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◆モルペウスの芥子
※この話にはロストキャンバス設定・エピG設定が含まれています

変革


 夢界は眠りの神であるヒュプノスが管轄する世界だ。
 そこは断絶された空間であり、女神といえど入り込むことは容易ではない。
 …目覚めた状態のままであれば。

 眠りに落ちた者は、当然のことながら夢の中へと入ることになる。
 その中には強い意志をもって、夢神達の管理する最深部まで飛来する魂もあった。
 大抵はヒュプノスの部下の仕掛けた罠によって排除されるのだが、今日は違った。
 その魂は厳重な警戒網など意に介しもせず、風に漂う黒蝶のごとくふわりと夢の底へと降り立った。途端、それは人の形となる。
 真紅の虹彩に艶やかな黒髪を持つ彼は、人ならぬナイトメアのようだった。

 『ヒュプノス、いるか』
 彼は臆しもせず、畏れ敬うべき神の名を呼んだ。
 この界を支配する神に対して傲慢な振る舞いをする者は、夢から叩き出されても文句は言えない。
 だが、眠りの神は静かに呼び出しに答えた。
 男の目の前の空間が開かれ、その空間の向こうに、来客用の小さな部屋が現れる。
 空間に、柔らかな神の声が響いた。
「双子座の影とは…珍しい客がきたものだ。入れ」
 影と呼ばれた存在は、不機嫌そうに眉を顰めながら、その部屋へと足を踏み入れた。

 その部屋は、狭いながらも品の良い調度が揃えられていた。
 奥の長椅子で書物に目を通していたヒュプノスが、その頁に栞を挟み顔を上げる。
「ここまで辿りつける人間はそうおらぬが、お前は夢の住人であるともいえる…夢界とは相性が良いのかもしれんな」
『御託は良い、此処へきたのはお前に用があるからだ』
 黒サガと同じ顔をした男は、ヒュプノスへ近づくと睨むように見下ろした。
「ほう、サガの欠片にすぎんお前が、私に?」
 ヒュプノスはゆるやかに笑み、その姿を見上げる。
「用とやらを、言ってみるがいい」
 それは、十二宮での戦いのおり、女神の盾の光によってサガの身体から弾き出された存在の一部だった。クロノスの影響を色濃く受け、黒のサガともまた異なる悪意の魂。神のようなと讃えられた、サガのいびつな似姿。
 その邪気と闇を纏わせた波動に、ヒュプノスがまったく影響されることがないのは、強大な小宇宙を内包する神ならではだ。もっともヒュプノスの方は、心の切れ端にすぎぬ存在を、自身の統括する界で抑えることなど簡単だと考えている。

 悪意の存在は、ヒュプノスに告げた。
『お前の界に咲く、芥子の花が欲しい』
 さまざまな感情を、咲いた花と色の数だけ奪うモルペウスの花。
 それを植えつけられた者は、怒りを忘れ、愛を失い、無気力な抜け殻と化す。
『種まで寄越せとは言わぬ。切花の数本もあれば良い』
 あくまで倣岸に言い放つ黒サガの面差しだったが、その凶眼には狂気と呼べるほどの渇望が浮かんでいる。
「誰に使う?アテナとの盟約のある今、地上の者へそれを使う手助けをするのは、憚られるが」
 答えるヒュプノスの語調は咎めるようでいて、どこか面白がっている口ぶりだった。
 ヒュプノスの目の前で、闇の欠片は答えた。
『地上のわたしに』
 他者へ使用することは許されずとも、望む者へ願いどおりの品を与えるのは、盟約に反しない。
 その言葉を聞いた眠りの神は、底意地の悪い笑みを浮かべながら立ち上がり、書物を置くと右手を一閃させた。手のひらを空に向けると、どこからかハラハラと芥子の花が降ってくる。
 1つ、2つ…5つ、6つ、7つ。
 指の間から零れんばかりにその芥子の花を掴み、ヒュプノスは命じた。
「跪け、サガを模ったツクリモノよ。神にモノを請う時には、それなりの礼を持つものだ」
 サガの姿をした悪意は、ギラギラとその眼に憎しみを浮かばせつつも、己の欲望を叶える一時のみ、目の前の神に頭を垂れるつもりになったようだ。明らかに恭順の意のないそぶりで、ぞんざいに膝をつく。
 その頭上へ、ヒュプノスは自らの手から花を降らせた。
 芥子の花が1つずつ彼の中へ融けて消えていく。
 そのたびに黒髪は色を薄め、最後には輝かんばかりの銀色へと変わっていった。
「離れているとはいえ、お前はサガと繋がっている」
 優しくともとれる声で、眠りの神は問う。
「お前の消したい感情とは、何か」
 サガの似姿は答えた。
『わたしに入り込む、鬱陶しい他者への想いだ』



