カノンが目を開けると、見知らぬ人間が顔を覗き込んでいた。
いや、この強大な小宇宙は人間では有り得ない。カノンをして身をすくませるほどの圧倒的な力。それを惜しげもなく無造作に振りまきながらも、あくまで自然体でいる。持っている小宇宙の総量が人間とは桁違いなのだ。
「…誰だ?」
と尋ねると、相手は面白そうな顔をした。
「なるほど、このポセイドンのことまで忘れるとは」
「海皇だと…!?」
攻撃をするつもりがなくとも、反射的に小宇宙が高まったのは仕方のないことだろう。聖域に暮らすものでなくとも、海神ポセイドンの名を知らぬものはいない。その神が何故、いや、そもそも何故自分がこのような状況にあるのか、まったく覚えが無い。
改めて辺りを見回すと、白を基調とした部屋の中に、自分は寝かされているようであった。
とりあえず、ポセイドンに害意はないように見えるが、油断はならない。神の思考回路は人間の及ぶところではないだろうし、どこで不興を買うか判ったものでもない。
そのポセイドンは随分若く見える。
(オレよりも幾分年上の見た目といったところか?)
苦労を知らなさそうな顔立ちに不釣合いな、他者を跪かせずにおかぬ王者の気品。不可思議なほどの好意的な視線。カノンは冷静に検分しながら、脳裏で脱出の計算を働かせていた。
しかし、突然ポセイドンが噴きだすのを見て眉を顰める。
「シードラゴンよ、この依り代は今のおまえよりも年下だ。それから、逃げ出す算段など考えずとも良い。おまえの兄に知らせは出したゆえ、そろそろ迎えに飛んでくるだろう」
「心を読んだのか!」
「おまえが判りやすい顔をしているだけの話よ」
機嫌良さそうに話すポセイドンとは裏腹に、カノンの表情は険しさを増す。状況が全く掴めないのだ。いま、兄を呼んだと言っていたが、何故ポセイドンがサガを知っているのだろうか。
(まて、そんな事よりも)
カノンは戦慄した。ポセイドンは兄を呼んだと言っていた。それが双子座のサガと知ってのことならば、双子座が二人居るという聖域の秘事を、海界の主神が知っているということになる。
(オレのせいで、知られたのか?意識の無いあいだに、脳を探られたということも有りえる)
拳を強く握り締める。どうサガに、聖域に言訳をすればいいのだ。
「そのように毛を逆立てずともよい」
ポセイドンは完全に面白がっている。何が面白いのか判らないが、神からすれば人間の矮小な様子自体が、滑稽に見えるのかもしれないなとカノンは思った。
「サガを呼んでどうするつもりだ。オレを人質に脅すつもりならば無駄なことだ。サガは…兄は私情になど流されん。いつでもオレを切り捨てるだろう」
それでも、臆することなく言い放つと、ポセイドンは目を丸くして…腹を抱え、神にあるまじき様子で爆笑した。
「確かにワイバーンの申していたとおり、記憶が巻き戻っているようだ」
「何!?」
想定外の言葉をかけられたカノンは、その内容の意味するところに絶句した。
「シードラゴンのカノンよ、おまえはいま記憶を失っている」
呆然としているカノンの頭を、慰めるようにポセイドンの手が撫でた。
2010/5/1
◆2
「記憶が巻き戻っているとは、どういうことだ」
出されている手を振り払い、食って掛かる勢いでポセイドンへ尋ねるも、答えが返る前に部屋の扉が突然開いた。びくりとそちらを見ると、白の法衣を着たサガが慌てもせずに立っている。敵神の前であるというのに、何故かサガはとても落ち着いていた。いや、サガは簡単に隙を見せるような男ではないが、どこか奇妙な違和感を覚えさせられる。
法衣の裾を床に滑らせるようにして、サガはゆっくりと歩いてきた。
「カノン、あれほど世話になっておきながら、ポセイドン様を忘れるとは」
いつもどおりの柔らかな声で、サガは信じられない事を言った。
「…何を言っている、サガ」
「わたしの事も忘れてはいまいな?」
サガは常にきらきらと神のような小宇宙を振りまいているが、それは本物の神の前でも変わりなかった。不自然なほどにいつもどおりのサガは、真っ直ぐに寝台脇まで進みより、カノンの顔を覗き込む。
「サガ、これは一体どういうことだ。何故ポセイドンがおまえを呼ぶことが出来るのだ。それに、オレがポセイドンの世話になっただと?」
どこか気持ちの悪さを感じながら矛先をサガへ向けると、横からポセイドンがそのサガの肩を抱いた。サガは特に嫌がる素振りも無く、好きなようにさせている。
カノンは唖然とした。
(ポセイドンとサガは、自分の知らぬ間に知己を結んでいたということか?しかし、くそ真面目で聖域かぶれのサガが、敵神と通じるようにも思えん)
では、何らかの精神支配を受けているのかもしれないと観察するも、そのようには見えない。わけがわからず動揺しているカノンを見透かしたかのように、ポセイドンが口を歪めて笑った。
