俺は叫んだ。
「山羊座と双子座はお返ししますが、サガは返しません!」
自分でも血迷ったとしか思えぬ台詞だ。アイオロスはびっくりしているが、俺とて出てきた言葉に自分で驚いた。
「す、すくなくとも、こちらのサガは、返しません。人としての暮らしを、茶番なんて言っているうちは、返せません」
教皇に、いや、かつて殺した先輩聖闘士に、こんな言い分で反駁するなど、図々しいにも程があるというのは判っている。黒のサガこそ贖罪の義務があることも判っている。
だが、消えることがその方法だとは思わない。
彼に償わせるためにも、本当の意味で両方のサガを女神の聖闘士とするためにも、まず人としての生き方を先に教えなければならないのではないだろうか。
そんな想いが、一瞬の電撃のように脳裏を走り抜けた。
背中を抱きしめているので、サガの表情は見えない。
しかし、彼の右手が動いて俺の腕に触れた。ああ、間に合ったのだ。
呆気にとられていた様子のアイオロスが、しばらくの後、苦笑する。
「…教皇になんて、選ばれるもんじゃないよなあ」
とても聖域の神官たちには聞かせられない言葉を聞いたような気がするものの、アイオロスは直ぐにいつもの大らかな笑顔を取り戻した。神のような笑顔というのは、こういうのをこそ指すのではないだろうか。
俺がサガから身体を離すと、アイオロスが代わりにゆっくりとサガへ手を伸ばした。
「しょうがない。ここを拠点のひとつとすることを、教皇として許す。でも今日は一緒に聖域に来てもらうよ。教皇としての面子もあるし、今後の打ち合わせもあるからね」
ね?とアイオロスが引き寄せ覗き込んだサガの瞳は、もう空の蒼だった。その瞳が震え、困ったように俯いている。
もうひとりのサガが教皇の胸に抱きとめられるのを、俺は不思議と落ち着いた心境で眺める事が出来た。
このあとは聖域で面倒な手続きを済ませて、引退したシオン様にもたっぷり怒られて、これからの勤務形態の変更について打ち合わせることになるのだろう。忙しい1日になりそうな気がする。それでも二人で創りあげたこの小さな世界を続けていくことが出来るのなら安いものだ。
明日は7日目だ。安息日くらいはサガを休ませてあげようと俺は思った。
2009/12/16
島/谷ひとみの「市場へ行こう」という曲から生まれたお話だったので、最初は黒サガが壊れておしまいの予定だったのですが、どうしても黒サガとシュラには普通の暮らしを続けて欲しかったので、アイオロスとシェアするお話になりました。
人間のささやかな営みを、大事なものなのだと黒サガが実感するようになる頃には、彼にも反省の気持ちが生まれてくれないかな…とか妄想しています。