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◆強制レンタル
◆1

 教皇宮での仕事を終えて双児宮へ戻ってきたサガは、居住区エリアのリビングへ足を踏み入れたとたん、目を大きく見開いて立ち止まった。
 リビングには大きめのソファーと、それに合わせたデザインの脚の低いテーブルが中央に置かれている。そのソファーを、カノンとアスプロスが陣取っていたのだ。
 それだけならば特に驚くには当たらないのだが、我がもの顔で横たわる先代双子座アスプロスは、カノンの膝に頭を乗せていた。カノンはアスプロスの髪を撫で、時折ドライフルーツを摘んでは口元へ運んでやっている。アスプロスはパラパラと雑誌をめくっては流し読み、注意を引く記事があると指をとめてゆっくり目を通している。表紙を見ると自然科学関連の雑誌のようだ。
「喉が渇いた」
 雑誌に目を落としたままアスプロスが言うと、カノンが応じる。
「何が飲みたい?」
「珈琲を。酸味の強い奴がいい」
「ではキリマンジャロで」
 淀みなく会話が交わされ、カノンはそっとアスプロスの頭を下ろし台所へ去っていく。
 サガはまだ入り口に唖然と立ったままでいた。
「帰宅早々、何を呆けている」
 そんなサガへ、ようやくアスプロスが声を掛けた。
「カノンが…」
「ああ、お前の弟を借りているぞ」
 堂々と言われて、サガは自分が何に驚いたのか判らなくなり口ごもった。
 カノンが他人に膝を貸すなど、サガの中では天と地がひっくり返ってもありえないという印象だったのだが、それは単なる思い込みであったのかもしれず、同居人と仲がいいのは良いことだった。親密すぎるように見えたのも…知らないところで二人が仲良くなっていたことに驚いただけだと、サガは己を落ちつかせる。
 そうしているうちに、珈琲の香りが漂ってきた。カノンの淹れた珈琲はとても美味しい。中挽きの珈琲豆をペーパードリップに入れて、むらなく均等に熱湯を注ぐ、その加減が上手いのだ。
 すぐにカノンは珈琲カップを手にして戻ってきた。来客用にしまってあった、ウェッジウッドのセレスティアルゴールドだ。カノンは洗練された動作でそのカップをアスプロスの前へ置き、再びソファーへと腰を下ろす。
 サガはぱちぱちと目を瞬いた。
(カノンが、アスプロスの珈琲しか…わたしの分を持ってこなかった…)
 別に珈琲が飲みたいわけでもない。頼んだわけでもない。ただ、いつものカノンであれば、何も言わずとも飲み物を用意するときには、モノのついでだと素っ気無く振る舞いながら、サガの分を一緒に用意してくれたのだ。
 考えてみると、カノンはいつも仕事から帰ったサガには「おかえり」と声をかけてくれるし、夜食をどうするか聞いてきた。それなのに、今夜のカノンはサガよりもアスプロスを優先しているように見える。
 その事に気づいたサガは、自分が思った以上にムっとしたことに驚いた。これでは駄々をこねる子供のようだと思いながらも、その感情は収まることがない。
 サガの心情になどお構いなく、アスプロスは珈琲に口をつけ『まあまあだな』などと評している。アスプロスがカノンの肩に腕を回して引き寄せ、寄りかかるためのクッション代わりにているのを見て、サガの視線は無意識に非難がましいものになっていた。
 サガの視線がカノンに向けられると、それまでサガを気にも留めていないように見えていたカノンの表情が、少しだけ動く。
「サガ…」
 何かを言いたそうにしているのだが、その後の言葉が続けられることはない。アスプロスは悠然と珈琲を楽しんでいる。

