聖戦後の聖域において、私への風当たりは思ったより強いものではなかった。
もっと表立って罵声を浴びせられたり、石を投げられる覚悟をしていたのだが。
基本的に性根のまっすぐな住人たちは、溺れる犬をさらに叩くような真似はしないということなのだろう。私の精神の二面性を知っても、ただ哀れむような眼差しで見るだけだった。
目を向けると皆、控えめにそっと視線を逸らす。時折強い視線で睨む者もいたが、その色には憎しみよりも諦念が込められていた。誰もが矜持と優しさから私の過去に触れず、無関心という距離を保とうとした。
それは黄金聖闘士も同じ事で、蘇生後に改まって私への接触があったわけでもなく、会話を交わすこともない。聖域が落ち着くと、それぞれはかつてのように世界各地の持ち場へと散っていった。シュラも、アフロディーテも、デスマスクも行ってしまった。
体温ほどの生暖かな聖域の空気がやんわり私を包み込む。皆の視線が酸素となって私の喉に流れ込み肺を埋め尽くす。反逆者であった私がどう振る舞い、どう償っていくのかを聖域が見ている。
いつのまにか私の体内は、私の意志ではなく聖域の意思で満たされる。そして知るのだ。皆が結局は罪人を許すのだという事を。
冷たい空気を吸いたくなって、私はスニオン岬へ降りていった。かつて弟を閉じ込めた場所だ。
牢は硬く閉ざされていて中へ入る事は出来なかった。潮は次第に満ちてきていて、床の部分を浸食しつつある。
岩場から降りて足を波に浸けてみた。海水は空気よりも濃く肉体を包み込んでひんやりと熱を奪っていき、それが心地よかったので私はさらに全身を浸した。波で陸に押し戻されぬよう、少し沖へと身体を運ぶ。
力を抜いて横になると中途半端に浮かんだ。もっと浮くかと思ったのだが、筋肉ばかりのこの身体では浮き袋のようにはゆかぬだろう。
息を吐き出したら心持ち沈んだので、肺から空気を押し出していく。聖域で詰め込まれた酸素は体内で一層熱をもちながら、海の中で泡となった。沈むごとに青い海面を透かして太陽が揺らめいた。その煌きに目を惹かれる。
(アイオロスと、話したいな)
ふとそう思った。アイオロスはもともとギリシアの育ちであるため聖域に残っているが、次期教皇としての修練に忙しく、話す機会はそうない。
私が話す機会を持とうとしなかったということもあるが。
海中で少し苦しくなってきた。
空気を求める生理的要求を無視して、アイオロスに小宇宙を飛ばしてみる。思えば蘇生してからのち、自分から誰かに連絡をとろうとしたのは初めてかもしれない。
幸い彼はすぐにつかまった。
『ああ、この思念はサガかな。何だろう?』
『アイオロス、このあと少し時間があるだろうか』
出来ればこの場から空間転移をしてでも会いたいと思った。彼がいれば聖域の中でも風が流れるかもしれない。
いま私は波間越しにではなく、直接太陽を見たかった。
だが、彼は申し訳無さそうに断りを入れてきた。
『ごめん、少し用があって今すぐ会うのはちょっと…夜でもいいかな?』
忙しい身の彼に我侭を言えるわけがない。こちらは別に用などないのだから。
『いや、いつでも良いことなのだ。こちらこそすまない。気にしないでくれ』
小宇宙での通信を切り終えると、私は少しだけ考えた。
このまま沈んでしまおうか。
どうせ波間から顔を上げても、呼吸が出来ないのは同じなのだ。
聖域の手の及ばない海神の海の底ならば、地上よりは冷たい。
だが、結局私はそんな自分を笑うと何事も無かったかのように岸へ戻った。
身体を濡らす海水は僅かに海神の小宇宙を含み、このあたりがポセイドンの神域に近い事を感じさせる。潮の匂いがカノンを思い出させた。
「馬鹿じゃねーの、お前」
私は驚いて声のするほうを見た。丁度カノンの事を考えていたところだったので。
岸辺から少し離れた場所で、弟が腕組みをしながら、睨むようにこちらを見ていた。
カノンの口が悪いのはいつもの事だが、何故ここに居るのだろう。
シードラゴンの仕事のために、海界に常駐しているはずの弟が。
そんな私の心を読み取ったかのように、カノンは口を開いた。
「お前が海界と聖域の境で小宇宙だだ漏れにしてるからだろ。どこのマヌケな聖闘士が領海侵犯でもするのかと来てみれば」
口調が完全に呆れている。そういえば結界の狭間となる地域であるのに、小宇宙を落とすことすら忘れていた。こんな基本的な事を慮ることもせず、自分勝手に内面に埋没していた己がおかしくなって、私は声を上げて笑い出した。
「馬鹿じゃねーの」
カノンはもう1度言った。そう言われても、笑いが止まらない。
じっと見ていた弟が私の手首を掴んだ。
「お前、こっちに来いよ。オレの暮らしている神殿なら、空き部屋もある」
私はようやく笑いをおさめ、目をぱちりとさせて弟を見た。
「私が海界の結界をくぐると、領海侵犯になるのだろう?」
「オレが付き添っていれば問題ない」
掴んできた手は熱かったが、まだ乾かぬ海水の雫が腕から流れて熱を冷やしていく。
その対比が気持ちよかった。
「お前が聖域から離れられないというのなら今日だけでも。誕生日くらい、オレと共に過ごしても良いだろう」
「…誕生日?」
ああ、そんな日があることも忘れていた。
私は忘れていたのに、カノンは覚えていたのか。
私は何故聖域に留まっているのか考えてみた。
贖罪のためならば場所は問わないはずだ。聖闘士が地上の為に活動するにあたっての拠点は、かつての童虎のような特別な使命がない限り、自由とされている。
それならば、私が家族と離れて暮らす理由などあるのだろうか。どうして私はこの場所に居たいと考えていたのだろう。
肩越しに振り返って聖域を仰ぐ。遠くに十二宮を頂く峰が見えた。
聖なる砦は太陽の光を反射して白く輝いていた。
「お前のところへ行ってもいいか?」
そういうとカノンはまた馬鹿にしたような顔で、許可なんざ求めるなと答えた。
アイオロスは聖域の麓の村から戻ってくると、双児宮へと向かった。
教皇補佐となるためのハードな修養の時間をやりくりして何とか作り出した半日を、彼は双子座の友人を祝うために宛てるつもりだった。
昼過ぎに久しぶりにサガの声を聞いた。小宇宙を通じてのものだったが、彼から連絡が来たということが嬉しくて足が速まる。
先ほど村にたった一軒だけしかない菓子店で、小さいながらケーキを買い求めた。路上の花売りから数本の花も見繕ってもらう。それが彼の午後の用事。
贈り物としてはささやかだが、将来の教皇とはいえ、個人的に動かせる金などは僅かなものだから仕方が無い。友人であるサガは贈り物の価格を気にするような人間ではないし、アイオロスは高価な物を与えるよりも、ただ最近元気が無いように見えるサガを喜ばせたいのだった。
着いてみると双児宮は静かだった。宮の主はまだ居ないようだ。
あたりはまだ明るいが、ギリシアは陽の落ちが長いだけで時刻上ではもうすぐ夜にかかる。
風が涼しくなってきていた。アイオロスは宮の入り口の石壁に寄りかかり、待つことにした。
もう二度と聖域に戻る事の無い双子座の聖闘士を。
ぜ、全然祝えていない内容なので前日に…静かに海側に飲み込まれる双子話。
サガを聖域に留めていたのは太陽のアイオロス。