「何もおかしくはない。この者もおまえも、共に我が海将軍なのだから」
「ありえない」
カノンは即時に断言した。とくに『サガが』というのは、ありえないと思われたのだ。己の記憶に障害が出ているということは認めつつも、それを利用して海神が双子座に何らかの罠をしかけようとしているに違いないと考えている。
「サガ、オレに判るよう状況を説明しろ!」
ぶっきらぼうに言い放ったカノンへ、サガはにこりと微笑んで言い返した。
「本当に忘れてしまったのだな。わたしはリュムナデスだ」
その口調はあくまで普段のサガそのものだった。
2010/5/2
◆3
「おまえが、リュムナデスだと…?」
一応カノンも聖闘士の端くれである。その単語には聞き覚えがあった。ポセイドンのいうとおり、海将軍の一人だ。兄が何故そんなことを言い出しているのか、ただでさえ記憶の無いカノンは、半分パニックになりかけている。その様子をみたサガは、少し気の毒に思ったのだろう、言葉のトーンを落としてゆっくりと話しだした。
「まだ勘違いがあるようだが、わたしは『リュムナデスだ』と言ったのであって、『サガだ』と言ったのではないぞ」
「な…」
「わたしの能力は、相手の最愛の人間を写し取ること。おまえの兄好きは、随分昔から変わっていないのだな」
「!!!」
言い終わるのとほぼ同時に、寝台から跳ね起きたカノンの拳がリュムナデスへ向けられる。それを防いだのは海皇の小宇宙だった。かつて星矢によって放たれた黄金の矢を防いだように、見えぬ壁がカノンの攻撃を届かせない。
「落ち着くがよい、シードラゴン。リュムナデスに悪意は無い」
「ふざけるな!おまえたちの目的は何だ!」
「ふむ、兄でないと判った途端に拳を撃つとはおまえらしい」
ポセイドンは幾分意地悪そうな笑みを浮かべた。
「このポセイドンを知らぬと言い、リュムナデスの写し取ったサガの姿が若いことから判ずるに、どうやら三叉の矛を抜く以前まで記憶が飛んでいるようだ」
納得しているポセイドンとは対照的に、それほど気の長いほうでないカノンは爆発寸前だった。
いつものカノンであれば海千山千のしたたかな反応をみせただろうが、なにぶん彼の記憶はスニオン事件以前まで巻き戻っており、中身はまだ15歳そこそこ、闘士としての経験値がほとんどない時代の精神状態なのである。兄へのコンプレックスも身に秘めた思春期時代のカノンにとって、心を読まれたあげく最愛の人間としてサガの形を取られたということも、耐え難い屈辱であった。
「次にその顔で言葉を発してみろ、殺してやる」
吐き出された言葉には遠慮もなにもない。リュムナデスは目をしばたいて口を噤ぐみ、ポセイドンはまた面白い物を観察するような表情に戻った。
「落ち着けといった。今からおまえにわかるよう説明してやろう」
海皇はカノンへ座るよう促したが、カノンは無視して睨み返した。その無礼を怒るでも無理強いをするでもなく、ポセイドンは肩をすくめて己だけ椅子に腰をおろす。立ったままのカノンを見上げながら、海皇は語りだした。
「シードラゴン、かつてスニオン岬の岩牢に閉じ込められたおまえは、そこに封じられていた我が神具の三叉の矛を引き抜き、海界へおりた」
唸りながらもカノンは耳を傾ける。その牢は重罪人用であったはずだが、己の素行の悪さを思えば、岩牢入りも不自然ではない。
「海界で海龍を名乗ったおまえは、我が海闘士たちを利用して世界征服を目論み、それを阻まんとした聖域に破れて海界神殿を崩壊させた。その後は双子座の聖闘士としてアテナと冥界へ乗り込み、ハーデスの野望を阻止したのだ」
「いい加減なことを言うな」
話し始めたばかりだというのに、カノンはすぐさま嘲りの篭った目で否定した。さすがにサガの顔をしたリュムナデスが叱り付ける。
「ポセイドン様にその口の利き方は何だ」
「その顔で次に言葉を発したら殺すと言ったぞ」
殺気立つ二人の間に立ったポセイドンは軽く息をついて、穏やかに諭す。
「シードラゴンよ、すべて本当のことだ」
「嘘を付くな。サガがいるのに、オレが双子座の聖闘士として働く事はありえん。そもそも、オレが戦に破れたくらいで聖域の手駒として動くだと?信じられるか!」
「神は嘘をつかぬ」
静かに、しかし反論を許さない大いなる小宇宙が広がり、部屋中を満たした。それは荒ぶる波が小さな入れ物へ流れ込み、中を埋め尽くしたかのようであった。記憶を失っていても、カノンの身体は満水時のスニオン牢内を連想して竦み、知らず汗がじっとりと流れる。
気色ばんでいたカノンも口をつぐんだ。神の強大さを感じ取るには充分な一瞬であった。力を極めた者だからこそ身にしみる格の違い。冷静さを失ったままに叫んだものの、頭に血を上らせて無闇にあらがうのは己にとっても得策ではないとカノンは判断する。