 微妙な空気が流れているところへ、今度はデフテロスが帰ってきた。
「………」
 彼もまたサガと同じように入り口で立ち止まり、兄をじっと見る。アスプロスはデフテロスに対しては親密そうに笑いかけた。
「おかえり。お前にも飲み物を用意させようか?」
「……いらん」
 しかし、珍しくデフテロスは兄の申し出を断った。兄の言うことならば、何でもいつでも喜んで受け入れている彼にしては珍しい対応だった。どこか(これも非常に珍しいことに)声のトーンが冷たいようにも聞こえる。
 サガが会話に割り込んだ。
「待たないか。『用意をさせる』とはどういうことだ。カノンにさせるつもりか」
「お前の弟のほうが、俺よりは美味い飲み物を用意出来るからな」
「そういう問題ではない!カノンは小間使いではないのだ、自分で淹れれば良かろう!」
 サガとアスプロスが言い合っている間に、デフテロスはその横をすり抜けて台所へ向かう。そのまま台所で何かをしていると思ったら、ハーブティーの入ったカップを3つ銀盆へ乗せて戻ってきた。
 デフテロスはそれを黙ったまま、サガとカノンと自分の前に置く。
「飲むといい」
「…あ、ありがとう」
 サガは礼を言い、とりあえずそのカップを手に取った。アスプロスがショックを受けたような顔をしていたが、お互い様だとサガは思った。ハーブティーはレモンバームとミントのブレンドで、気の立ちかけていたサガの心を緩やかに溶かしていく。落ち着いてくると、カノンが何故アスプロスの言うことを聞いているのか疑念がわいてきた。カノンは良くも悪くも簡単に他人の言うことを聞くような性格ではない筈なのだ。
 地の底を這うほどの低い声で、ぼそりとデフテロスが呟く。
「兄さんは、身の回りの世話をするのが俺でなくても、いいのだな」
 ただでさえ微妙な空気であった部屋の温度が、一気に氷点下まで下がった。
 火の気質を持ち、溶岩まで操るデフテロスが作り出す氷点下の空気は、滅多にないことだけに重く、俺様なアスプロスも多少慌てているのが判る。
「そのような事はない。今日はお前が出かけていたゆえ、些事はこの者にさせようと思って」
「カノンの淹れた珈琲のほうが美味そうだしな」
「い、いや、俺はお前のハーブティーの方が…デフテロス、いったい何を怒っているのだ」
「怒ってなどおらん」
 そう言いながら、デフテロスはアスプロスと視線を合わせようとしない。立ったまま、自分の淹れてきたハーブティーを一気に飲み干している。アスプロスのほうは弟の機嫌をとるようにそれを見上げた。
「カノンに幻朧魔皇拳をかけたことが気に食わなかったのか?」
「なんだと!!!!?」
 とんでもない台詞を聞いて、それにはサガの方が反応した。
「今なんと言った」
「煩いな、先ほど言ったろう。雑用をさせようと思ったのだが『ものを頼むときには頭を下げろ』などと撥ね付けられたのだ。面倒ゆえ意思を奪った」
「貴様、そんな下らぬことでカノンに…」
 ガタンとサガは立ち上がった。ハーブティーで凪いだ気持ちなどいっぺんに吹き飛び、震えるほどの怒りがマグマのように煮えたぎっている。その場でアスプロスを殴りつけなかったのは私闘禁止の掟が科せられているからで、しかし、そんな抑制などすぐに弾けとびそうな状態でもあった。
 幻朧魔皇拳は、技をかけた者以外が解除しようとする場合、誰かが目の前で死なねばならない。サガは奥義の習得者であるものの、それでも強引にカノンの洗脳を解くのは危険が伴う。下手をするとカノンの精神に傷が付くことがあるからだ。
「今すぐカノンの洗脳を解け」
 そうでなければ殺すと言外に宣告するかのような、珍しく殺気まで漂わせたサガへ同調するように、デフテロスもまた冷たく言い放つ。
「俺は部屋へ戻らせてもらう」
「ま、まてデフテロス。カノンは自由にするから」
 あくまでサガの脅しではなく、デフテロスの言い分に動かされたと思われるアスプロスが、カノンの額に指をあてて幻朧魔皇拳を解除するも時は遅く、デフテロスはさっさと自室の方へと去って行く。
 その場には髪の色を黒くさせかけているサガと、まだ頭を振って意識を落ち着かせようとしているカノン、そしてデフテロスの去った方向をびっくりした様子で見送っているアスプロスが残されたのだった。

(−2011/1/16−)




