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過去の幽霊


「やめろ、アイオロス」

 毅然とした口調で言い放つも、サガのそれは実質的に懇願だった。
 後ろには冷たい石壁、逃げ場は無い。サガは背を壁に預け、それでも友の顔を真っ直ぐに見る。
 アイオロスは人好きのする笑顔でサガの顔の横へと片手をついた。

「やめる?どうして?」

 アイオロスは笑顔でサガを威圧する。太陽のような光でサガの抵抗を溶かす。わざとゆっくり顔を近づけ、唇が触れ合うほどの距離で、もう1度人馬宮の主は笑った。
 サガの表情が苦しげに歪んだ。彼の身体は既にぼろぼろだ。アイオロスの攻撃を避けもせず、ひたすら小宇宙で威力を削いでは受け止めたのだから、普通の人間であればとうに死んでいてもおかしくない。
 しかし、サガが顔を歪めたのは、身体のダメージによるものではなかった。
 アイオロス、とサガはまた呼んだ。

「私闘は禁じられている、から」
「だが君と俺は闘っていない。逃げもせずに攻撃を受け入れているということは、これは合意だよね?」

 アイオロスは指に小宇宙を集めた。決して己に拳を向けてこないサガのわき腹へ、その小宇宙を放つ。ごほ…という咳き込みとともに、サガの口から生暖かい血液がじわりと染み出した。内臓をやられたのだろう。口元を赤く湿らせたサガが、唇を噛みしめる。

「お前に、拳など 向けられるわけが、ない」
 その言葉を最後に、サガは音声による会話を手放した。アイオロスに喉を掴まれたためだ。
「抵抗しないと、殺してしまうよ」
 アイオロスはさらりと告げ、サガは小宇宙で応える。

『駄目だ。お前にそのような真似をさせるわけにもいかない』
「だから、どうして?」
『…お前は光だ。輝き続けろ』
「答えになってない、サガ」

 アイオロスは舌を伸ばして、サガの口元から垂れる血をざらりと舐め取った。
 しかし、直ぐに眉を顰める。ぺ、っと横を向いて口の中身を吐き出した。
「君の血なら甘いと思ったのに、鉄の味がする」
 思い通りにならなかったことで癇癪を起こす子供のように、アイオロスはサガの衣服を切り裂いた。
「血は苦くても、密なら甘いのかな」
 何の事か判らずに、虚の顔を見せていたサガは、アイオロスの手が下肢に触れたのを感じ、その意図を察して青ざめた。

『やめろ、アイオロス』
「君が答えをくれないうちは、やめない」

 アイオロスの声に、躊躇はなかった。小宇宙を篭めたままの指で、サガの中心を布越しになぞる。
 ひ、と上ずるようにサガの声があがったのは一瞬で、まるで時間をおかずサガの髪が黒く染まった。
 これほど簡単にもう一人のサガへと変化したのは初めてだろうと思われた。
 闇色の髪を持つサガは、紅い瞳でアイオロスを睨む。
 アイオロスは嬉しそうに手を離した。

「ああ、やっと出てきてくれた。あとどれくらいサガを傷つけなければいけないのかと、心配になっていたところだ」
『……何を考えている、サジタリアス』
「サガのことだけを。君の、君達の全てが欲しいと」
 そう告げるアイオロスは、本当に嬉しそうだった。

「将を射んとすれば馬からっていうよね。サガの中でも、君の方から手に入れれば、やりやすいかなって思うんだ」
『馬鹿なことを』
「今から君を貰う。嫌なら代わってもいいよ?今さっきまでの、君の大事なもう一人の方と」
 それは直球すぎる脅しだった。黒サガが黙る。

「抵抗しないのなら、これも合意だよね?」
 そっと囁いたアイオロスは、完全に捕食者の目で、黒サガは視線を合わせずただ瞳を閉ざした。
『…私が愛したサジタリアスは、お前のような男ではない』
 それだけ伝えると心も閉ざし、心話による意思疎通の手段すら手放す。
 サガはもう話さなかった。

