やけに静かだと思いながら、タナトスは目を覚ました。
エリシオンは基本的に穏やかで喧騒などはないが、朝の支度を整えるはずのニンフたちの気配すらしない。怪訝に思いながらも寝台から身を起こし、夜のうちに用意されていた衣服に着替える。袖の長い法衣タイプだ。黒とみまがう濃紺の布に銀糸で縫い取りがしてある。本来であれば身支度を手伝う妖精も控えているはずなのだが。
異変を感じながらもタナトスに動揺がなかったのは、あたりにヒュプノスの神気が満ちていたためだ。おそらくヒュプノスが何かをしたのだろう。
部屋の外へ出ると、その予測は確信に変わった。給仕の女官たちも下働きのしもべたちも、すべて眠りについている。
タナトスは肩をすくめて、眠りの離宮へ向かうことにした。ヒュプノスにしては大がかりな悪戯だ。
一歩外へ出ると、それは宮のなかだけではなかった。道すがらさえずる小鳥もおらず、花々を飛び交う蝶すらみえない。
(何事だヒュプノス)
小宇宙通信で話しかけるも、いらえはない。
「……」
常ならば双子とはいえ、許可を得てから相手の宮を訪れるのだが、仕方なくタナトスはそのままヒュプノスの神殿へと踏み込んだ。こちらもやはり召使たちが深い眠りについている。客間を通り抜け、真っ直ぐに向かったのは、ヒュプノスの私室だ。タナトス以外、勝手に足を踏み入れることの許されぬ領域の、さらに奥部屋である寝室へ足を運ぶ。タナトスはわざと乱暴に音をたてて扉をあけた。
「…何をやっているのだ」
そこではヒュプノスも眠りについていた。返事のないことから想像はしていたものの、来室の音にも目を覚ます様子はない。
「起きろ」
念のため声をかけて、鼻をつまんだりもしてみたが、一向に反応がないままだ。
タナトスは腕を組んでため息をついた。意図はわからないが、これはまるで眠り姫だ。全ての従僕たちとともに100年の眠りにつく城の主。
ヒュプノスがほどこした強力な眠りを、門外漢のタナトスが解除など出来るはずもない。しかも、理由や解除方法を尋ねようにも、本人まで眠っているときた。
(おそらく、何かを目覚めの鍵にしているはず)
タナトスは考えて顔をしかめた。これはお約束というやつなのだろうか。
一瞬躊躇したものの、タナトスはまずヒュプノスの額の金の星へ口付けた。
…変化はない。
ため息をつき、1回深呼吸をしてから、こんどは唇へキスを落とす。
触れるだけの、羽のような接触だ。
しかし、想定外のことにそれでも何の変化もない。
今度こそタナトスは困った顔をした。
(まさかこれ以上のことを?)
これ以上ってなんだと、タナトスは内心で自分に突っ込む。
「どうしろというのだ、ヒュプノス」
さんざん逡巡したあと、こぼれ落ちた名前に眠りの神はぴくりと反応した。はっと凝視したその目の前で、ゆっくりと瞼が開かれ、長い睫毛の下から金色の瞳がのぞく。どうやら名前を呼べば良かったらしい。外ではヒュプノスの目覚めに合わせて他の者たちも一斉に動き出した気配がする。
余計な行動をしてしまった自分に赤面するが、どうせ誰も見ていないのだとタナトスはなかった事にした。
目覚めたヒュプノスは、あくびを1つこぼしてからタナトスを見上げてくる。
「おはようタナトス、来てくれたのだな」
「この状況では来るしかなかろう!何だこれは」
ヒュプノスは応えず、横になったまま布団の中から手を伸ばしてタナトスの手を掴む。
「誕生日おめでとう」
「は?」
繋がりがわからないのか、間の抜けた顔をしたタナトスを見て、ヒュプノスは楽しそうに笑った。
「誰よりも最初に、お前にそう言いたかったのだ」
「まさか、そのために全員眠らせたのか!?それならばお前が最初にオレのところへ来ればいいだけではないか」
叱るつもりが、そんな事を言われては何も言えない。妥協案として呆れ顔をするしかない。
「お前に私のところへ来て欲しかったのだ」
「…お前、オレに短慮だの言うわりに、これは深謀なのか」
「タナトス」
手を掴んで見上げたまま、ヒュプノスが訴える。
「私が欲しいのは、もっと別の言葉だ」
金の瞳が子供のように期待している。欲しいものを受け取れるのが当然と思っている瞳だ。
「ヒュプノス、誕生日おめでとう…まったく、いい歳をして甘えるな」
口先では怒りながらも、タナトスは苦笑しながら半身の望む言葉を返した。
2012/6/13