 その変化はひっそりと、だが確実にサガへと訪れた。
 最初に気づいたのは同じ宮へ住まう双子の弟のカノンだった。
 常であれば、口幅ったいほどカノンの不摂生や素行の悪さに口を出してくるはずの兄が、何も言わない。
 最初はとうとう怒ったのか、諦めたのかとも思ったのだが、サガの不干渉はそれに留まらなかった。
 宮で顔を合わせることがあっても、言葉を交わすこともない。ただ空気のようにすれ違う。
 声をかければ返事はするものの、それだけだ。
 以前であればカノンが海界から戻った時には用意されていた食事も
『無理に宮へ戻らずとも、遅くなる前にどこかで好きなものを食べてくると良い』
 という一言で出されなくなった。
「言いたいことがあるのなら、こんな陰湿なやり方ではなく直接言え!」
 とうとうキレたカノンが怒鳴るも、不思議そうな視線をむけるだけのサガに、カノンは打ちのめされた。
「もういい年なのだから、互いの生活を尊重するべきだと思うが?」
 サガのそれは、無関心という言葉がまさにぴったりだった。

 その無関心は、カノンだけではなく、近しかった周囲の人間にも向けられた。
 アイオロスに対しても、シュラに対しても、サガは単なる同僚としての態度を崩さなくなり、その宮を訪れる事もなくなった。
 何よりも顕著だったのは、女神に対してだった。
 変わらず礼を尽くすものの、かつて刃を向けたほどの愛と情熱とが、サガの中から消えていた。
 そして、それとともにサガは双子座の聖衣を纏えなくなっていた。
 そうなると、元反逆者であるサガが聖域の十二宮に住まう必然性も無くなって来る。
「役に立たぬわたしが、ここに居ても仕方が無いな」
 今のサガは、聖闘士であることにも、それほど拘っていないように見える。
 その言葉に激高したアイオロスが思わず殴りつけても、サガは何の感情も返さなかった。

 ここに到り、ようやく皆は、サガの変貌がどこか尋常ではない事に気づいたのだった。

(−2007/3/28−)

変容


 聖域を離れたサガは、ロドリオ村の外れにある小さな小屋で暮らし始めた。
 まがりなりにも黄金聖闘士だ。その地位にふさわしいだけの蓄えはあり、つつましやかに生活していく分には当面困らない。
 村の人々は親切で、ときおり野菜や卵などを差し入れてくれた。サガは代わりに力仕事や頭脳労働で返礼をする。小宇宙自体を無くしたわけではないので人智を超えた働きも可能である。サガの能力は不便な田舎暮らしの人々にとても重宝されていた。
 もてはやされたのは能力だけではない。サガは誰にでも優しい。英知に優れ、他者を魅了せずにはおかぬ容姿を持ち、それでいて奢ることなく労を惜しまない奉仕の姿勢。
 そんな立ち振る舞いが、人々の敬愛を集ぬはずはない。
 彼にかつてのごとく『神のような』という形容詞が冠されるまで、そう時間はかからなかった。