「最後まで答えをくれない君が悪い」
 オレはただ知りたいだけなのに。
 アイオロスはそう言うと、想い人であった無防備な肉体を暴き始めた。

(−2007/12/21−)
現在の幽霊


 シュラは跪きながら教皇を見上げた。

 かの人の表情は常に仮面で隠され、公の場で垣間見るすべはない。
 ちらりと髪の色を確認したものの、それだけではどちらのサガであるのか判断出来なかった。
 大抵の場合、黒い方のサガは慈愛溢れた聖者らしい外面を保ったまま、密やかに入れ替わる。
 黒サガ曰く、身体ごと入れ替わるには善のサガを完全に押さえ込まねばならず、消耗が激しいらしい。
 また、黒髪紅瞳と化した姿を見せて良いのは、シュラやデスマスク、アフロディーテといったごく一部の前だけである事を考えれば、要所で白サガを支配し、彼の中から指示を出すほうがやりやすいのだろう。

 清らかに見えるサガの口から、邪悪な意思による言葉が紡がれるのを聞いた時、シュラが最初に思い浮かべたのは「遊星からの物体X」だった。物体Xは宇宙から飛来し、いつの間にか人間の中に巣食う。
 見た目も言動も本人のままに、取り込まれた人間は捕食者に代わる。
 目の前の存在も、サガであるのは見た目だけで、中身はいつの間にか人ならぬモノと入れ替わってしまっているのかもしれない。
 気をつけていないと、物体Xに食われてしまう。自分の中にもそれが入り込んでしまう。
 シュラの聖闘士としての本能は、早く彼を倒すべきだと警鐘を鳴らし続けてきた。。

 それなのに、あんなに警戒していたのに、いつの間にか自分は彼を邪悪だとは思えなくなっていたのだった。それどころか、彼に従い真実を隠匿する側にまわっている。
 何故だろう。一体、どうしてこうなったのだろう。

 跪くシュラを見下ろしながら、教皇が仮面の内で嘆いた。
「アイオロスは何故、死んでしまったのだ」
 自分が追討命令を出しておいて、サガは時折そんな事を言う。
「英雄と誉れ高かった彼が、あれほど簡単に死んでしまうなど」
「彼を倒すのは、簡単ではありませんでしたが」
 もう何度繰り返されたやりとりだろうと思いつつ、シュラは答える。
 対峙した時、アイオロスは既にサガによって大きなダメージを負わされており、おまけに片腕は無防備な赤子で塞がっていた。それだけのハンデがあったにも関わらず、シュラがアイオロスへ決定打を打ち込むことは、なかなか出来なかったのだ。
 シュラがアイオロスに勝てたのは、それが消耗戦であったからだ。
「生きていて欲しかったですか?」
「ああ」
 仮面の教皇は静かに呟いた。
「彼は私と戦うべきだった。そうすれば、私の方が全てにおいて勝っている事を、思い知らせてやれたというのに」
 その言葉は、シュラへというよりも、己へ言い聞かせているかのようだった。
「…あの男は逃げたのだ。私に殺される機会から」

 あの行動を『逃げた』と言うだろうか、とシュラは思う。
 はっきりと説明は出来ないものの、その表現は間違っている気がする。
 しかし敢えて異論は差し挟まなかった。
 この教皇の口から紡がれる言葉が、常に真意であるとは限らない。
 だから、いつものように聞き流した。
 シュラはまた教皇の髪へと目をやる。このサガは、どちらのサガだろう。

(いや、どちらのサガであろうと構わないか)

 そう思う自分はもう物体Xにとりこまれていて、本当の山羊座の黄金聖闘士はとっくに消えてしまっているのかもしれない。
 シュラは笑いだした。乾いた笑い声だけが、二人のほか誰も居ない教皇宮に響いた。

