オカルト文化において、山羊は時折バフォメットとして姿を見せる。
ユダの山羊とも呼ばれるそれは悪魔として描かれたものであり、聖書内で山羊を悪の象徴として扱うことなどに影響を受けているのだろう。
シュラは十二宮で山羊のシンボルを見るたびにそれを我が身へと連想し、自嘲した。サガ側についたことは後悔していない。力あるものが正義を名乗るのは当然のこと。
けれども英雄を追い、この手で刻んだ苦渋は別のものだ。兄とも慕ったアイオロスに聖剣を向けて受けた血潮の熱さは、何年たとうが忘れられるはずも無い。
自分はあの堕した黒山羊とおなじ。そのように、シュラは自身を評していた。
今日も教皇宮で小さな溜息をついたシュラを、偽教皇である黒いサガは見逃さなかった。
「余の采配に不満でもあるのか、シュラ」
サガがシオンになりかわって以降、この場には最小限の人間しか立ち入りが許されなくなっている。今も人払いがなされ、表ざたには出来ない類の勅命がシュラに下されたばかりだった。
サガは教皇の壇座を降りると、下で畏まっているシュラの傍へ静かに降りてくる。
教皇を僭称するだけあって、その小宇宙は研ぎ澄まされ、エクスカリバー以上に触れるものを切り刻む鋭さを持っていた。
このサガは、いざとなればその攻撃的小宇宙で、忠実な配下である山羊座のシュラをも何の躊躇いも無く殺すだろう。しかし、シュラはその冷酷ともいえる強大な小宇宙にかえって安心を覚える。
黒いサガのゆるぎない意思に逆らえないのは、自分に迷いがあるからだと思う。
シュラは偽教皇の疑念を否定し、緩慢に気を散らせていたことを謝罪した。
「申し訳ありません…出向先がテッサリアと聞いて、昔のことを、少し…」
ケンタウロスが山に住むと言われたその地の名を出され、サガは納得したように小宇宙を鎮めたものの、呆れの感情をこめてシュラを睨みつけた。
「また、思い出しているのか。アレにせよお前にせよ、飽きぬことだ」
その赤い瞳には、哀れみの色すら見える。白サガと同列に扱われたことに、どう反応して良いものかわからず困っていると、『堅物で不器用なところまで似ている』と、その瞳はますます呆れの色を濃くした。
その血を思わせる不思議な瞳孔でシュラを見たまま、サガは手を伸ばして頬に触れてくる。
「嘆くことはあるまい。あの男を殺すよう命じたのはわたしであって、お前は我が刃となっただけのこと。奴を殺したのはこのわたしだ」
確かにシュラは、討伐の命を受けたときには真実を知らず、黄金聖闘士として教皇の勅命に従ったにすぎない。それを思えば、全ての罪を偽教皇に帰してサガをなじっても良いものを、生真面目な山羊座の男は決して行為の責を他人に渡そうとはしなかった。
サガは再度シュラに囁く。
「わたしが、アイオロスを殺したのだ。だから、お前は迷うな」
シュラは悲しそうな顔をしたが、その言葉にはきっぱりと異を唱えた。
「…いいえ。俺が殺したのです。そんな風に、俺の中から、あの人を奪わないで下さい」
サガは自分こそがアイオロスを屠ったのだと事あるごとにいう。
シュラにはそれが、射手座の全てを自分の中へ取り込みたいという両サガの憎愛に思えた。
自分の中からアイオロスがとりあげられるのか、それともサガがアイオロスにとられてしまうのか、山羊座には判別出来なかったが、どちらであってもそれは嫌だった。
あの時に、シュラはアイオロスの反逆などという、とてつもない嘘への疑惑を覚えていたものの、勅命という言葉の前にそれを突き詰めて考えることはしなかった。
そうして アイオロスに聖剣をむけた瞬間に感じた逡巡とわずかな歓喜。
憧れていた男へと全力で牙をむけ、血の海へと沈める獣の喜び。
そこには確かに危うい高揚も混ざっていた。
黄金聖闘士として、大人以上の矜持と思考能力をもっていた山羊座だが、それでも齢はまだ十になったばかりだった。その高揚に気づいた時、それはまだ情緒面には未熟な部分も残る少年を打ちのめした。
その揺らぎが、シュラをして黒サガの誘いに乗らしめたのだった。
シュラの応えに不服そうなサガが、ふいと視線を外す。
「お前はまるで、アザゼルの山羊だ」
思わぬ喩えに、シュラが目を丸くし、疑問符をその視線にのせた。
サガは視線をはずしたまま、乾いた宮内へ漂わせるように言葉を零していく。
「古来ユダヤの民は生贄の山羊に人間の罪を全て負わせて、砂漠に放ったという。アザゼルの山羊とは贖罪の山羊のことだ。だが、わたしはお前にわたしの罪まで負わせるつもりは無い。…罪などとは思っておらぬが」
自分へのその評に、今度こそシュラは呆気にとられた。
咎人である自分を、そのようにサガが見ているとは思ってもいなかったので。
「教皇…」
「人がおらぬときには、サガで構わぬ」
「ではサガ、そんな風に言ってくれてありがとう」
「何故、礼を言う?」
本当に判らない様子で怪訝な顔をするサガに、シュラは微笑んで彼の黒髪を指にとり、口元へ運んで口付ける。
「…貴方はずっと強く、揺ぎなく支配してください」
俺が迷っても、ついていけるように。
黒い山羊の恭順を、黒い教皇は当然のように受け入れた。
ありがちネタなので山羊サイトを廻ったら幾らでも同じ話がありそうな予感です('▽`;)
怖いので、巡る前にアップしてみました。