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◆鎖の無い犬小屋
◆1

「どこへ行くのだ」
 皮袋へ荷物をつめている兄を見て、デフテロスは慌てた声を出した。
「まだ考えておらんが、どうにでもなるだろう」
 アスプロスは振り向きもせず、荷物をまとめる作業に専念している。ほんの少し遠出でもする程度に予測していたデフテロスは、兄の返答を聞いて立ち尽くした。
「この家を出て行くのか」
「ああ」
 袋の口を丈夫な紐で縛り、ようやくアスプロスは顔をあげる。
「今までお前の人生の邪魔ばかりしてきたな。これからは互いに独立した個人として、自由に生きよう」
「双子座の聖衣は」
「それはもう、お前のものだ」
 穏やかに笑むアスプロスの表情は柔らかいが、その目には確固たる決意が浮かんでいる。
 デフテロスは呆然と兄を見つめた。
 兄が聖闘士であることを捨てるかもしれないとは、漠然と気づいていた。
 しかし、まさか自分まで切り捨てられるとは思っても見なかったのだ。
 アスプロスが皮袋を背負う。
「デフテロス、おまえはもう、おまえ自身だ…俺からの自由を、お前にやる」
 いつか弟が叫んだ言葉を、アスプロスは覚えていたのだろう。
「俺がただひとつお前に与えられるものだ」
 その微笑みに、どこか寂しそうな表情が混じっているのは、アスプロスもデフテロスと離れがたく感じているからに他ならない。
「元気でな、デフテロス」
 きびすを返そうとしたアスプロスの眉間へ、デフテロスは無意識に魔拳を放った。



「こんな処へ来客とは珍しいな」
 アスプロスの住まいは辺鄙な田舎町の外れにある。聖域から離れ、連絡すらとっていなかったというのに、どうやって見つけたものか、獅子座のレグルスが尋ねてきたのだ。
「アスプロス、急に出て行ったのに手紙もくれないんだもん」
「どうやってここを見つけたのだ?」
「オレが目を凝らして辿れない痕跡なんてないさ」
 くるりと目を光らせて、レグルスが笑う。もともと天才と呼ばれていた少年だったが、ますます天賦の才に磨きが掛かっているようだ。
「そうか」
 アスプロスも笑ってレグルスを迎え入れた。狭い部屋だが、掃除が行き届いていて、こじんまりと落ち着いた雰囲気がある。
「仲良く暮らしてるみたいだね」
 レグルスが言うと、アスプロスは目を丸くした。
「そんなことまで分かるのか」
「それくらいは、オレでなくてもこの家見れば判るよ」
 アスプロスは、また「そうか」と首を傾げると「デフテロス!」と呼んだ。
 奥から出てきたデフテロスは、何も言わずにレグルスを見る。
 アスプロスはデフテロスを招きよせて、その髪を撫でると苦笑しながらレグルスを見た。
「犬を飼い始めたのだ。聖闘士をしていたころは、生き物を飼うことなど考えられなかったが、一緒に暮らしてみるとなかなか愛着がわいてな」
 怪訝な顔をしているレグルスを気にも留めず、アスプロスは続けた。
「しかし、珍しいな。デフテロスは俺以外の人間がくると大そう吼えるのに今日は大人しい。お前のことが気に入ったのかもしれん」
「アスプロス…デフテロスは弟だろう」
「は?」
 アスプロスが手を留め、心底呆れたような視線を向ける。
「俺に弟などおらん」
 レグルスは目を見開いた。それからゆっくりとデフテロスに視線を向ける。デフテロスは何も言わず、それから静かに視線を逸らした。
「遠路を尋ねてきてくれたのだ。茶でも出そう」
 屈託の無いアスプロスの顔をもう一度レグルスは見る。

(飼われているのは、兄の方か)

 レグルスは小さくため息をついて、勧められた椅子へと腰を下ろした。

(−2011/8/11−)