「カノンに謝ってもらおう」
 みなぎる闘気を隠そうともせず(それはほとんど殺気といっても良かった)、サガがアスプロスへ言い放つ。だがアスプロスはどこ吹く風だ。
「何故お前が怒る。それに、それほど大したことは命令しておらん。いつもお前がさせているようなことではないか」
「わたしは、カノンに無理強いしたりしない」
「お前がそう思っているだけではないか?」
 そろそろ本気でサガの髪先が黒くなっている。ようやく正気を取り戻したカノンが、慌てて間にはいった。カノンとて怒りを覚えてはいたのだが、まさかサガが自分のことでここまで怒るとは思っておらず、驚きが先立ったあとは怒りを見せるタイミングを失ってしまっている状態だ。
「落ち着けサガ、今回のことはオレの失態だから」
 それはある意味本当のことだった。
 まさかあれほど下らない理由で奥義を放ってくるとは思わず、防御も忘れて、真面目に相手をするのもバカらしいと思うほどに一瞬呆れたのだ。そして実際に魔拳を食らってみて、捻じ曲げられた心で考えてみれば、アスプロスの面倒を見るのはなかなか楽しかった…サガが帰ってきて、傷ついたような視線を向けてくるまでは。
「考えてみれば、こいつはまだ現代に慣れていないのだ。勝手がわからず尋ねようにも、上から目線の言い方しか出来ない奴に、冷たい言い方で切り捨てたオレも大人気なかった」
 アスプロスの時代には、今よりも厳格な階級制度が敷かれていただろうし、各宮にも雑用を任される小者や従者がいただろう。宮のことはそういった人間や弟に一任していたであろうアスプロスが、現代の双児宮での雑務をどうしたものか考えて…とりあえず彼なりの解決方法がこういった手段だったのに違いない。
 カノンが大人の態度をとると、アスプロスが初めて気まずそうな顔をした。サガの方がまだ口をへの字にしている。珍しいことだとカノンは思った。サガをなだめるなど、まるでいつもとは立場が逆だ。
 だが、そこは流石にサガで、視線を伏せるとふっと闘気を消した。さすがに笑顔は見せぬものの、いつもの穏やかさを含ませた声で答える。
「カノンがそういうのならば、状況は酌量しよう。しかし、謝罪は当然だ…なによりこの男は、私情で双子座の奥義を使った」
「確かにな」
 アスプロスは同意して肩をすくめた。
「それについては反省している。デフテロスがあれほど怒るとは思わなかった。そういえば冥闘士となった折にギャラクシアンエクスプロージョンを使ったときにも、あれは怒っていた…デフテロスのほうが双子座としての自覚が深いらしい。軽々しく奥義を使用するものではないな」
「双子座の聖闘士として、二度とカノンに幻朧魔皇拳を使わぬと誓え」
「わかった、すまん」
 二人の兄の間で交わされる会話を聞いて、カノンは思わず口を挟んだ。
「いやまて、お前ら。違うだろう」
「「何が違うのだ」」
 見事に重なった声が返ってくる。
「サガは、こいつが双子座の奥義を悪用したから、あんなに怒ったのか?」
 そう尋ねると、サガは何か言いかけて黙り込んだ。視線を微妙にずらして合わせようとしないのは、カノンに対して何かを隠しているときのサガの癖だ。しかし、カノンがじっと辛抱強くサガの顔をみていると、観念したのかサガはぼそりと声を零れさせた。
「…1番腹が立ったのは、お前の意思が無視されたことだが…たぶん2番の理由は、お前のことを盗られた気がして悔しかったからだ…と思う。すまぬ、こんなつまらぬ醜い感情で怒るのは間違っていると思うのだが…それで建前を持ち出して、彼をなじった」
 恥じ入るようなその表情はまるでいつもの大人びたサガではなく、カノンはアスプロスへの怒りが微塵も残らず消えている自分に気が付いた。むしろ、こんなサガを見せてくれたことに感謝してもいいくらいだ。
 カノンはサガの頬を撫でてやり、アスプロスへ苦笑を向けた。
「お前の弟も、サガと同じだろうよ」
「俺はデフテロスに無理強いしたりせん」
 心外だと答えるアスプロスは、奇しくも先ほどのサガの台詞と同じ内容をなぞっている。
「いいや、お前はデフテロスの意思を無視した…そしてあの男は、自分以外の人間にお前をとられたと、やはり思っただろうな」
「そうだろうか」
 アスプロスの表情に、困惑の色が浮かぶ。良くも悪くも、この男の気持ちを動かせるのはデフテロスだけなのだろうとカノンは思った。
 アスプロスはその場で立ち上がった。そのまま何も言わず、無言で足早に立ち去っていく。向かったのはデフテロスの部屋よりほかない。あの兄のことだ。デフテロスがたとえ部屋前に迷宮を作ろうが、強引に部屋へ押し込んで上から目線の謝罪をくりだすに違いない。
 これから起こるであろう場面を想像して、カノンはおかしくなった。
 だがその笑いをサガは自分への嘲笑と受け止めたようだ。
「…わたしにも呆れたか?」
 消沈しながら問いかけるサガと反比例して、鼻歌をうたいたくなっている自分はゲンキンなものだとカノンは己にも苦笑する。しかし、それくらい喜んでもいいはずだ。
 かつて”双子座”がカノンの存在を秘していた頃、それゆえに『カノンがサガに対して独占欲を見せる』機会はあれども、『サガがカノンのことで独占欲を見せる』などという機会は全くなかった。だからカノンはサガにも人並みに独占欲があるという当たり前のことを知らなかったのだ。
 あの頃のサガには、そんな人間らしい感情なんてなくて、偽善者めいた理想の聖闘士様なのだと斜に決め付けていたが、何のことはない…そんな場面に巡り合う環境でなかったというだけではないか。
「ああ、お前はバカだなって思った。だけど、オレもバカだ」
 どんな小さな嫉妬や負の感情も、自分に許そうとしない厳しくも誇り高いサガは、その感情がカノンにとってどれほど嬉しいことなのか、多分まだ判っていない。
「なあ、お前にも膝枕をしてみたいんだけど、いいかな」
 そう伝えると、面白いくらいサガは動揺した顔をみせたあと、まるで決死の聖戦に望むかのような顔で真面目に頷いた。

(−2011/2/21−)