冷静さを取り戻すと、カノンは非常に頭の回転が速かった。
「…失言は、お詫びする」
「判ればよい。あとの説明はおまえの兄がするだろう」
いまの短い説明だけでは、まだ判らない事ばかりであったが、とりあえずカノンは状況を整理する事にした。説明が嘘でないとするのならば、交戦後に海界と聖域で何らかの協定が結ばれたのかもしれない。それなら、黄金聖闘士であるサガと海界との間に何らかの交流があるのも判る。海界が敵でないなら、現状はそれほど最悪ではない。
しかし、胸中には苦いものが混じっていた。今のカノンにとって、聖戦を引き起こしたらしい事については、全く心も痛まない。だが、引き起こした戦で負けたという事実は受け入れがたかった。カノンはサガと同様に、かなりプライドが高い。それは己の実力に対する自信の表れだ。サガ以外は敵ではないと思うからこそ、世界を支配する野望も抱く。
実感のない敗北の宣告は、そのプライドを酷く傷つけた。
(いや、それよりも)
カノンは鉛を呑んだような気持ちになる。
(今の話が本当なら、オレは聖戦を引き起こした張本人ということになる。ただでさえ潔癖で正義感の強い兄が、そんな弟を許すはずがない。サガはどんな顔でオレを迎えにくるのだろうか)
考え込んでしまったカノンをよそに、ポセイドンがついと視線を空中へ向けた。
「来たぞ」
はっと顔をあげると、部屋の天井ちかい空間が捻じ曲げられていた。そこにひらいた異次元の穴から、馴染んだ黄金の小宇宙が漏れてくる。ゆっくりと暗黒空間を押し開くようにして、すらりと美しい青年が降り立った。
カノンは思わず目を見開いた。それは確かにサガであったが、自分の知るサガよりも明らかに年をとっている。リュムナデスの化けているサガと比較すれば、そのことは一目瞭然だ。しかし、重ねられた年月はサガの容姿に全く影を落していない。天使と謳われた容貌は、どこか憂いを含んだ完璧な秀麗さへと成長し、鍛えられた体は大人の男としての風格を増している。ぴんと背筋の伸びるような高潔な小宇宙はそのままだ。これ以上はないと思っていたサガの完璧さは、まだまだ磨き足りなかったのだという事を思い知る。
自分のおかれた状況など吹き飛んでしまうほど、カノンはサガから目が離せなかった。
いっぽうサガは、カノンをちらりと見てから、まずはポセイドンへと膝をついた。
「正規のルートを通らず、申し訳なく思います」
「構わぬ。道を繋いだのは余だ。外交手続きを挟むのは面倒であろう」
「連絡を下さったご好意に感謝いたします」
サガの態度もカノンを驚かせた。カノンの知る兄は、相手が誰であれ膝を付くような男ではない。
カノンの視線に気づいたのか、サガがにがわらいをした。
「身の程も礼儀も、多少は身に付けたつもりだ」
「今度は本物だろうな」
「何の話だ?」
サガは一瞬首をかしげたものの、己の姿をしたリュムナデスが同席していることから、直ぐに状況を察したのだろう。
「兄の真贋もわからぬ弟を持った覚えは無いぞ、カノン」
突き放しているように見えて、目元は笑っている。
カノンは恐れるように兄を見た。どうも知っているサガと反応が違う気がする。このサガにどう接して良いのか判らない。サガについて判らない事があるということが自体が不安を煽る。記憶の無い間に一体何があったのかも疑念ばかりだ。勿論そんな弱気を表に出すカノンではないが、サガはそれを読み取ったのか、近付いてきて手を差し出した。
「自分の事がわからないというのは、怖い事だろう。わたしはそれを良く知っている」
「…サガ」
兄から当たり前のように手が差し出されたことにも、カノンは驚く。先ほどまでのリュムナデスの化けたサガのほうが、よほどサガらしい。
それでもその手を取ったのは、不安よりも差し出された手が嬉しかったからだった。
サガがポセイドンを振り返る。
「落ち着くまで、わたしのところで海龍をお預かりしても良いでしょうか」
「このような時にまで、外交辞令的な物言いをせずとも良い。弟が兄のところへ行くのに許可など必要なかろう」
海皇がそう言葉を返すと、サガはカノンの手を握ったまま、黙って頭を下げた。
相変わらず状況が判らぬままのカノンは、山のような疑問符を胸に、サガの開いた移動用の異次元のなかへと足を踏み入れたのだった。
2010/7/6
◆4
異次元空間を渡りながらも、サガはカノンの手をしっかりと握って離そうとしない。こんな風に手を繋いだのは、まだ互いにガキだった幼い頃以来ではないかとカノンは思った。握られた手をみれば、そこにはサガの手と寸分変わらない自分の手がある。つまり、自分もまたサガと同じだけ年を経た肉体を持っているということだ。