 俺は犬を飼っている。大きくて賢い犬だ。
 名をデフテロスという。
 時折つれていく狩りの場面などで、とても獰猛な犬種だとわかるのだが、普段は吼えもせずおとなしい。図体のわりには静かにのっそりと、いつでも俺の後を付いてくる。昔からデフテロスはそういう犬だった。
 そうだ、昔から一緒にいた。なぜレグルスに最近飼い始めたかのように話してしまったのだろう。
 子供の頃からデフテロスは傍に居て、一緒に育った。修行のときは流石にそばに置けなかったが、鍛錬の時間が終わるまで、じっと闘技場の片隅で俺を見つめながら待っていた。他人を噛まないように、口輪をつけさせられていた気がする。犬を飼うことは禁止されていたけれども、誰にも内緒にすることと、その口輪を条件に許可が下りたのだ。ああ、だからレグルスにも黙っていなければならなくて、あんな風に説明したのだ。
 聖域を離れた今は口輪の必要など無くなったので、放し飼いにしている。
 そんなものはなくとも、デフテロスが他人を噛むことは多分ないのだが、一度家に人を呼んだら大そう怒ったので、それ以降家へ他人を入れるのはやめた(レグルスは別だ)。デフテロスは人前に出るのがあまり好きではないようだ。
 食事も一緒だ。犬用に別の食事を用意するのが面倒ということもあるが、昔からデフテロスとは同じ物を分け合ってきたのだし、今さらその習慣を変えることもあるまいと思う。
 ただ、デフテロスは犬なので、テーブルには付かせない。俺が食べるテーブル脇の床で食させている。大人しく座って食べているデフテロスへ、俺が食べ切れなかったパンなどを差し出すと、ぱくりと食いついて指まで舐める。口元から覗いてみえる犬歯が、普通より大きい。狼の血が濃いのかもしれない。
 食べ終わった後は食器を洗い、蝋燭の火で本を読んだり、デフテロスへ今日の出来事を話したりする。デフテロスは黙ってそこにいるだけだが、ちゃんと俺の話を聞いているのが判る。犬はしゃべることはないが、目が雄弁に気持ちを表すのだ。この時間のデフテロスの目は、とても優しい。
 夜もデフテロスは家の中で眠る。犬を飼う場合、普通は外飼いで番犬とするのかもしれないが、部屋の中にデフテロスの気配のあるほうが何となく馴染む。もちろん俺は寝台で、デフテロスは床にだ。床にも毛皮が敷いてあるので寒くはないはずだ。
 だが、今日はじめて、デフテロスが寝台へ上がろうとした。叱ることもせず、ついそのままにさせたのは、何となく肌寒かったからかもしれない。暫く俺の隣に寝そべっていたデフテロスは、顔をあげて俺の顔を舐めた。
「くすぐったい」
 俺が笑うと、デフテロスはさらに顔を寄せ、鼻面を唇へ押し当ててくる。息が熱い。
 ぞくりとした。
「デフテロス」
 なのに押しのけもしないで名を呼んだのは、どうしてだろう。どうしていいか判らない。
 巨体が俺の上にのしかかった。犬が人間の上に乗るときは、自分が上位であると示しているのだったか。まさかデフテロスに限ってそのようなこと。これは、じゃれているだけに違いない。
 デフテロスが俺を見下ろしてくる。真っ直ぐに俺を貫くような視線は、獰猛な肉食獣のそれだった。今にも牙で喉笛を食いちぎられそうな予感が、胸にせりあがる。しかし、いま俺はそれを期待しているのだろうか?
 押しのければデフテロスは俺に逆らわないだろう。なのに、身体が動かない。身体の芯に熱いものが集まってゆく。もしも、もしもデフテロスが俺を…
 そこまで考えて俺は跳ね起きた。何を考えているのだ、俺は。
 デフテロスは、犬だ。
 犬に反応するなんて、俺はどうかしている。欲求不満にしても程がある。
 距離をとって顔を抑えた俺のことを、デフテロスは追いかけてきもせずに、寝台の上からじっと見ている。
「…俺は」
 明日あたり、外で解消してこよう。そう思った途端、思考を読んだかのようにデフテロスが唸った。
 そんなことは許さないと言っている。
 俺はどうしたらいいのだろう。俺はおかしいのだろうか。 

(−2011/10/2−)