(−2007/12/23−)
未来の幽霊


 後味の悪い夢を見たような気がする。さりとて、このまま目覚めてしまうほど現実に惹かれもせず、意識を再び眠りに沈めようとしたら誰かの手が暖かく頬に触れた。
「サガ、早く起きないと遅刻するぜ?教皇が寝坊というのも体裁悪ぃだろ」
 ああ、この声はカノンだ。カノンが私よりも先に起きているというのは珍しい。しかし、教皇というのは何のことだろう。
 私はゆっくりと目を開けた。そこはもう暗闇ではなく、覗き込んでくるのは私と同じ顔をした双子の弟。
 カノンは、まるで保護者のように私の額へおはようの口付けを落とした。
「朝食の用意が向こうに出来てる。ヨーグルトは今朝がた村の連中が持ってきてくれたやつだ。サガはあれにタイムのハチミツを混ぜるの好きだったよな」
「……」
 起きぬけだからと言うわけではなく、私は恥ずかしながら直ぐにはカノンの言っている意味を理解できなかった。
 まんじりと弟を見つめ返した後、浮かんだ言葉も凡庸だ。
「教皇というのは、誰の事だ」
「はあ?」
 カノンが呆れたような声を出す。
「まだ寝ぼけているのかよ。お前以外に誰が教皇だというんだ」
「馬鹿な」
 はっきりと目が覚めて、寝台の上へ起き上がる。
「では、ジェミの聖衣は誰が」
「オレに決まっているだろう。朝から失礼だなお前」
 カノンが気を悪くしたような顔で、私の鼻を指で弾く。それを避ける事も出来ずに私は唖然としていた。
「…私が教皇なら、アイオロスは?」
「射手座だろ。お前が始終補佐としてこき使っているようだが。なあ、さっきからどうしたんだ、サガ」
 寝台脇へ立っていた弟が、シーツの上へ腰を下ろしてくる。
「執務のしすぎでネジが飛んだか?疲れているのなら今日はオレが代わろうか」
 言葉は悪いものの、その声色には労りの気持ちが篭っていた。
 片手が伸ばされ、額に押し当てられる。熱を計る動作だと気づいたのは一瞬後だ。
 悪童であった弟が、心から私を心配している。触れたてきたその体温が心地よい。
 ほんの僅か、流されても良いかと思った。だから、次の言葉を搾り出すのには時間がかかった。

「…私に触れるな」

 カノンが驚いた表情で手を離した。
 思いもよらぬ事を言われたとでもいうように目を丸くして、それから傷ついた顔までしてみせている。
「何を言っているんだ、兄さん」
「私を兄と呼んでいいのは、本物のカノンだけ」
「だから、オレだろう」
 私はシーツの上の手を強く握り締めた。
「確かに私は、こうあって欲しいとかつて未来を願っていた。これは私の浅ましい望みか」
「サガ」
「現実には私もカノンも大罪人…だが、夢に逃げるつもりはないのだ」
「…」
 目の前のカノンの表情がすとんと抜け落ちた。彼は表情のないままに口元だけで哂った。
「弟が生きていて、そのうえ改心していて、己も死んだ後に贖罪の一端を果たせた…それこそが都合の良い夢であるかもしれないのに?」
 そう言うと、カノンだったものは形を無くして霧散していった。
 本物ではないとはいえ、カノンの姿をしていたものが消えていくのはいい気持ちではない。
 一人分消えた空間から、声だけが響く。
「夢を楽しむことも出来ぬ、無粋な男よ」
 もはや幻惑の体裁をととのえるつもりもないのだろう。私は小さく溜息をついた。
「このような悪夢ばかりを、どう楽しめというのだ。…ヒュプノス」
 眠りの神の名を呼ぶと、周りの景色も全て消えて、黒い虚無の中に私だけが座り込んでいた。
 真っ暗な空間の中で、互いの声だけが響いた。
「どれもお前の願いなのだろう?殺した男に抱かれ、真っ直ぐな部下をとりこみ、弟をジェミニとする…叶えてやって異を唱えられるとは心外だがな」
「…」
「眠りも死も生も本人が見る夢に過ぎん。現実か否かに大きな差はない。どれを楽しむかはお前次第だ」
「そうかもしれん」
 私は言う。
「だが、夢の中であれ、彼らを汚す事は許さない」
「そうか?」
 眠りの神の言葉は淡々と紡がれていて、悪意によるものであるのか、気まぐれによるものであるのか、それよりももっと何かを伝えようとしているのかは判らなかった。

「これは、お前の夢ではなく、彼らの夢かもしれないぞ?」
 ヒュプノスの声はそれきり消え、深淵には私一人が残された。

(−2007/12/28−)
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