自分がこのサガと同じ顔をしているとは、どうしても思えなかった。
また、手を差し出されたことは嬉しいが、繋いだままというのは恥ずかしく、気詰まりである。
「おい、普通についていける」
異空間移動において、離れ離れにならないための措置ならば、こんなことをせずとも付いて行く能力が自分にはあるのだ。ぶっきらぼうに伝えると、サガはにこりと微笑んだ。
「誰も見ていない」
「何を考えている。オレにまで偽善者顔をしても通用しないぞ」
思いと裏腹にきつい言葉を突きつけてしまうのは、カノンの無意識の癖のようなものだ。反抗期の子供が母親に対するときの口の利き方と同じで、拒絶と甘えの含まれた関係性の確認作業である。カノンにとって今の言葉は拒否ではない。自ら手を振りほどこうとしないのがその証拠だ。
言葉の刃を向けてみて、サガが傷ついた顔をしたならば少しだけ後悔し、それでも決して自分から離れてはいかないことに満足感を覚える。それが今までの常であった。
だが、サガは一瞬だけ目を見開き、それから柔らかく目を細めた。
「確かに、おまえはわたしのことを良く知っているものな」
思わぬ反応で、カノンはまた戸惑った。いつものサガであれば、偽善者呼ばわりに怒るか非難の目つきを向けるはずだ。下手をすると懇々と聖闘士の正道について諭そうとする。
それが、この慈愛に満ちた眼差しはどういうことだ。
サガの余裕は、カノンを苛つかせもした。
(怒らないのは、適当にあしらわれているからではないか?)
ポセイドンの話が嘘偽りないのであれば、サガはカノンを決して許さないはず。それとも、大人になったサガは完全にアテナの聖闘士として、偽善者として完成してしまって、カノンの事などどうでもよく流せるほど遠くへ行ってしまったのだろうか。弟にまで仮面を被るほどに。
そう考えると、先ほどまでの嬉しかった気持ちは沈んで、腹の奥の方が気持ち悪くなった。
「オレは大罪人なんだろ?聖域へ戻ってどうするんだ。上手いこと言って、また監禁でもするのか」
カノンの足がふつりと止まる。手を引いていたサガの足も必然的に止まった。
「そのようなことはしない」
「しかし、監視はつくだろう。いや、おまえが監視役なのか。逃げないように手まで握って」
噛み付くようなカノンの視線をうけ、ようやくサガが目を丸くした。
「確かにおまえの記憶がない間は、保護者を兼任するつもりだが」
「ふん、黄金聖闘士様の弟がこんな大罪人では、何をやらかすか心配で放置もできないってあたりだろう」
「心配で放置できぬのは確かだが、そのような理由ではない」
「じゃあ、何だよ。あいつらも今のおまえも信用出来ない。オレは聖域になんぞ戻らん」
さあ、どうするとカノンはサガの顔を見た。またスニオン岬に放り込まれる可能性だってあるのだ。帰る理由なんて、自分にはない。
殴られる覚悟で身を硬くしていると、サガが顔を覗き込んできた。
「聖域に戻るのは、いやか」
「…ああ」
「記憶の無いおまえの立場で考えると、疑念ばかりだろうな。落ち着いて説明をするにも、双児宮では気が休まらぬというのも無理はない。では、どこへ行きたい?」
カノンは今度こそ唖然とした。聖域を出たいと告げて、サガが了承する。そんなことがありえるとは思えなかったのだ。
「おまえは本当にサガなのか」
「おまえのなかのわたしは、一体どんな人間なのだ」
サガが少しだけ困った顔をする。
「だって、普通ならおまえ、怒るだろう。聖戦を引き起こした弟なんて、軽蔑して切り捨てたいんじゃないのか」
「もちろん怒っているぞ」
「じゃあ、どうして」
「覚えていないかもしれないが、おまえは、アテナの愛に触れて改心したのだ」
「は?だから不出来な弟も許すって?」
「違う。わたしが怒っているのは、そこだ」
「はあ????」
「アテナの大いなる愛情は、それは深いものだ。おまえの心の闇を溶かすほどに。だが、わたしとて負けないくらいには、おまえを大切に思っていたのに…おまえには全く届いていなかったのだと思うと、自分が情けなくなった。怒っているのは、過去のわたしに対してで、おまえにではない」
話が思っても見ない方向へ進み、カノンは完全に混乱した。
「ちょ、ちょっと待て、おまえ、やっぱり偽者だろう」
「…それほどまでに、わたしは優しくなかったか?」
「い、いや、そんなことは無いが」
説教をされると反発するカノンだが、真正面から好意を示されると、それはそれでどうしていいのか判らない。目の前のサガは、自身を怒っていると言っているが、『拗ねている』ようにしか見えない。どうしてアテナの愛では改心して、自分の愛では改心しないのだと言っているようなものだ。
(サガがオレを?え?え?)
