教皇宮の執務室で引き出しの整理をしていたサガが、「あ」という声あげた。
向かいの机で書類を書いていたアイオロスのペンを動かす手が止まる。
「どうしたんだい?」
「いや、その…」
言いよどんでいる様子を見て、アイオロスは首をわずかに傾げた。
サガが今おこなっているのは、叛逆時代の私物の整理だ。13年間を偽教皇として過ごしたサガと入れ違いに、この部屋はアイオロスのものとなる。それゆえ荷物を双児宮へ運ぶ準備をしているのだが、その中には闇のサガに属する品もあるだろう。例えば、表沙汰にしたくない裏帳簿だの抹殺リストだの。
そんなものが出てきたのかとも思ったが、公開する必要のあるものならば、サガが隠す事はないはずだ。それ以外のもので追求しないほうが良い内容のものなら、興味のないフリで流すこともやぶさかではない。
しかし、サガの表情からしてその類ではなさそうだ。
かといって、子供のように『机の奥から干からびたパンが出てきた』というようなことは、サガに限ってありえまい。
アイオロスの視線にサガが逡巡したのは僅かな時間だけで、すぐに引き出しの中から何かを取り出した。
「…今日という日に、お前の目に触れる機会を得たのも、縁というものかもしれん」
それは、瀟洒な金の匙に小さな陶器のセットだった。すすけてしまってはいるが、陶器はピッチャーのようで、白の地にオリーブを模した文様がセンス良く描かれている。
観賞用クラフトとしても可愛いが、執務机の中に入れておくようなものではない。
「13年前に、お前へ渡そうと思っていたのだ」
サガが苦笑する。まだ己の狂気に負ける前、アイオロスのために用意だけしておいたものなのだという。
「俺に?」
「お前はサジタリアスだから」
不思議そうな顔をしているアイオロスをその場に残し、
「少し待っていてくれ」
と出て行ったサガは、直ぐにミルク瓶を持って帰ってきた。
そして、さきほどのピッチャーへミルクを注ぐ。
「ほら、こうすると」
「ああ、ミルクディッパー(ミルク匙)か!」
ミルクディッパーというのはひしゃく型をした南斗六星の別名であり、射手座を構成する星群だ。他の星と組み合わされてティーポットとも呼ばれている。
傍を流れる天の川(ミルキーウェイ)と、そのミルクを掬うディッパー(匙)を、それぞれミルクピッチャーと金の匙に喩えて射手座であるアイオロスへプレゼントしようとしたのだろう。いかにも少年らしい、微笑ましい発想だ。
けれども、その贈り物は渡されることは無かった。
誕生日が来る前に、アイオロスは死んだからだ。他でもない、サガの姦計によって。
「渡すことのできなかったこれを、わたしは未練がましく机の奥にしまいこんだ。幸い、もう一人のわたしは興味を示すこともなかったから、捨てられずに済んだようだな」
静かに語るサガの目には寂寥の色が浮かんでいる。当時の事を思い出しているに違いない。
アイオロスは立ち上がってサガの傍に行った。
「これ、貰っていいかな」
「アイオロス…」
「射手座はミルクディッパーだから、俺はこの金の匙。こっちのミルクピッチャーはサガってことにして、俺の部屋に飾らせてもらうことにする」
「それは嬉しいが、何故わたしが天の川なのだ」
「天の川はgalaxias(銀河)だからさ。俺にとって君は、沢山の星を内に秘めたような人だよ。暗黒星雲を含むところも君みたいだし」
てらいもなく言い切ったアイオロスの顔を、サガは眩しそうに見つめてから視線をそらす。
「……わたしはそんなにきれいな人間ではない。しかし、ありがとう。その、これだけではなく、きちんと他にプレゼントも用意してある。あとで受け取ってくれ」
そっけない言い回しのようでいて、頬の赤みをみれば、照れ隠しだということはすぐにわかる。
(君のミルクを流させる予定がどうのとか言わなくて良かった)
珍しく甘い空気の流れる執務室のなかで、アイオロスは笑顔を崩さぬままこっそりそう思った。
2012/11/30