 今日もサガは村人たちに囲まれている。小高い丘からそれを見下ろしたカノンは、憚ることなく舌打ちした。視線の先にいる双子の兄と全く同じ容姿をもちながら、身にまとう雰囲気は全く異なっている。視線は鋭い刃のようで、全身から発せられる不機嫌オーラを隠そうともしていない。
「シードラゴン、技の範囲に入れるには、もう少し近づく必要があるんだが」
 隣からカーサが話しかけた。同僚の苛立ちは故意に無視している。請われて聖域近くまで出張してきたものの、彼からするとカノンの私事に付き合わされているわけで、遠慮する気は無い。
 もっとも、手助けをすることで貸しを作っておこうという腹はある。
 カノンの側もそういう計算には気づいていて、むしろそのような周到さは海界に必要な部分であると評価していた。
「駄目だ。あいつに気づかれずにすむ距離は、ここがギリギリだ」
「離れているとはいえ、目視できる距離じゃないですか。黄金聖闘士にしちゃ、意外と可認範囲が狭いっすね」
「阿呆。あいつ、オレ達の存在にはとっくに気づいてる。お前の技の発動に気づかれぬ範囲がここだという意味だ」
 空間認識能力の高い双子座が、この至近距離で半身に気づかぬはずがない。気づきながら、サガは何の反応もみせない。無視ともちがう。道端に転がる石と同じ扱いだ。まったく関係ないものとして、村人への対応を優先している。
(そんなことが、あるはずないのだ)
 自意識過剰と思われようが、カノンには断言できた。サガが己に対してここまで何の反応も見せないなどありえない。通常であれば、小宇宙通信など使わずともリンクできるはずの兄の意識にチャンネルが合わなくなっている。他人のように話しかけて、やっと返事がくる状態なんて、絶対におかしい。
 カノンは握る手の力を強めた。カーサがはぁ、と気の抜けた声を出す。
「今更ですけど、単に嫌われて冷たくされているってだけの話じゃ?海将軍が二人がかりでやるほどの事ですかね」
「サガがおかしくなっているというのは、オレだけの判断ではないぞ」
「聖域の判断も同じってことですか。つうかそれならコレ、思いっきり聖域サイドの仕事じゃないですか。海将軍に頼むなんてどういう神経ですよ」
「つべこべ言わずに力を貸せ」
「アンタ、昔からすげえ公私混同で海界を仕切ってますよね…」
 過去へのあてこすりを真っ向からぶつけるのはソレントと同じだが、カーサの場合は非難とは少し異なる。海将軍としては珍しく、カノンのかつての野望に対して客観的な視点をもち、遺恨なく流しているがゆえのツッコミだ。
 カノンも割り切っている。
「ボーナスは弾む」
「ハイハイ。で、どうやって?さっきも言ったが、距離がまだ足りない」
 ニヤリと笑ったあと、カーサが仕事モードの表情となった。
 おなじ精神攻撃技を持つ相手への精神内探査は難易度が高い。それは過去のフェニックスとの対戦を通して経験済だ。
「オレに小宇宙を同調させろ。お前の能力をサガへ届かせるのはオレがやる。オレならサガが地球の裏側にいようが、場所さえわかれば干渉できる」
「簡単に言ってくれますねェ」
 カーサはそう言いながらも慎重に小宇宙をカノンへと重ね始めた。リュムナデスの技は、相手の心のなかから最愛の人間を選択し、その人間に化けて攻撃を行うものだ。六感の支配をするだけでなく、技の精度を上げるために、実際の小宇宙や気配の加減も模倣する。
 それでも、模倣と同調は別物であり、楽な作業ではない。
 苦労して上乗せされたカーサの小宇宙とともに、カノンは己の小宇宙をサガへと飛ばした。自身の小宇宙もサガの小宇宙に擬態させる。そうしてカーサ単独では届かせ得なかったリュムナデスの技を、兄の心の中へ密かに忍び込ませる。
 同調のおかげで、カノンにもサガの心のなかが映像として伝わってきた。
「なんだ…こりゃ」
「これは…」
 カーサとカノンは同時に呟いた。
 そこに広がっていたのは、一面に小さな白い花の咲いた、美しい花畑だった。

「おかしいっすよ」
 酷く嫌なものをみたように、カーサが声を潜める。
「判ってる」
「人間の姿が出てこない。愛情にしろ憎しみにしろ、ヒトの形をなすほどの感情を向ける相手がいないってことだ。それも冷血ってわけじゃない。この花は万人に向けられた博愛を表してる。花に笑いかけるように、平等に誰にでも真っ白な愛を振り分けている。アンタの兄貴は人間か?」
 花以外には何もない。静かで明るく、怖いほどに平穏な空間。
 カノンの表情も険しい。
「…もっと深層を見たい」
「そうすね」
 別の景色を探して、二人はさらに心の最深部へと探索を広げることにした。
 サガの精神内で、異物としての二人の小宇宙は、擬似的に本体そのままのヒトの形をとっている。白い花を踏みしめながら、カノンとカーサは奥へ進んだ。
 けれども、思ったよりも、サガの心の中は狭く、不自然なほどすぐに意識の底へ行き着いてしまう。
 なんの面白みもない箱庭のようだ。
「シードラゴン、あれは」
 精神調査に優れたカーサが、何かを見つけて指し示した。
 指の先には、サガが横たわって眠っていた。敷き詰められた幾千もの小さな白い花は褥がわりなのだろうか。
 身体には何かの植物が網目のように絡みついている。その茎から場違いなほど大きな花が七つ、それぞれ異なる色彩で咲いていた。真っ白な世界に、そこだけ鮮やかな色彩が浮かび上がり、光を放っている。
「サガ!」
 気づかれてはならぬ探索であることも忘れ、カノンは思わず呼びかけた。
 大声であったにもかかわらず、サガは目覚めない。
「おい、しっかりしろ、起きろよ」
 駆け寄って無理矢理起こそうとしたカノンを、カーサが呼び止めた。
「シードラゴン、やばい」
「邪魔するな」
「そうじゃない。何かがいる」
 カーサの警告が終わる前に、カノンも『それ』の気配に気づいた。悪意の塊としか思えぬ歪んだ小宇宙に鳥肌がたつ。
 それはゆっくりと近づいてきて、二人の前で形を成した。
『わたしを産んだ大切な弟とはいえ、勝手に心へ侵入するとは、マナーに欠けているのではないか?』
 笑んでいるのに、空虚しか伝わってこない。
 闇そのものとしか思えぬ『それ』はサガと全く同じ姿をしていた。

(−2012/9/26−)
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