ぽかんと口を開けているカノンをどう捉えたのか、サガは再度手を握りなおした。
「そうだ、どうせなら療養を兼ねて南の島にでも行ってみないか。コンドミニアムを借りれば、安宿住まいよりは利便もいい」
「そ、双児宮の守りはどうするのだ」
言い返しながら、まるでサガの台詞のようだとカノンは思った。真面目なのはサガの役どころで自分ではないはずなのに、サガがおかしいと調子が狂う。何かにふっきれたように、このサガは屈託が無い。
「常駐せずとも、他の黄金聖闘士たちが交代で十二宮に詰めているから心配はいらぬ。それに」
「それに?」
「実はわたしも罪人なのだ」
「な…どういうことだサガ」
「無人島もいいな、おまえと二人だけで」
「サガ!」
怒鳴り返しても、サガはにこにことしている。暖簾に腕押しとはこのことだ。
大人のサガは、自分の知るサガよりもずっと手に負えなくなっているのではないかという予感がして、カノンは記憶を失ってから初めてどうしたらいいのか途方に暮れた。
2010/7/26
◆5
サガが異次元通路の出口を開いたその先は、見知らぬ路地の一角だった。景色はエーゲ海の島々の町なみに似て、石造りの住まいが建ち並んでいる。白壁は光を反射し、眩しいほどだ。裏路地なのか、建物の背に囲まれていて、人の気配はない。そういった場所をうまく選んだのだろう。
「ここは…」
「コスタ・デル・ソル」
短い答えだったが、カノンは頭を巡らせて納得した。地域についてはカノンの空間軸判断とも一致し、嘘はなさそうだ。コスタ・デル・ソルは有数の観光地であり、ロングステイ向きの地でもある。3ヶ月以内ならばビザの必要もない。魚貝類も豊富で、ギリシア人でも食の違いに苦労せずに済む。暫く過ごす外国としてはうってつけだ。
記憶のないカノンは気づかなかったが、シードラゴンの支配する北大西洋海域を選んだのは、サガによるささやかな海界への配慮でもあった。
太陽の海岸と呼ばれるその地で、青空を背に立つサガは、まるで1枚の絵のように風景に馴染んでいる。とはいえそれは視覚上のことだけで、カノンにとって観光地とサガという組み合わせは、とても違和感があった。カノンの覚えている限り、生真面目なサガは、休暇であろうと休もうともせず、心身を鍛えることに余念がなかった。聖域を抜け出して悪事や享楽を楽しんでいたカノンとは、まったく対照的な兄なのだ。
大人になったからといって、あの性格が直っているとは思いがたい。
「どこかへ行く前に、まずこの格好を何とかしないとな」
「あ、ああ…そうだな、サガ」
そういえば、今まで気にも留めてはいなかったものの、サガは聖域の法衣で、自分は海界のものと思われるシンプルな部屋着〜聖域での雑兵服に似ていて、それよりずっと素材の良いもの〜である。どちらにせよ、聖域やその周辺村では通用しても、一般社会でそういうわけにもいくまい。
「カノン、こちらへ」
さっさと歩き出したサガを慌てて追うと、誰とも行き会わぬうちに、目立たぬ小さな門構えの建物の前に出た。よく見ると門にプレートが張ってあり、スペイン語で宿泊施設名らしきものが書かれている。門の奥に見える扉は閉められて、とても客を迎える宿とは思えないが、サガはその門を躊躇せずに開け、中へと入っていった。
玄関で呼び鈴を押すと、しばらくして男が出てきて頭を下げた。自分たちの風体に驚かぬところからして、一般宿ではないとカノンは確信する。なりゆきを見守って黙っているカノンをよそに、サガと男は短く言葉を交わし、男は二人をそのまま部屋へと案内した。通された部屋はゆったりと広く、落ち着いた内装で、台所や家具も整えられたアパートメントタイプにしつらえられている。男はサガへ鍵を渡して、そのまま出て行った。
「おい、馬鹿にしているのか」
男の気配が十分離れてから、カノンは兄を睨んだ。この格好に驚かないのは聖域関係者であるからだろうし、サガが手配できる宿となると、どう考えても聖域の拠点の1つだろう。聖域の息がかかった場所では、聖域から出た意味がない。
視線を受けたサガは、少し困ったように微笑んだ。
「大丈夫、聖域関係ではあるが…ここはわたしと極一部の者以外、誰も知らない」
「だからそれが信用できねーって言ってんの」
「さらに言えば、この建物の名義は、わたしのものだ。むろん、偽名でだが」
「は?何だよここ、おまえの別荘か?」
「いいや…わたしも来るのは初めてだ」
言っている意味がまるで判らず、カノンの眉間のしわが深まる。サガはカノンへ部屋の椅子を勧め、自分も正面の椅子へ腰をおろした。
「まず、おまえが失っている記憶の間に起こった出来事を話そうか」
待ちかねていた話をようやく切り出され、カノンもここは大人しく話を聞くことにする。
「むかし、おまえはわたしに女神と教皇の殺害を教唆した。それだけではなく、わたしの中の闇を暴いた。そのため、わたしは怒り、おまえをスニオン岬へと閉じ込めたのだ。おまえはそこで海王の神具・三叉の矛を見出し、海界へ降りた」
ポセイドンから聞いた話とも一致する。カノンは頷いて先を促した。
「一方、わたしはおまえが死んだものと思い…己の中の闇に負けた。おまえと同じように、わたしの内に潜む闇を見抜いていたシオン様をスターヒルで殺害して成り代わり、その後は赤子であったアテナの殺害も目論んだ」
静かに話すサガの表情は穏やかなままだが、カノンは息を呑む。
「アテナの殺害はアイオロスによって防がれ、女神は聖域外へ連れ出されたものの、わたしはアイオロスへ罪をなすりつけ、シュラを遣わして彼を殺した…おまえの言ったとおりであったよ。わたしの本質は悪だった」
そんな事は言った覚えがないと伝えようとして、声が出なかった。失った記憶の間のことなのだろう。確かにサガのなかに得体の知れぬ悪が潜んでいることは感じていて、偽善者よと心の中で罵ったことはある。それをそのまま過去の自分は口にしたに違いない。そしてサガは、言葉どおりに受け取ったのだ。
弟が『女神の聖闘士サガを全否定した』という事実として。
しかし、自分は本当のサガを単なる悪のかたまりのようになど思ったことはない。伝えたかったのは、別のことだったのだろうと思う。胸がじくりとする。双子である自分には判る。その言葉でどれだけサガが傷ついたかを。
でも、自分だって悔しい。どうやら、未だにサガには本意が通じていないのだ。…通じるわけがないけれども。
サガは構わず話を続けている。
「おまえは海界で海将軍筆頭となった。世界を支配する野望のため、わたしは聖域で、おまえは海界で13年間を過ごし…女神の帰還によってわたしは自害をした。聖域へ戦いを挑んだ海界もまた女神の前に破れ、おまえは女神の愛に触れて心を入れ替えることとなる」
「……」
サガはとつとつと順番にカノンへ語っていった。ハーデスとの聖戦や、さらにその後の闘士の復活、この建物が偽教皇時代に配置された、反逆黄金聖闘士用の隠し拠点の1つであることも。
合間に何度かカノンが質問をして、それにサガが答えながら補足をする…そんな会話が一応の終わりを見せたのは、建物に入ってから1時間は過ぎた頃だった。
カノンは椅子に座ったまま、組んだ手へ目を落とした。
少し情報と気持ちを整理する時間が欲しかった。
「悪いが、外で食事というー気分ではない。暫くのあいだ独りにしてくれ」
そういうと、サガはあっさりと頷いた。
「判った。食事は先ほどの男に、部屋で食せるものを用意させよう。わたしは着替えて買い物に行って来る」
「着替えまで用意してあるのか、ここは」
「ある程度は…しかし、サイズがぴったりという訳にはいかない。外出ついでに服も見繕ってこようと思う。おまえは何か欲しいものはあるか?」
自分のいない間に、カノンが逃げ出すとは露とも思っていないらしい。
酒、と伝えるとサガは苦笑しながらも了承した。断られることが前提であったので、未成年の飲酒をサガが認めたことに一瞬驚いたものの、考えてみれば今のカノンは立派な成年男子なのだった。サガの話を聞いたあとでも、簡単には慣れそうにない。
サガは本当にカノンを残して出かけてゆき、カノンは寝室へと移動してぼふりと寝台の上へひっくり返った。
見上げた天井に、先ほどのサガの顔が浮かぶ。
カノンは大きくため息をついた。自分がどうしたいのかも、よく判らなかった。
2010/12/21
◆6
1時間ほどして、サガは紙袋をいくつか抱えて帰ってきた。
『服だ』と言って寄越したシャツやスラックスは、スタンダードな無地の面白みもないデザインで、しかも、サガのものと色違いのお揃いだった。
「おい、何でおまえとペアルックしなきゃならんのだ」
思わずカノンがこぼすと、サガが首を傾げる。
「わたしと同じサイズだろう。同じものを買えば間違いはないと思ってな…気に入らなかったか?」
「相変わらず、『同じもの』か。オレにも好みがあるのだが」
遠慮のない不満に、サガが苦笑する。
「それはすまぬ。とりあえず外出するのに問題ないものを選んだつもりゆえ、あとで自分で好きなものを選んで買いなさい」
素直に謝罪をする兄から、カノンは視線を逸らした。またやってしまった。そんな顔をさせたかった訳でも、そこまで気に入らなかったわけでもない。なのについ、サガをなじる癖がついている。これではただの駄々っ子だ。
そもそも、サガには外で服を買う機会などまずなかった。一緒に暮らしていたころは支給服で済ませていたし、その後は、さきほど聞いた話が本当であれば偽教皇として生活していたのだ。聖域を抜け出して遊んでいた自分とは違う。己の趣味で私服を選ぶとか、似合う服を買うという当たり前の習慣がない。服など丈夫で長持ちすればそれでよいと思っている筈だ。
だからカノンのために、カノンに合いそうな服を買うという発想もあるわけない。
(わかってる、そんなこと)
わかっているのに、サガが受け止めてくれるから、ぶつけてしまう。
重くなりそうな空気を誤魔化すように、カノンは話題をずらした。
「買うと言っても、金はどうするのだ」
尋ねると、サガは1枚のカードを渡してきた。てっきりサガ名義のカードだろうと思ったら、自分の名前が書いてあり、カノンはちょっと驚く。
「よくオレの名前でカードなんざ作れたな」
聖域の力があれば、戸籍のない人間であってもカードを作るのは簡単だろうが、その場合は他人になりすますか、偽名を使わせるはずだ。自分は双子座のスペアだ。秘された存在の自分が、本人名義のカードを渡されるとは思いも寄らなかった。
「おまえはもう、影の存在ではない。それはおまえが自分で作ったものだ。海界からシードラゴン用の公用カードも預かっているけれども、この状況で使うのも憚られるし、自分のものは自分で賄いなさい。金は聖域からではなく、おまえの口座から引き落とされるゆえ、無駄遣いをすると後で大変なのは自分だぞ?」
「ふぅん」
今のカノンにとっては、初めて触れる自分用のカードである。
(盗んだカードでも兄の財布でもない、自分個人の財産があるなんて、大罪人であるはずなのに、随分と待遇が良くなったものだ)
これが、表の世界に出るということなのだろうか。
サガは他の紙袋から、ごそごそと食べ物や酒を取り出している。酒のことなど疎そうなサガが、カノンの好きな銘柄のジンを買ってきていたので、それにもかなり驚いたのであった。
「オレ、おまえに好きな酒の話なんてしてるんだ?」
「そういうわけではないが、おまえはよくこの酒を飲んでいるので…」
少しはにかんだようにサガが言う。酒を飲んで帰った時の、不機嫌そうなサガの顔しか覚えていない身としては、対応の差にとまどうほどだ。
(大人になれば酒を飲んでも許されるんだな)
当たり前のことだが、たいそう新鮮である。
「カノン。良ければ、一緒に飲んでもいいか?」
なので、続けてサガが提案してきた言葉も、一瞬なにを言っているのかカノンには判らなかった。
「おまえ、酒を飲むようになったのか」
「わたしは、嗜む程度に。だが、アレが、おまえと飲みたいらしい」
「アレ?」
「おまえに会わせなければならぬ、もうひとりのわたし」
「は?」
「おまえの看破したわたしのなかの闇が、おまえに会いたいと言っている」
言いながら、サガはうつむいた。様子がおかしい。怪訝に思う暇もなく、空気が変わった。
神にも例えられた静謐な小宇宙が、昏い闇に取って代わる。小宇宙だけではない、髪が、やわらかな青みを帯びた銀糸が、先のほうから黒く染まっていく。うつむいて前髪で隠された顔の、口元だけがニィと笑みの形を作った。
(なにかに、乗っ取られているのか!?)
魔物か邪神が身体を奪ったとしか思えぬ変化だ。
「おい、サガ、しっかりしろ!」
慌てて両肩を掴んで揺さぶると、サガはゆっくりと顔を上げた。
みたことのない表情と、紅の瞳がカノンを見つめてくる。
「ふふ、初めまして…となるのか?わが弟であり、生みの親である者よ」
闇の写し身であるかのような姿に変わったサガは、驚いて声もないカノンへ向かって、嫣然と微笑んだ。
それはカノンの知らぬサガだった。彼は冷蔵庫から取り出した氷をつかい、ボンベイサファイアでロックを作っている。くるくるとマドラーをまわす手つきは優美で、爪先まで綺麗に手入れをされていた。いつも思うが、本当に戦士の手なのかと思うほど無骨さがない。思わずカノンは自分の指先を確認してみた。こちらは普通に切られた爪で、何となく安心する。
サガが酒を用意してくれているので、手持ち無沙汰なカノンは、紙袋から肴を取り出して並べることにした。やたら高そうなチーズに乾き物にキスチョコ。センスのないつまみである。しかし、土地勘のない場所で、服と食料と酒を1時間程度で揃えてきたのだから、買い物慣れしていないサガにしては、よくやった方だろう。
機嫌がいいのか、このサガはずっと笑みを浮かべている。だが『神のような』という表現からは程遠い笑みだ。
「おまえ、本当にサガなのか?」
ぼそりとカノンが疑問を投げかけると、何がおかしいのかサガは声をあげて笑い出した。
「わたしは、おまえの指摘した”サガのなかにある、おまえと同じ悪”だ」
「だから、覚えてねえって…それに、なんで髪の色とか変わるんだよ」
「別人格だからな。わたしは二重人格なのだと、ムウが言っていたそうだ」
あっさりと話しているが、人格とともに髪色も変わる二重人格なんて、カノンは聞いたことがない。
しかし、それよりもカノンの知らぬサガがいることのほうが、衝撃であり問題であった。
「…いつから?」
「さあ。ものごころついた頃には、もうわたしは存在していた。だがアレが…もうひとりのわたしが、出てくるなというので表立ったことはない。そんななかで、おまえは日々わたしを肯定してくれた。おまえのおかげでわたしは人格という形をとることが出来た。完全に表へ出てくることができたのは、おまえがわたしを暴き、アレに教皇殺害を示唆したときだろうか」
記憶を失っているカノンに、後半部分の覚えはない。それでも、己がこのサガの出現に関与したらしいことは把握した。
(オレはずっとサガのことを、偽善者だと思っていた。オレと同じ悪心を秘めているはずなのに、澄まして外面よく笑顔を振りまいているのをみると胸糞が悪くなった。教皇を目指しているのも知っていたから、何で力ずくでその地位を得ようとしないのか不思議でしょうがなかった。だけど)
でも違った。病気とは違うのかもしれないが、特殊なことにサガはこころをふたつ持っていた。そう考えると今までの多くの疑問に得心がいく。
(オレの知っているほうのサガは、本当に真っ直ぐだったのだ。ずっとそばに居たオレが、それに気づかなかったなんて)
先ほどまでのサガは何も言わなかったが、おそらく教皇を殺し、女神の殺害をも目論んだというのはこちらのサガだろう。
(サガの狂気を、オレが後押しした…)
目の前の黒いサガは、自分のグラスへもジンを注ぎ、こちらはジンジャーエールで割っている。
「この酒はおまえのようだと思ったので、アレも銘柄を覚えていたようだ」
唐突にサガがそんなことを言いだした。
「は?どこが?」
「瓶のいろや雰囲気が、何となくな…それゆえ、わたしもこの酒は好きだ」
どう答えていいのか、返事につまる。
サガは紅眼をカノンへ向けた。
「おまえはかつてわたしを肯定してくれた。だから、わたしもかつてのおまえがすることを肯定しようと思う。アレは反対するかもしれぬが、おまえに望みがあるというのならば、手を貸すぞ」
思わず見つめ返す。それはずっとカノンの望んでいた言葉だった。
「今度こそ二人で世界征服しようぜ、といったら、それでも手を貸すってのか?」
「ああ」
短いが即答だ。本気で言っているのが伝わってくる。
「ただし、今となっては二人がかりでも無理だろうな。女神もポセイドンもわたしたちだけでどうにかなる相手ではないし、周囲も黙ってはおらぬ。最終的には仲良く心中コースであろうが」
「……それでも手を貸すと?」
弟の挑戦につきあって、一緒に死んでもいいと言っているのだ。
わずかだが、自分の声が震えたことに、カノンは驚く。
「おまえは、記憶にない敗北だの野望の終焉など、納得いかないのだろう?カノン」
不意にカノンの脳裏を、いつものサガの口癖がよぎった。
『このサガが死んだときには、おまえが双子座として』
サガが独り先にいなくなること前提のその言葉が、カノンは大嫌いだった。対して、こちらのサガは一緒にと言ってくれた。震えるほど嬉しいのに、それも嫌だと心のどこかが叫んでいる。
(サガのこの言葉が欲しかったんじゃないのか、オレは)
自問自答するなかで、カノンははっと気づいた。
(地上の平和だの、見たこともない女神だののためにサガが死ぬのは嫌だが、オレに付き合って死なれるのもごめんだ。オレはサガが死ぬことなんて、1度だって望んだりしていない)
カノンの望みは、サガを乗り越え、サガに自分を認めさせたうえで生きることであって、一緒に死ぬことではない。
「…負けるのが判ってるなら、オレを止めろよ」
ゆっくりと深呼吸をつくように、カノンは返事をした。そうしないと、また声が震えそうだったのだ。
「やってみなければ判らない、と言わぬのか」
子供のように黒のサガが首を傾げるのを見ていると、なんだか己の野望などどうでもいいことのような気がしてくる。
「一緒にといってくれたから、それだけでいい」
サガの死ぬような野望なんて、割に合わない。
カノンは手の中のグラスを、サガのグラスへかちりと合わせて乾杯した。
2012/10/20